第7話
お茶を飲み終えて、望叶は窓の外を見た。夕日が赤く燃えている。すぐに夜がやって来るだろう。今年もまた、この町に花火が咲く日がやってきた。
「そろそろお仕事しようか。コン、願い箱を見てきてもらえる?」
コンは頷くとさっそく本殿を出て行った。十九歳の夏。ここで花火を見る最後の機会だ。
来年の春に、望叶は正式に祈りの神「祈光」となる。周辺の土地を守る神々が集まって就任式を行い、その日のうちからこの町全体を見守る神となる。現在母親が行っている仕事を引き継ぐのだ。この本殿には代わりに母が住み、次の見習いがやって来るまで願い箱の願いを叶える仕事をする。次の見習いは、順序通りなら望叶の娘になるだろう。
望叶は机についている引き出しから、狐の面を取り出した。それから、ひまわりの種が入った小瓶、色とりどりの貝殻、ビジューのついたヘアゴムを机の上に並べる。昨日、数年ぶりに母親が様子を見にやって来たので、慌てて引き出しに隠したのだ。面もひまわりも外の世界の物は全てここにあるはずの無いものである。
狐の面をそっと手に取って向かい合うように眺める。
「ふふ……。本当にコンにそっくり」
白い肌に吊り気味の目がついていて、赤い化粧をしている。今日は何だか寂しそうな顔に見えた。いや、二年前の夏からずっと。
茂みの音が聞こえて、望叶は素早く立ち上がると面を壁の釘に引っ掛けた。種が詰まった小瓶は机の端に寄せる。昨日母親が来る直前まで、そこが彼らの定位置だったのだ。
「コン、おかえり。今日はどうだった?」
部屋に上がったコンの口には一枚の手紙が咥えられていた。
「ありがとう」
望叶は手紙を受け取りコンの頭を撫でる。願いは今日も一枚だけ。ここ最近は、手紙が無い日もある。このままでは自分達は人間から忘れ去られ、役割が無くなり消えてしまう。
望叶はぴたりと手を止めた。コンが不思議そうな顔で見上げる。
……いや、もういっそのこと、消えてなくなった方がいいのかもしれない。子供の頃は自分が次の祈光様になるのだと信じて疑わなかった。だが今はもうそんな気持ちになれない。祈光様になって、自分はどうなるのだろう?楽しいだろうか?毎日何を考えて生きる?
望叶は内心で首を降った。ここ数年……あの少年に会ってからはずっと、そんな悪い考えが心を巣食っている。自分の願いが欲という名でむくむくと膨れ上がっている。こんなに汚い心じゃ、祈光様にはなれない。他人の幸せを願えない。
「じゃあ、さっそくこのお願いを叶えようか」
微笑んだ望叶にコンは心配そうにキュウと鳴いた。就任式が近づくにつれ、望叶が悩んでいることをコンは知っている。自分の存在意義に疑問を感じ始め、同時に自分という個体が主張を始めたのだ。あの少年に会ってから、彼女は急速に「人間」に近づいている。
「私もちゃんとお仕事しないとねっ。えーっと、今日の願いは……」
望叶は手紙を開いた。短い文面を読んで、寂しそうな顔をする。
「大切な人にまた会えますように、かぁ……。素敵なお願い事だね」
コンを振り返った顔には笑顔が浮かんでいた。きっと無理をしてその表情を作ったのだ。願い事を読んで、少年のことを思い出したことは誰が見ても明らかである。
二年経ってもまだ、望叶の心には少年の面影があった。
「じゃあ、集中するね。……この人の願いが叶いますように」
手紙を目の前に、望叶は指を組んでまぶたを閉じた。手紙の主の想いが成就するように祈る。だが、なかなか上手くいかない。ここ最近もずっとそうだったが、昨日母親がやって来た為かより顕著になっている。自分の感情が邪魔をして、他人の幸せを真っ直ぐに願えないのだ。
キュウ。コンが鳴いた。望叶はまぶたを持ち上げる。いったん休憩しようと言われたのだ。
「ごめんね、最近上手くいかなくて。昨日お母様が来たからかな。就任式の日も近づいてるし、緊張してるのかも」
