シリーン 〜ああ、気遣われるなんて

* * *


 朝の鐘の後、わたしはジェフさんたちに挨拶して裏庭の菜園に出た。ただでお世話になるのが心苦しく、家事や、この菜園と花壇のお世話を手伝わせてもらっている。大地との交歓は精霊魔法の基本なので、その会得に役立つ土いじりは慣れていた。


 菜園から適度に野菜を収穫し、花壇の花に支柱を添えて水をやる。一段落したところで、天上の主に祈りを捧げた。ここがトスギルであれば、祈りによって精霊たちの気配が濃くなり恩寵が現れる――野菜は実りよく、花は美しく――のだが、ガレンドールでは、芥子粒がぱらりとひとつまみ撒かれる程度の反応しか感じられなかった。


 そして、わたしの契約した高位精霊は相変わらず姿なしだった。こうして祈っても、彼女の羽音しか聞こえない。


「ウィルワリン」


 わたしは精霊の名を呼んだ。耳元で羽音がした。つんとすましている雰囲気を感じる。称号剥奪から何日も経つのに、まだ拗ねたままのようだ。


「わたし、あなたの加護に感謝しなきゃいけないわね。ガレンドールまで転移するなんて、歴代聖女でもかなわないわね」


 もちろん、妹にも。


 ぱたぱたいう羽音に、ちりりんと鈴のような音が混じり、一匹の美しい蝶が現れた。人の姿を取ってはいないが、ウィルワリンの気分は多少は和らいだらしい。


「ウィルワリン、わたし、このままこの国にいるべきだと思う?」


 蝶は何も答えず、目の前で羽を踊らせている。人差し指を差し出すと、その指に止まってくれた。


「シリーン、おはよう!」


 後ろから、ヨハンくんの元気な声がした。振り向くと、彼と殿下が来ていた。と、わたしの指からウィルワリンが飛び立ち、彼らの方へ向かっていった。


「うわ!?」

「…っ!」


 ウィルワリンは二人の周りを一巡りすると高く舞い上がり、また姿を消した。


「シリーン、今の何?」

「…蝶にしては巨大だな」


 ウィルワリンは蝶の姿で現れることの方が多く、そのときはわたしの両の掌ほどの大きさだ。二人に構うということは、もう少し彼らに世話になるべきだということだろうか。


「お二人とも早いですね。今日はどうかしましたか?」


* * *


 わたしは、殿下たちに連れられて街に出ていた。ジェフさん宅にお世話になってからずっと外出は控えていたので、気晴らしにと彼らが誘ってくれたのだ。


 殿下は街なかでは自分を「アーニー」と呼ぶようにと言った。気取らない服装だがバトンを提げ、洗練された若手紳士といった風だ。ほかにはピートさんとオリバーさん、従者のヨハンくんが一緒だ。ピートさんが色々案内したいと張り切っている。オリバーさんだけが帯剣し、殿下の護衛役を務めるらしかった。


「あなたの護衛役でもあるんですよ」


 オリバーさんは、そう言ってにっこりした。難民のわたしに、何の危ないことがあるだろうか。


 下町の民家群を抜けていくと、噴水を取り囲む大きな広場に出た。広場は様々な人が往来し、屋台から食べ物や飲み物を気まぐれに買ったり、噴水際のベンチで休んだりしていた。向こう側には大道芸人や楽器弾きもいるようだ。広場から放射状に道が伸びており、いくつかの道で市が立っていた。ほかの比較的広い道は馬車の通り道になっていて、一方から入ってきた馬車が広場をぐるりと回って反対側の道に入っていった。


 こんな賑やかな場所があるとは驚きだった。賑やかすぎて周囲の会話を聞き取れない。精霊の加護も、わたしに話しかける言葉にしか効かないようだ。


 広場を抜けて市のある道に入ると、さらに混雑していた。ピートさんが腕を貸してくれて、何とか進むことができた。色とりどりの果実やスパイス、薬草などの露天が次々と並び、かと思えば皿や壺などの雑貨、織物、古着などが続く。

 そう言えばわたしは自分のローブのほかは、ずっとノーラさんの若い頃の服をお借りしていた。


「できれば僕の商会にお連れして、流行のドレスやリボンをお贈りしたいんだけどね」


 難民なのにそんな贅沢はとんでもない。それどころではない、お金がないからここをいくら歩いても買い物はできない。ぼんやり連れられてきて、今頃気づくなんて。慌てるわたしに皆笑い、ヨハンくんを除く三人の誰が支払うかで少し揉め、順番に持つことで落ち着いた。

 何だかとてもいたたまれない。もしガレンドールで暮らすつもりなら、仕事を見つけなければ。


 古着屋では、ほぼ新品で飾り気のない服を何着かと靴をピートさんに買っていただき、小間物屋でスカーフと髪留めを殿下に買っていただいた。もっと払いたそうにしていたけれど、そこまでの義理はないと思う。不自由と言うなら、自分のお金がないことが不自由だ。そのあと食事のため皆で下町食堂タバーンに入り、オリバーさんが払いを受け持った。


