6-2 ため息の理由(わけ)
「了解。まあとりあえずは向こうの社内協議の結果待ちって感じか」
朝、出勤してすぐに円香と2人で営業部部長の奥平へ状況の報告をした。部門の違う智章にとって、奥平へ直接報告をするのは珍しいことだった。
昨日の夕方、東京開発不動産の担当者である谷口へ資料を再提出してから、特に動きはない。
「あとは競合にまた動きがなければいいんですが」
円香が言った。
奥平は深く椅子に座ってどっしりと構える。その前に立つ円香の姿勢は、とても綺麗だった。
「まあなるようになるだろ。相手のあることだから仕方ない」
「……はい。けど、少し過程が変わっただけで計画は崩しません」
円香はあくまで毅然とした態度でそう言った。こうして話している円香を見ていると、改めて営業部のホープなのだと実感する。
智章はただ、そんな円香の様子を隣で立って見守るだけだった。
「ま、あんまり気負いすぎんな。他にも案件はあるし、ほどほどに頑張れよ」
そんな風にして奥平への状況報告は終わって、円香とそれぞれの席へ戻った。
自然と緊張の糸も緩む。
「はあ」
席に着くと同時にため息が漏れた。
報告をしたのはほとんど円香だったが、それでも緊張するものは緊張する。何よりも、朝からずっと気を張り詰めていたことで、今になって少しその反動が来たような気がした。
背もたれに大きくもたれると、「はぁ」と、二度目となるため息が漏れた。
と、今度はそれにすぐ隣から反応があった。
「またため息」
「うわっ!」
声の方を見上げると、いつの間にか円香が隣に立っていた。
「驚かせてごめんね、もう少し話をしておきたくて」
隣の席に円香が座る。
「朝から思ってたけど、やっぱり今日も疲れてそう」
「俺、そんなに分かりやすいかな」
「割とそうじゃない? 私が気にしすぎてるだけかもしれないけど」
朝から腹を立てたりため息をついたり、元気な顔をしていないのは間違いない。私的な疲れを持ち込んで、また円香と良くない空気になることは避けたかった。
「ごめん。ちゃんと切り替えるよ」
「それは、今打ち込まないといけないことなの?」
円香は智章にそう訊いた。また責められることを想像していたが、意外にもそれは純粋な疑問のような響きだった。
えっと、と少し考えてから答える。
「今じゃなきゃダメっていうのは間違いないかな」
あの世界を旅するのは、きっといつまでもできることじゃない。
そして、彩人とのことも余計に引き延ばして解決することじゃないのは間違いない。
「そう、やっぱり甲斐くんはいいね」
「そうかな。別に楽しいことではないんだけど……」
もし遊びに夢中になっているせいで寝不足なのだと思われてしまっているなら、その誤解は解いておきたい。
ただ、それについては取り越し苦労だった。
「別に遊んでるなんて思ってないよ。私だって甲斐くんのことは分かってるつもりだから」
「本当?」
「変な話してごめん。仕事の話をしないとね」
円香はそう言って机の上に手帳を置いた。
「ねえ、谷口さんが競合相手に情報を流してるとかあり得ると思う?」
頭を仕事に切り替える。この東京開発不動産の案件については、他の心配事が多い中でも、常に気にかけてきたつもりだった。
その中で、ひとつの仮説は頭に浮かんでいた。
「誰かがうちの提案を漏らしているのは間違いないと思う」
あまりに都合の良すぎるタイミングで、競合からの横槍。そしてその提案内容も、こちらの提案が漏れてるんじゃないかと疑いたくなるくらい、正確に弱点を突いたものだった。
正確には、弱点というよりも論点のすり替えなのだが、2人にとって痛いところを突かれたのは間違いなかった。
「やっぱり?」
「ただ、谷口さんはうちを推してくれてるし、そんなことをするメリットがないんだよね」
「そうだよね。私も、そこだけが気になってて……」
可能性があるとすれば、谷口の周りの誰かが競合相手に情報をもらしたか。あるいは、競合がどこかで智章たちの提案を盗み見たか。
裏で何かが起こっていることだけは、間違いがなかった。
「とりあえず、どこから漏れたのかは突き止めたいところだけど」
言って、智章はチラと壁にかけられた時計を見た。その視線に、円香も気づいたようだった。
「あ、ごめん。このあと外出あるんだっけ」
「うん。どうしても定期訪問が必要なお客さんで」
「分かった。こっちの案件は私が進めておくから」
その後少し言葉をかわしてから、円香との会話を切り上げて外出のための準備に取り掛かった。
訪問先は電車で30分もかからない場所にあり、用件もほとんどご様子伺いのようなものだ。特に事前の準備も必要ない。
やがて会社を出た智章は、予定通りに一瞬で訪問を済ませることができた。予定している訪問先はその一社だけだ。
(渡邊さん、ごめん)
頭の中で、ひとこと円香に謝罪をする。訪問を終えた智章は、まっすぐ会社には戻らずに、電車の途中駅で下車をした。どうしても、今日のうちに行きたい場所があった。
駅を出てから、慣れない道を記憶だけを頼りにふらふらと歩く。その場所へ行くのは5年ぶりで、その5年前も数えるほどしか行ったことがない。
だが、駅からそれほど遠くないこともあり、しばらく歩いているうちに見覚えのあるアパートまでたどり着いた。道を覚えていたことに自分で驚きつつ、階段をひとつ上って目的のドアの前に立った。
(あとは、詩月みたいに引っ越してないといいけど)
チャイムを鳴らすと、やがて「はい」と応答があった。聞こえてきたのは、よく知っている男の声だった。
安堵して、それからその男に告げる。
「彩人、俺だけど。上がっていい?」
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