第5話
一年後。夏祭りの日。望叶はいつもより早く祈りの作業を終えていた。今日の願いはたった一通。「模試でいい点が取れますように」という願いを祈り、手紙を箱に片付ける。コンが近づいてきて「お疲れ様」と言った。
「ねぇコン、今日は夏祭りだね。去年の約束覚えてる?」
コンは「その話昨日もしたじゃないか」と半ば呆れて言った。
「あの子、来るかな。もしかしたら忘れてるかも。一年も前の約束だもん」
望叶が机の上で組んだ指は、離れたりくっついたりと忙しなかった。一週間前からずっとこの調子だ。祈りの集中も途切れ気味で、成就まで時間がかかるようになった。自分の判断は失敗だったかと、コンは少し不安になる。
「そんなに心配なら下に降りて様子を見てくるよ」というコンの言葉に、望叶は小さく頷いた。
「ありがとう、コン。もしあの子が来なかったら、今年も一緒に花火を見ようね」
コンは返事の代わりに尻尾をひと振りし、本殿を出て行った。真っ直ぐ茂みの中へ入り、結界を開く。しばらく進むと、麓の拝殿の一室に出た。
辺りを見回すが、少年の姿はない。落胆した。あの少年なら約束を守ってくれると思ったのに。望叶に楽しさと安らぎを与えてくれると思ったのに。戻ったら彼女に何と説明しよう。
すぐに帰る気になれなくて、拝殿をぶらりと一周する。歩いている間この十四年間のことを考えた。
コンは望叶を可哀想だと思っていた。ただ神様の子供に生まれたというだけで外界から隔離され、友達も作れず、常に自分と二人きり。自分のことを親友だと思ってくれていて、もちろん自分もそう思っているが、眷属であると同時にお目付け役でもある自分は、祈光からの命があれば望叶を裏切ってでもそれに従わなくてはならない。
こんなに狭い世界でただひたすらに他人の幸せを願って生きるなんて、外の世界を知るコンにとっては耐えられない苦行である。もっと、あとほんの少しでも、彼女を自由にしてあげたい。だからこそ、祈光との約束を破って望叶と少年の約束を認めた。
拝殿をぐるりと周り、入り口に戻ってきた。日はもう完全に落ちている。上に戻ろう。望叶が待っている。
望叶は落ち込むだろう。外の世界に失望するだろうか。失敗だった。あんな約束させなければよかった。少年が今年もやって来る確証なんてどこにもなかったのに。なかったはずなのに。外の世界への失望が、明日からの祈りに響かなければいいが。コンが室内に足を踏み入れた時、背後で砂利を踏む音が聞こえた。
「あ、狐」
振り返ると、あの日の少年が立っていた。甚平ではなくTシャツとハーフパンツを身に着けている。
「待ったか?友達振り切るのに時間かかった。あいつら着いてこようとするから」
少年はそう説明しながらコンの方へ近付く。一年前より少し背が伸びただろうか。望叶と並べば同じくらいか、もしかしたら追い越したかもしれない。
「俺達だけの秘密基地だもんな」
その姿を見て、コンは心が震えるのを感じた。少年に「来てくれてありがとう」と礼を言う。少年からしてみればキュウキュウと鳴いただけに見えたが。
コンが鳴いたのを歓迎されていると受け取った少年は、靴を脱いで拝殿に上がった。土足で上がり込んでかくれんぼをしていた去年に比べれば目を見張る成長だ。コンは結界を開き、そこに飛び込んだ。少年も迷わず着いてくる。
「久しぶりだな。あいつ、元気にしてるか」
コンはなるべく高く鳴いて返事をした。一歩後ろを歩く少年は「そうか」とだけ答える。ものの一分程度で二人は山頂へ到着した。
夜空を見上げていた望叶が、茂みが鳴る音に振り向いた。コンの後ろに少年の姿を見つけて思わず立ち上がる。
「あっ……。……遅いから、来ないと思ったよ」
そう言って微笑んだ望叶に、少年は「遅くなってごめん」と口にした。それから、背中に隠していた左手を差し出す。そこに何が握られているかはコンはもう知っていた。
「これ……!」
望叶は目を見開いて黄色い花を見た。口元に当てていた両手で、そのひまわりをそっと受け取る。
「ちゃんと土地の人に貰っていいか聞いたから」
「ふふっ、真面目だなぁ」
望叶は滲んだ涙を指の先で拭った。
「ありがとう」
「来年は別のもの持って来てやるよ。何が見たいか教えてくれれば」
「本当?じゃあ……今日もまた、君のことを聞かせて?」
望叶の嬉しそうな表情を見て、コンは静かにその場を離れた。
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