第1話 No.209の部屋
真夏のマリオットは、摂氏三十度まで気温が上がることもザラだ。
そんな日に、肩から掛けたポシェットより二回りも大きなジュラルミンのアタッシュケースに、現金を詰め込めるだけ詰め込んで、Tシャツにジーンズ姿のラフな格好で外を歩く女なんて、悪目立ちして仕方がない。
ばっちりサングラスまで掛けているのだから、猶更だ。でも日差しが強いのだから仕方がない。
ビアンカはロビーノに教えてもらったある男の隠れ家を探して、マリオットの中心部にある自宅から数キロほど離れた郊外の街に来ていた。
郊外といっても、洒落た見た目のアパートメントや商業施設の立ち並ぶそれなりに大きな街だった。
そのくせ、都心部の喧騒や裏通りの猥雑さからは一線を画した穏やかさも感じられる、ありふれた言い方をすれば、過ごしやすそうな街だった。
こんな場所に、ロビーノの言っていた凄腕の殺し屋なんて本当にいるのだろうか。ビアンカは半信半疑のままスマートフォンの地図アプリと周りの景色との間で視線を行き来させた。
(あと三つ先の建物・・・、あれかな?)
ビアンカの視線の先に見えたのは、築年数は経っているけれど小綺麗な見た目のアパートメントだった。
5階建て程度のそれほど大きなものでもなかったけれど、ごくごく一般的な造りの集合住宅で、とても殺し屋の潜伏しているような場所とは思えなかった。
(ここで合ってる、よね?)
アパートメントの前に立ち、ビアンカは改めて建物を上まで見上げた。ここの二階にその男は住んでいるらしい。
ふと見ると、アパートメントの入り口の扉に、マンスリーやウィークリーでの契約にも対応可能と書かれた看板が掲げられていた。
(短期契約に対応してくれるから、ここを選んだのかな、でも他の住民とも顔を合わせるのは気まずくない?)
小さな疑問がビアンカの頭に浮かんでは消えていったが、それ以上に過酷な夏の日差しが、快適そうな扉の向こう側へ早く移動するよう彼女をせっついた。
ビアンカは背中を責め立てる熱気に圧されるように、アパートメントの中へ入った。
玄関の自動ドアをくぐると、すぐに同じような自動ドアが行く手を塞いだ。ビアンカは手前にあるナンバーキーで該当する部屋の番号を押した。
それからカメラに向かって、持っていたアタッシュケースを掲げて見せた。こうすれば開けてくれるはずだとロビーノは言っていたけれど、正直心許ない。
ところが、そんなビアンカの不安を嘲笑うかのように、自動ドアはするりと開いた。ビアンカは戸惑いながらもドアをくぐると、目の前にあるエレベーターに乗った。
二階に止まったエレベーターからそそくさと降りると、ビアンカは目的の部屋へと足早に向かった。
No.209の部屋は、エレベーター横の廊下を右に曲がった一番奥にあった。
(やっぱり、非常階段のすぐそばの部屋なんだ)
そこだけ妙に殺し屋っぽい、すぐに逃げられるからかな。ビアンカはそんな想像を膨らませていた。というより、そうでもして気を紛らわせていなければ、これから会う男と冷静な気持ちで話す事なんて出来ないと思ったからだ。
白状すれば、さっきから恥ずかしいくらい脇に汗を掻いている。目立たない白のシャツを着てきて正解だった。
そしてそれと反比例するように、口の中は喉の奥までカラカラに乾ききっている。まともに口を開いて喋れるのかどうかも心許ない。
アパートメントの廊下には人影が見当たらない。でもそのほうがいい、自分がこれからしようとしていることは誰にも見られたくなかった。殺し屋に人殺しを依頼するなんて。
ビアンカは必要も無いのに、音を立てないよう慎重に歩きながら、どうにかNo.209の部屋の前まで来た。
ドア横に配置されたインターホンを押すと、すぐにスピーカーから
“ 開いている ”
と低い男の声で応答があった。
ビアンカは恐る恐るドアノブに手を掛け、ゆっくりと開けた。
部屋の中はごく一般的な単身者用のワンルームの間取りだった。ドアの隣には小さなキッチンがあり、奥には衣類を架けておくための一人用のワードローブとシングルベッドがそれぞれ置かれていた。
部屋の中央にはローテーブルと二脚のイスが向かい合って置かれていた。そして奥のイスに、その男が足を組み、背もたれに背中を預けて座っていた。
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