第17話 あの日の二人
ベルフォート郊外にある古めかしい一戸建ての住宅の前で、家の持ち主と思われる家族が古いヴァンに荷物を詰め込んでいた。
「ねぇ、この車はどうするの?」
母親とおぼしきやつれた顔の女性が、後部の荷物入れに荷物を詰め込む父親らしい男性に声を掛けた。
「トムにやるつもりだ。空港まで見送りに来てくれるみたいだから、その御礼にな。どうせ向こうには持って行けないし、売っても二束三文だ」
父親はそう言いながら、一方で周りを見まわしながら怪訝な顔をした。
「なぁ、子供たちはどこ行った?」
「ジミーとレイは車の中にいるでしょ?」
母親はそう言って、車の中で眠りこけている男の子二人を顎で指した。
「あぁ、そうか。でもダニーは?家の中か」
「さっき友達の家に行くって。借りてたものを返さなきゃいけないって言ってたけど」
せっせと車に荷物を詰め込みながら、母親はどこか他人事のようにそう返した。
「友達の家!?おい、十二時前には帰って来るよな。でないと飛行機に間に合わないぞ」
「行き先はオルブライトさんの家だから、帰って来なかったら迎えに行けばいいじゃない。ここから道一本でしょ」
相手のうんざりした様子を見て、父親はそれ以上問い詰めるのを止めた。
オルブライト家の玄関の前で、ダニーは呼び鈴を押すのを躊躇っていた。急な引越しのことを、ヘイリーにはまだ何も言っていない。
仕事を失くした父親が、親類を頼って新大陸へ渡ると言ったのは、一昨日の事だった。それから慌ただしく引越しの準備をして、今日ついにこの街を出て行く。本当はここを離れたくはないけれど、どうしようもないみたいだ。
今日はヘイリーが家に置いて行った鳩の人形を返すついでに、引越しのことを自分の口から言おうと決めていた。でも、呼び鈴を押す指が中々前に向いてくれない。
そうやってもじもじしていると、不意に玄関の扉が開いた。
「あ、ダニー」
開かれた扉の向こうから、幼い女の子の声がした。ヘイリーだった。ダニーより二歳年下の小さな女の子が、嬉しそうにこちらへ駆け寄ってきた。
「どうしたのダニー?」
ヘイリーはダニーの側まで来ると、突然の訪問を不思議に思いながらダニーの顔を覗き込んだ。
「あ、うん。これ返そうと思って・・・」
ダニーはポケットに入れていた鳩の人形を、ヘイリーに差し出した。
「これ、ダニーのだよ。あげたんだもん」
ヘイリーはダニーの手首をぐいと掴むと、押し戻すようにそれをダニーの胸元に近づけた。
「え、でも・・・」
「わたしの持ってる鳩とお揃いなんだよ。こっちがわたしの、それはダニーの」
ヘイリーはそう言うと、嬉しそうに白いシャツの胸ポケットから、一羽の鳩の人形を取り出した。
「でも、でも・・・」
ダニーは引越しのことを言い出そうとしたけれど、まるで喉の奥に蓋をされたように言葉が詰まって出てこなかった。
ヘイリーはそんなダニーを不思議そうに見ていた。その時、扉の向こうからヘイリーを呼ぶ声が聞こえた。
「おかあさんだ。おかあさ~ん、ダニーが来てるよ」
ヘイリーはダニーの来訪を母親に告げた。ダニーは慌てて、もう帰るからと言った。
「帰っちゃうの?」
ヘイリーは残念そうな顔をしながら手に持った鳩をいじっていたけれど、やがて思い直したように明るい笑顔を見せると、ダニーに向かって言った。
「また明日も遊ぼうね。その鳩も持ってきてね!」
「・・・うん」
ダニーは引越しのことを言えず、出来ない約束をしてヘイリーの家を後にした。
途中振り返ると、ヘイリーが母親に連れられて家の中に入っていくのが見えた。けれど、ヘイリーはダニーの視線に気づいたらしく、太陽のような笑顔を彼に見せた。
ダニーがヘイリーと再会したのは、彼がブリタニカの大学の三年生に進級した頃だった。全くの偶然で、ヘイリーが同じ大学に入学してきたのだ。
「すいません。スリクソン先生の政治学の講義って、この教室で合ってます?」
快活な声に振り返ると、見知らぬ小柄な女性がダニーの方を真っすぐに見ていた。ややウェーブの掛かったブルネットの髪に、大きなアンバーの瞳が良く映えていた。
「あぁ、ごめん。それ一回生向けの講義だよね。俺三回生だから、ちょっとわからないな」
悪いね、そう言って肩をすくめるダニーの顔を、一年生と思しき女子学生はなぜかじっと見つめていた。
