3-5 梨英の魂
「え、これどういうこと?」
4階の楽器を見た瞬間、明らかに梨英が焦り出した。
事前に話に聞いてた通り、一角にはいろいろな楽器がまとめて置かれている。きっとこれが今日のイベントで使う楽器なのだろう。全部で10以上の種類はありそうだ。これらがステージの上で一斉に演奏されたら、きっと相当の迫力になるだろう。
だが、梨英の表情に不安が浮かんでいるのは、この楽器のすべてに「整備前」と大きく書かれたメモ紙が貼られているからだ。
「えっと、これって大丈夫なの?」
梨英はなにも言わず、ゆっくりとその楽器たちに近づいていく。それから、その一角にあるギターを一本手に取って、それを爪で鳴らした。
ジャーン、とギターの音が響く。それが正しい音階で鳴っているのか、素人には分からない。だが、梨英の表情を見ればその答えは明らかだ。
この音は、正しくない音だ。
「チューニング、最悪だ」
「え、そうなの?」
蒼汰が言った。梨英はうつむいて、その表情だけでどれだけ絶望的な状況なのかが伝わってくる。
「こんなの、客の前で弾けるかよ。ギターだけならあたしでも整備できるけど、他は無理」
「そんな……」
「あと1時間もしないで担当の人が来る。それまでにこれ全部整備なんてできるかよ」
梨英の顔には、いよいよ絶望の色が濃くなってくる。
智章にも、今がどれほど絶望的な状況なのか痛いほどに伝わっていた。
「とりあえず、上司に連絡してみる。休みだし、つながる望みは薄だけど」
「そうだね。なにかいい方法が返ってくるかもしれないし」
(こんなの、その場の慰めだ)
もともと、梨英にこれだけ仕事を押し付けるような上司だ。機転の効いた具体的な指示は期待できそうにもない。
梨英はカバンからスマートフォンを取り出して耳に当てる。やがて、どうやら無事に電話はつながったようだ。
「お疲れです、弦巻です。お休みの日にすみません」
社会人然とした電話の受け答えに、また少し悲しい気持ちになる。
当然、電話の向こうにいる上司の声は聞こえない。ただ、しばらく話を聞いていると、なにやら雲行きが怪しくなっていくのが伝わってきた。
「ちょっと待ってください、あれは整備前なんですよね? 確かに楽器がないよりはマシですけど」
梨英の顔を覗くと、明らかに狼狽えているのが分かった。次に蒼汰を見てみると、難しい顔をしている。
「いや、分かる分からないの問題じゃなくて……。客をバカにするなんて」
それから梨英は、「はい」と数回口にして上司の電話を切った。
電話を切った後、梨英はしばらくうつむいて黙ったままだった。それでも、話していたことの予想くらいはつく。上司が指示してきた内容はつまり――。
「整備前でもいいから渡せって。どうせ聞きに来るのは近所の子連れとかお年寄りだし、音の違いなんて分からないからって……」
今にも泣き出しそう梨英の声。
「あたし、もうどうしていいか分かんないよ」
梨英はそう言うと、その場でしゃがみこんでしまった。
いつも雑用ばかりを押し付けられて、こんな土曜日まで出社をして、それでも耐えられたのは、少しは音楽に関われているという想いからだった。
それなのに、今、梨英はその音楽を裏切ることを迫られている。
(やっぱり、相当堪えてるよな……)
「なにか、他に手はないの? 誰か会社で整備できる人とか……」
「今からじゃ無理。これだけの種類、整備できる人なんて限られてるし」
「なら、どこか他から借りるとか」
口にしながら、あまりに現実的でないことくらい自覚していた。これだけの種類の楽器を、今からどうやって貸してくれる人を探すんだ。そもそも、その考えには費用という観点が抜けている。
梨英はうつむいたまま、小さくつぶやく。
「このイベント、本当は上司の担当だったんだけど、用事があるからって今日の作業を押し付けてきて……。それで整備がまだなんて、思ってもみないでしょ」
こんな風に弱音を吐く梨英を見るのは、大学の頃を含めても初めてのことだった。
それくらいに今の梨英は弱ってしまっているのだ。こんなに酷い労働環境でも耐えられるのは、音楽に携われるからだと語っていたのに。
智章はもう、これ以上どんな言葉をかけていいか分からなかった。
「とりあえず、今すぐその上司をここに来させなよ」
なるべく怒りを押し殺した声で、蒼汰は言った。蒼汰の言葉も最もだ。そもそも、最初から梨英が苦労させられる理由なんてないんだ。
「あたしだって、できるなら最初からそうしてる。けど、それが頼めない相手だから困ってるんだろ」