「商会の者から聞くところによると、御国の人々の髪は赤から黄の方が多いそうですね。あなたのようなベージュは少し珍しいとか」

「ええ。皆の鮮やかさに比べると、わたしの髪はぼやけた色で恥ずかしいです」

「そんなことはありません。絹のように肌理きめが細かくて美しいですよ」


 昼食の席では、トスギル人の容姿の話になった。街なかであることに配慮し、国名は出さずに御国・あの国と呼んでいる。ピートさんは、何というか途切れなくわたしを褒め続けてくれる。その度実態とかけ離れていくようでむずがゆい。


「とんでもないです! わたしよりはヨハンくんの髪の方がよっぼど綺麗です」


 彼の髪はトスギルでも見られる色だ。突然名指しされたヨハンくんは、黙って赤くなった。従者なので会話には入らない。

 ピートさんが更に言う。


「そう言えばマンダリンは、あの国特有の果物ですね。僕も手にしたことがありますが、甘くてとても良い香りでした」

「ええ、わたしも大好きなんです。だからヨハンくんを見るとその香りを思い出してしまいます」

「シリーン、あまりからかっては俺の従者がかわいそうだ」


 殿下がおどけて言うと、ヨハンくんはいよいよ恐縮してもっと赤くなった。


 午後はピートさんが用事で抜け、四人になっていた。


「近くに教会があるが、覗いてみるか? 同じ天主教でも、ガレンドール及び周辺国とトスギルとでは、だいぶ教義が違う。交流もないから、君を見て恐れ入ったりトスギルに連絡したりということはないだろう」


 それは多分安心すべきことなのだろう。わたしは殿下の提案を受け入れた。


 教会はこじんまりしていた。入口の扉を抜けるとすぐホールで、飾り気のない祭壇と説教壇、あとは礼拝用の長椅子が並べて置かれていた。何というさびれぶりだろう。トスギルの、金のタペストリーや壁画で壁を埋め、天窓から色ガラスの美しい影模様が落ちる荘厳さとは正反対に質素だった。

 ホールには人影がなく、精霊の気配も当然なかった。祈る者がいなければ精霊の力も現れない。西方では、精霊は絶滅寸前なのかもしれない。


「…驚きました。教会がこんな有り様で、国は立ちゆくのでしょうか」


 そう言うと殿下は苦笑した。


「別に教会や天主教が頑張らなくても、俺たちは困らないさ。国は天上の主や精霊ではなく、人が治めているんだ」

「でも祈りがなければ恩寵もありません」

「天上の主の恩寵は、分け隔てなくこの世に住まう人々に降り注ぐ。我々はそう教わるよ。シリーン、誰かが人柱のように身を潰して祈る必要はないんだ。誰もが心の中でささやかに恩寵に感謝し、日々できることに精を出す。それが国を栄えさせていくんだ。俺はそう思う」


 殿下の言葉は衝撃的だった。わたしはまた頭が真っ白になりそうだった。聖女とは崇敬の対象ではなく、人柱なのか。わたしが今までしてきたことや信じてきたこと一切が意味を失い、がらがらと崩れていく気がした。

 わたしがふらついたので、殿下は長椅子に腰を下ろさせた。そしてわたしの前に膝を付き、震えている手を落ち着かせるように包み込んだ。


「シリーン、君はこの地では聖女である必要はないんだ。聖女の地位を追われたことで、傷ついたり卑屈になったりする必要はないんだ。君自身の望みを持ち、そのために生きていいんだ」


 緑の瞳には温かい同情がこもっていた。


「…わ、わたし…わたし、どう考えればいいか、わかりません。わからなくなりました…」

「いや、俺も君を否定するような言い方になって悪かった。気に入らなければ忘れてくれ」


 ふと、聞きたいことを思い出した。


「殿下。どうして聖女に、会おうと思われたのですか? その聖女とは、わたしなのですか? どうして、わたしに…会おうと思われたのですか…?」

「……」


 殿下は黙り込み、目を逸らし、うつむいた。わたしを包んでいる手が熱くなってきた。気づくと、殿下の耳が真っ赤になっていた。


「いや、それは…」


 何だか、言われてはいけないことを言われそうな気がして、わたしは胸がどきどきしてきた。


 出し抜けに猫の鳴き声がし、二人して飛び上がった。見回すと、ホールの奥の関係者用入口で猫が身を翻して駆けていった。


「…出よう」


 わたしたちは、ともに心底ホッとした面持ちで教会を出た。扉の外では、オリバーさんとヨハンくんが背を向けて待っていた。いつの間に外に出たのか、最初から付いてきていなかったのか。わたしはまったく気づかなかった。

 お忍び中なのに、アーニー様ではなくうっかり殿下と呼んだことも、誰も指摘しなかった。そうしても問題ない空間――二人きり――になっていたことに気づき、わたしは初めて顔が赤くなってゆくのを感じた。

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