そして何かに気が付いたように目を見開くと、驚きとともに口元を手で押さえた。
「ダニー、ダニーでしょ?」
彼女はダニーの名前を何度も呼び、嬉しそうにその両肩に触れた。ダニーがわけもわからず呆然としていると、彼女は可笑しそうに笑いながらこう言った。
「覚えて無い?ほら、ヘイリー。小さい時に近所に住んでたヘイリー・オルブライト」
「ヘイリーだって!?いや、でもあんなに小さくて・・・」
「小さな女の子のままなわけないじゃない、あれからもう何年経ったと思ってるの」
ヘイリーは堪えきれずに笑いだしてしまった。
「いや、それはそうだけど。すっかり見違えたから」
予想もしなかった相手との再会に、ダニーはまだ夢見心地の気分でいた。
「わたしはダニーの事、すぐにわかったけどね」
いたずらっぽく笑うヘイリーの笑顔に、ダニーは正気に戻された。
「いや、俺だって大人になったよ。五歳の子供じゃない」
「目は変わって無いよ、昔のままの優しそうな目」
ヘイリーは真っすぐダニーの方を見て、微笑みながらそう言った。ダニーは恥ずかしさで返す言葉を見失っていた。
「もうすぐ講義の時間だし、私行くね。とりあえずこの講義室に入ってみよ」
ヘイリーはそう言うと、ダニーに背を向けて歩き出そうとした。
「あぁ、ヘイリー」
ダニーは無意識に、その場を去ろうとする彼女を呼び止めていた。
「?、どうしたの」
振り返ったヘイリーの明るい笑顔に気後れしながらも、ダニーは腹に力を入れて口を開いた。
「良かったら、講義が終わった後にでもこのキャンパスを案内するよ。雰囲気の良いカフェもあるし」
「本当!?すごく楽しみ。じゃ、講義終わったらまたここにいるね」
そうだ、と、何かを思い出したようにヘイリーは肩に掛けていた鞄から、何かを取り出した。それはあの鳩の人形だった。
「それ・・・、ちょっと待って」
そう言うと、ダニーも背負っていたバックパックのポケットから鳩の人形を取り出した。
「やっぱり、持っててくれたんだね」
ヘイリーはダニーの人形を指先で優しくつつくと、それじゃ、と手を振って、授業へ向かう学生の雑踏の中へ消えて行った。
「そっからはまぁ、自然な流れだ。深い仲になって、付き合って、結婚の約束までして。俺がブリタニカの陸軍に入ることになった時には、ヘイリーもいずれブリタニカで就職するつもりだと言ってたんだが」
ダニーは壁の高い位置に設置された窓を眺めながら、遠い目をして言った。
「ヘイリーの奴、俺の大学卒業が近くなった頃、急に実家に呼び戻されたんだ。家業を継ぐように言われたってヘイリーは言っていたが、一緒になりたかった俺は説得した。北セルツランドに赴任できるように頑張る、時々は単身赴任をすることもあるが、それでも一緒になってくれないかって。でも頑なに断られたよ。その時点で勘付くべきだったんだんだろうな」
「テロ組織は家業か」
アルバのどこか呆れたように呟いた言葉に、ダニーは苦笑いで答えた。
「それで、ま、それっきりだな。連絡すら無くなって、こっちからの連絡にも出なくなって。ただその時には、もうヘイリーのお腹の中にはダニーボーイがいたらしい」
それに、と、ダニーは椅子から身を乗り出しながらアクリル板に顔を近づけた。
「CIこそがヘイリーが親から受け継いだ組織だってわかったのは、冗談抜きに潜入してからのことだ」
言い終えると、ダニーは力なく笑った。それから面会用の固い椅子の背もたれに身体を預け、少し疲れた様子で小さく息を吐いた。
「それがわかった時には、別の意味でまずいと思ったね。俺の正体がバレるってことより、どんな顔して会えばいいんだってな。だがヘイリーも伊達にテロ組織の頭をやっちゃいない。公園で偶然出会った時にはあっちも驚いたろうが、それでも適当に話を合わせてくれた。俺が情報機関の人間だってことも、公園で会った時点で勘付いてたみたいだ。ブリタニカの軍人になったはずの昔の恋人が、職にあぶれた若造の恰好で自分の前に現われるってのは確かに奇妙だが、そこに考えが及ぶのも大したもんだよ」
何より、ダニーボーイとの時間をプレゼントしてくれたしな。そう言って、ダニーは寂しそうに笑った。
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