梨英が声を荒げる。昔はよく彩人と口論をしていたが、その時とはまるで状況が違う。もっと弱々しくて、まるで子どものような印象すら受ける。
その瞬間、智章の頭にはふと一つのアイディアが浮かんだ。
(言っていいのか? こんなこと)
一瞬、それを口に出すことを躊躇った。だけど、自制が効かなかったのは、梨英をこんな風にした会社への怒りからだった。
「社長室の楽器は使えないの?」
「は?」梨英は一瞬目を丸くして、それからすぐに声を荒らげる。「そんなのできるわけないだろ!」
明らかに狼狽えているのが分かった。その迫力に一瞬気押されそうになるが、それでもここで引くつもりはなかった。
「けど、いつも整備してあるんでしょ? 楽器の種類もここにあるの以上にありそうだったけど」
「そうかもだけど、そんなの殺されるって!」
「じゃあ、梨英は整備されてない楽器を届けるの?」
嫌な言い方をしている自覚はある。だが、それくらいに不満が溜まっていた。
梨英の会社にも、変わってしまった今の梨英にも。
「智章、その言い方はさすがに……」
蒼汰が諭すが今は聞こえない。もしもこの状況にメイが立ったなら、迷いもせずに社長室の楽器を届けるはずなんだ。
「いやだ……」
梨英は、チューニングが狂っているというギターを抱えて、今にも泣きそうな声でこぼした。
「イヤなのに、どうしたらいいか分かんないんだよ……」
梨英はゆっくりと腕を動かして、指で弦を弾こうとした。が、爪先が弦に触れたところで、その手を止める。それから、だらりとその腕を力無く下ろした。
まるで、夢の中のメイと同じだ。
歌いたかったのに、歌えなかったメイ。歌えるのに、歌う資格がないと言う梨英。
「本当にそれでいいの? そこまで梨英の"魂"は死んじゃったの?」
――全部あたしの作曲なんだけど、全部にあたしの魂を込めてるし。
かつて梨英は、そんな青臭いことを本気で言えていたのに。今の梨英からは、まるでその“魂”を感じられなかった。
智章はさらに続ける。
「メイの物語を考えてる時、言ってたよね。『あの子の歌が世界を変えるんだ』って。でも、変わったのは梨英の方で、世界は変わらなかった」
「智章、もういいだろ。梨英だって悔しいのは同じなんだから」
蒼汰は優しい。だけど、この悔しさがきっと蒼汰は分からない。
智章は蒼汰を無視して続けた。
「これ、ずっと借りてたCD」
智章が差し出したのは、初めて梨英と2人で話した時に借りた一枚のCDだ。このCDには、梨英が作った曲のライブ音源が収録されている。梨英を説得しようと考えた時に、真っ先に思い出したのがこれだった。
「俺はさ、自分の作ったCDを堂々と名盤だって言える梨英のことが、本当に羨ましかったんだよ」
梨英は差し出されたCDを見つめて、歯噛みをした。
大丈夫、梨英には確実に届いている。
「智章さ、今それを持ってくるのは反則でしょ」
「反則でもいいよ。俺はただ、梨英には音楽と向き合っててほしいから」
梨英がゆっくりとCDを受け取る。それから、智章はカバンからもう一つ持ってきたものを取り出した。
「もう一つ。本当はちゃんと楽曲の依頼をする時に渡そうと思ったんだけど」
それは、ファイルにまとめられたゲームの設定資料だ。メイのキャラクター設定や、大まかなプロットなど、メイの曲を作るために必要な設定をまとめてある。
「なんでこんなの今持ってきてんだよ」
「曲を書くのに必要かなと思って。けど、今は純粋にただ思い出してほしいんだ」
メイという人物について。それから、メイの設定を考えていた時の梨英自身のことを。
メイというキャラクターは、まさにあの頃の梨英の映し鏡だったんだ。
梨英はCDを近くに置いてから資料の入ったファイルを受け取ると、一枚目に入れておいたメイのキャラクターデザインをじっと見つめている。
「智章ってさ、実は性格悪いだろ」
蒼汰が呆れたように言う。否定はできなかった。
「俺はただ、昔の梨英を取り戻してほしいだけだよ」
あのゲームの世界で所長を倒すためには、メイの歌が必要だ。そして、所長を倒すことができなければ、あるいは現実の命ですら危ういかもしれない。はじめは、その強迫観念から梨英に曲作りを依頼した気持ちはあった。
(だけど今は違う)
ゲームの中のメイが真っ直ぐだったからこそ、目の前の梨英が変わりきってしまっていたからこそ、智章はただ純粋に昔の感覚を取り戻してほしかった。
「あたしだって、この時は本気で信じてたんだよ」
じっと設定資料を見つめていた梨英がポツリとつぶやいた。
