断罪のアンフィスバエナ
東雲ノノ
プロローグ
面倒かつ神経を使う作業でも、
「課長はブラック、部長は砂糖三杯にミルクなし……あとなんだったっけ」
「ミルクたっぷりに砂糖一杯を三人分。ミルクも砂糖も控えめ二人分。あとは君と僕の分」
同僚であり友人でもある
長時間に渡る会議の中、小休止にコーヒータイムとなったのだが、自然と若い層が準備に駆り出される。そして中小企業の常として、真っ先に動くように指示をされるのは、女である茉莉だった。
とはいえ、慣れたことなので今更不満も出ないし、むさくるしいオッサンが多数の部屋から出られる口実になるのなら、と給湯室に向かう足取りも軽くなる。
そして葵は、茉莉の手伝いという体で彼女の後を追った。単純に、日頃から仲良くしているというのもある。
「ね、今日夕飯どっかで食べようよ。お酒も呑みたい」
「いいね」
トレイにマグカップを載せつつ茉莉が発した提案に、葵は躊躇なく頷く。今日は金曜日で、明日明後日は待ち望んだ休日だ。酒はともかく、茉莉と愚痴でも吐き出しあいながらつまみをつつくのは悪くない。
「んじゃ、行こか」
「ん」
中身の入った陶器が隙間なく並べられた、見るからに重そうなトレイに、茉莉が嘆息しながら言う。そして、彼女が手を伸ばすより先に、葵が両手でトレイの縁を掴んだ。
「僕が持って行くよ。高橋さんはお茶菓子」
「ありがと」
葵がトレイを難なく持ち上げると、茉莉は頬を緩めて笑った。
* * *
無事その日の業務も終わり、残業もなくビルを出ると、茉莉が首を左右に傾けながらぼやく。
「あ~、足が痛い。パンプス嫌い」
「お疲れ」
葵が苦笑して労わると、茉莉は白い歯を見せて笑う。後頭部で一纏めにしているブラウンの髪が風に靡き、夕陽に照らされて煌めきながら揺れた。その様に、すれ違ったサラリーマンが目を奪われているのを、葵は目の端に捉える。
ついでのように、茉莉の連れである葵にも視線が投げられたが、茉莉に向けられたそれとは違い、訝し気な感情が込められている。「なんでこんな奴と?」という。
単純な容姿の良さだけではなく、明るく優しい性格の良さも滲み出ている茉莉と違い、葵は特に目立つところもない凡庸な人間だ。
黒髪短髪、平凡な顔立ちに黒縁眼鏡、どちらかというと背は低い方で、特に鍛えてもいないことがスーツ越しにわかる。年齢よりも若く見られることの多い童顔は、頬のラインが若干精悍というだけで、見るからに文化系、もしくはオタク系の気弱な男。
茉莉と並んで歩いていると、恋人なのかと思われそうだがそんなことはない。葵と茉莉は気の置けない友人だった。
連れ立って暖簾を潜ったのは若者にも人気の居酒屋で、テーブル毎に仕切りがある上、プライベートな雑談が響かない適度な騒めきが有難い店だった。
茉莉と向かい合って四人席に陣取り、それぞれ酒と適当につまみを頼む。二人でも数を多く頼むのは、一皿を分け合って食べるのに慣れているからだ。
仕事帰りに二人きりで食事はするが、二人きりでの『デート』はしたことがない。互いの部屋を訪れたことはないし、恋愛について話すこともない。
茉莉から異性について能動的に話すことはなく、葵も出来る限りは避けるようにしている。何故かというと、容姿と人の良さから勘違いした男が(一人ではなく複数)いたらしく、茉莉は男が苦手だったからだ。
ならば何故葵は大丈夫なのか? と一度問うた時、茉莉は「古賀君からは男の匂いがしない」と言った。失礼な言い方でゴメン、という前置きをした彼女には、葵からしたら納得しかない。勿論、不快に思ったりも傷ついたりもしなかった。
そういう訳で、『女同士のように』とまではいかないが、葵と茉莉は恋愛感情を挟まない友人の関係だった。
一時間弱飲み食いをしてから店を出て、茉莉の家のある方向へと特に申し合わせもせずに足を向ける。茉莉の住む場所は住宅街の一角だが、遅い時間になると人通りもなく、女性一人で歩くには注意が必要だからだ。
なので、今日のように二人で食事をした後は、葵が茉莉を送る形で道を選び、茉莉がマンションに入るのを見届けてから葵は岐路に着くのが常となっていた。
深夜まで開いている店が立ち並ぶ通りを過ぎた辺りで、茉莉の口数が減っていたことには気づいていた。が、例えばそれが個人的な悩みから来るものだとしても、葵は彼女が自主的に話すまでは問い質したりはしないようにしていた。
友人として出来るだけのことをする心づもりはあるが、友人だからと踏み込んではいけない部分もある。
なので、茉莉が黙り込むと葵も口を閉じ、ただ静かに並んで歩いていたのだが、ふと気付くと、茉莉が足を止めている。
「高橋さん?」
葵も足を止めて茉莉を呼ぶと、茉莉は数秒だけ唇を噛んで俯き、しかし意を決して顔を上げる。
酒のせいではないとわかるほど、彼女の頬が朱に染まっていた。
「あのさ、古賀君。私のことどう思ってる?」
「え……」
恋愛経験が皆無に近い葵でも、質問の意図はわかる。それでも戸惑っていると、茉莉が続けた。
「私さ、前にも言ったけど男の人苦手なんだよね。どれだけ優しくされても、なんだか怖い」
「うん、知ってる」
葵が頷くと、茉莉は細い肩を窄めて大きな息を吐いてから、眦を吊り上げる。
「でも、古賀君は違うの。色々優しいけど、他の人とは違う。それがすごく嬉しい。全然不安にならないし、怖くないの。……っていうか……」
そこで茉莉はまた顔を伏せ、葵を見ないまま声量を上げた。
「……古賀君が私の恋人になってくれたら、とか……」
「………………」
恐らく、茉莉をよく知る人間であれば、もしくは知らなくとも、彼女に同様の台詞を投げられた男は、飛び上がって喜ぶだろう。躊躇なく頷き、彼女の肩を抱くに違いない。
だが、葵はそうじゃなかった。
「……高橋さん。ごめん。僕は無理なんだ」
「!」
茉莉がさっと顔を上げ、目尻に涙を浮かばせる。それを見て、葵の口元が歪んだ。
「高橋さんの好意は嬉しい。本当に嬉しい。だけど受けられない」
「……理由を聞いても良い?」
その質問に、良い子だな、と思った。純粋に。
そもそも、彼女の告白を拒否するのは、茉莉に問題があるからではなく、葵の側に事情があるからだ。
茉莉を傷つけたくないと思うのならば、それを正直に言うべきだ、と思った。罪悪感からではなく、かといって義務でもなく、茉莉の誠実さに応えるべきだと感じたからだ。
「高橋さん、実は僕は」
葵も意を決して告白をしようとした瞬間。
空に月が浮かんでいる時間だというのに、真昼のように周囲が明るくなった。
「えっ!?」
驚いたのは葵だけではなく、茉莉もだ。ということは、幻覚ではない。
葵と茉莉が立っている場所を囲むように、足元のアスファルトに光の円が幾重にも浮かび、複雑な紋様までが描かれる。
「高橋さん!」
何か異常な事態に巻き込まれようとしている。その直感から咄嗟に茉莉に駆け寄り、両手を伸ばして彼女を抱き寄せていた。
その一瞬後、目も眩むような強烈な光が沸き、葵は耐えられず目を強く閉じた。
■プロローグ:終
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