望叶はいつもより早口にそう言って、困ったように笑った。彼女は祈りが上手くできない理由をちゃんと理解していた。昨日数年ぶりに母親の姿を見て、今自分がなりたい姿ではないと感じてしまったのだ。今の自分は本心でなく義務で祈っている。だから上手くいかない。昨日だって、一つの祈りを叶えるのに半刻もかかった。一時は一日に三つの願いを叶えることもできたというのに。
握ったままだった手をコンの鼻先が優しくつついた。そして望叶にアドバイスをくれる。自分の願い事だと想像して祈ってみてはどうかと。望叶は頷いた。
「ありがとう、コン。それなら上手くできるかも」
望叶はもう一度瞳を閉じる。組んだ指が額に当たるほど夢中になってイメージした。大切な人に会えますように。自分の会いたい人。あの少年に会いたいと強く願った。
やがて、まぶたの向こう側が白く光る。と同時に、心臓が痛いほどにきゅっと高鳴った。願いが叶ったのだ。自分に置き換えて祈ったからだろうか、今までにないくらい叶った実感が強い。
「コン、叶ったよ。今までで一番上手にでき……」
ハッとして顔を上げた。外の茂みが音を立てた気がしたのだ。コンも外を警戒している。気のせいではない、誰かがいる。
飛び出そうとするコンを制して、望叶は静かに腰を上げた。結界の中に立ち入るなんて、一体何者だろうか。足音を立てないように進み、縁側に出て、望叶は言葉を失った。
「ここ、自分で登るとすげぇ大変だな」
そう言ったのは、十八歳になったあの少年だった。彼は望叶を見て、目を細めて微笑んだ。
「久しぶり」
望叶は草履も履かずに土の上に飛び出して、少年に駆け寄った。
「も、もう、会えないかと思ったよ」
滲む視界の向こうに、間違いなく彼がいる。瞬きをするときっと涙が溢れてしまうから、望叶は懸命に瞳を開けた。目の前の彼をしっかりと焼き付けるように。これが現実だと実感できるように。
「急に来なくなるから……」
ついに涙が頬をつたって、望叶は思わず俯いた。彼はそんな望叶の肩を優しく抱く。
「ごめん。遅くなって」
彼の胸で望叶は首を横に振る。ずっと今日が終わらなければいいのにと思った。
「髪、伸びたな」
望叶が顔を上げると、背中に垂れた長い髪が揺れた。
「君も背、伸びたね」
彼は「お前が縮んだのかと思った」とわかりやすい冗談を言った。
「ずっと夢にお前が出てきたんだ。一緒に花火を見る夢。でもそれが誰だかわからなかった。ここに来て、何で忘れてたんだろうって不思議になるくらい、いつもお前のこと考えてたのに」
空が紺色の絵の具を塗りたくったような姿をしていた。もう何度か呼吸をする間に花火が上がるだろう。
「俺の手紙、ちゃんと届いた?」
コンは思わず机の上に目を向けた。日暮れ時、麓から持って来た願い事が置かれている。
「届いたよ。二人で祈ったから、今叶った」
望叶は彼の手を取った。彼も優しく握り返す。コンは見つめ合う二人をただ見守っていた。
「ねぇ、今年も一緒に花火を見よう。それから、君のことをもっと聞かせて」
彼は小さく首を振った。握る手に力を込める。
「花火はずっと一緒に見たらいい。俺の話なんかより、自分の目で直接見たらいい」
コンは部屋の中で目を見開いた。その視線の先で、彼はポケットから取り出した指輪を望叶の指にはめる。
「花火もその他の景色も全部一緒に見に行こう。これから二人で」
光のない空を火の花が照らした。少し遅れてドンと重たい音がする。花火が作り出した望叶のシルエットは、小さく頷いたように見えた。
重なった二人の影に色とりどりの光が降り注いでいる。まるでステンドグラスに差し込む光のようだ。そんな空想的な光景に、コンは諦観と祝福を捧げた。
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