「だけど、今はもうそんな夢すら見られない。目の前のことに精いっぱいで、もう夢を見る資格すらないんだ」
「今だって、本当の梨英はまだ変わってないと思うよ」
梨英は資料を眺めたまま、不意に、クク、と笑い始めた。
「メイは自分を投影して作ったはずだったんだけどさ。なんか、遠くに行かれちゃったな……」
「メイはすごくカッコよかったよ。権力に飼い慣らされた民衆の目を覚まそうとして、たったひとり立ち上がったんだ」
「まるで自分で見たみたいに言うんだな」
本当に見てきたんだ。街がいよいよ危機的な状況になっても、支配されることに慣れて立ち上がることのできない民衆のことを、力強く鼓舞しようとしたメイの姿を。
「一応作者だからね。全部見えてるんだ」
「変なの。まあでも、作家ってそんなもんなのかな」
梨英が笑う。その表情が、少し柔らかくなったように見えた。
手に持っていた資料をCDの上に置くと、チューニングの狂ったギターを再び抱える。それから、弦の一つを爪弾いた。
ギィーン、と音が鳴った。
「ひっどい音」
梨英がまた笑う。
「ちょっと待ってて」
そう言って、梨英は近くの棚からチューナーを持ってきて、弦の調整を始めた。つまみを回しながら何度か弦を鳴らして、音を整えていく。しばらくして、梨英は「よし」とつぶやいた。
梨英は目を閉じて、小さく息を吸う。
ギターを構える梨英。その姿が、ゲーム世界で見たメイの姿に重なった。
(弾いて、梨英)
そんな智章の願いを受けて、いよいよ梨英は奏で始めた。
ギターの音色。心を震わす魂の振動。梨英は慣れた手つきで弦を弾き続ける。
耳についた大きなピアスもない。一部が真っ赤に染まっていた髪も、今は真っ黒だ。メイクだってナチュラルになって、当時とは印象も大きく変わっている。
それでも、ギターを掻き鳴らす今の梨英は、まさに大学の頃の姿のままで、現実の世界でメイと出会ったようにすら錯覚した。
(ああ……。俺が知ってる梨英だ)
見た目も状況もまるで昔と違うのに、智章の胸に込み上げてきたのは懐かしさだった。もう手に入らないと思っていた光景が今ここにある。
5年の時が経って、学生から社会人に立場が変わって、もう何もかもが変わってしまったと思ったのに。
その演奏がどれくらいの時間続いていたのかは分からない。
智章と蒼汰はそれに聴き入って、しばらくが経って、やがてその演奏は終わりになった。
「ごめん。あたし、ホントどうにかしてた」
「仕方ないよ。変わらないなんて、できるはずがないんだから」
自分を棚に上げている自覚はあった。自分だって、あの頃に持っていた熱量はもうどこかにやってしまった。
だからこそ、余計に梨英に懸けたかったのかもしれない。
「なんか、昔の2人っぽいな」
蒼汰が苦笑する。
「そうかな?」
「そうだよ。ずっと見てきたオレが言うんだから間違いない」
梨英は「さてと」と言いながらギターを置いた。
「もうどうにでもなれだな」
それから梨英はおもむろにスマートフォンを取り出すと、電話をかけ始める。おそらく、相手はあの上司だろう。
やがて通話がつながった気配がすると、同時に梨英が吐き捨てた。
「あ、もしもし? さっきのイベントの件ですけど、月曜日を楽しみにしててください」
電話の相手は、どういうことだ?とでも訊いたんだろう。
「整備前の楽器なんて届けられるわけないんで、社長の楽器を全部借りることにしました」
和菓子屋の前での電話が嘘のように、堂々とした声だった。
「責任? そんなの、担当のてめーが取れよ。せいぜい、今から社長への言い訳でも考えてろ!」
『き、貴様……!』
それを捨てゼリフに、梨英は通話を切った。最後、慌てた男の声がスピーカーから一瞬だけ聞こえてきたのが余計に爽快だった。
ふん、と一度鼻息を鳴らした梨英は、とても晴れ晴れとした顔をしている。
「お疲れ様」
「なんか、すごいすっきりしてるわ」
「いいな。オレも上司にそれくらい言ってみたいわ」
そんな時だった。
ピンポーン、と来訪者を知らせるインターフォンが鳴った。梨英についていくと、壁に設置されたモニターからインターフォンを押した人の姿が見えた。野球帽を被った若いその男は、きっと楽器を運びに来た担当者だろう。
『すいません。楽器受け取りに上がりましたー』
案の定の言葉に、梨英はもう迷いなく答える。
「3階の楽器、全部持っててください」
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