第26話 いつか夜空に溶けて消えたもの

まもなく、月も眠りにつく。段々と、暗雲が立ち込め、ゆっくりと月を飲み込もうとしている。

そんな夜更けにユリーベルとハルムンはイルナルガ邸の屋敷に忍び込んでいた。

ハルムンの探知魔法により、イザーク・イルナルガの寝室を見つけ出す。

「三階の階段、その突き当たりだ。」

出来るだけ音を立てないように、気配を殺して寝室へと向かう。


イザークがこれまで行っていた数多の犯罪。

裏オークションでの人身売買。

それらは決して許されるべき行為では無い。

サルファが不要と感じた者は誰であれ排除する。

それがユリーベルの仕事だ。仕事に私情は挟まない。

ユリーベルの中で、大切にしている事だ。

……けれど、今夜だけはどうか——。


「——着いたぞ。ここだ。」


薄暗い廊下を抜け、たどり着いた寝室の前。

美しい彫刻が掘られた美しい扉のドアノブが、窓から差し込む月明かりできらりと光った。

「……。」

覚悟は出来た。決意も固めた。心は既に、彼らを殺すと誓った。

大丈夫。いつも通りに仕事をこなせばいい。

ただ、それだけの事だ。


ユリーベルはゆっくりとドアノブに手をかけ、扉を開く。

音を立てないように細心の注意を払いながら、扉を開いた先には大きな空間が広がる。

白いカーテンがゆらりと揺れる。天窓の中ですやすやと寝息を立てるイザーク。

その隣には、イルナルガ夫人の姿もあった。

二人で横並びになって眠りについている。

ユリーベルは静かに、ベットに近付いた。


「……。」


このまま彼らは目を覚ますこと無く、一生を終える。

そうしなくてはいけない。そうするのが、彼女の仕事。

ユリーベルは自分の影に指示を下す。

手を夫人の喉あたりにかざすと、ユリーベルの影は夫人の喉元に絡みついた。

そのままユリーベルは、自分の手を握る。

影はそれに従うように、夫人の喉を絞めた。

「うっ……う、うっ……。」

喉元に絡みついた影を必死に振り解こうと、夫人は無意識に藻掻く。

しだばたと足を動かし必死に抵抗していたが、それも数分と立たないうちにピタリと止まった。

力のない手が、ストンとベットから落ちる。

夫人からはもう、息を吐く音がしない。

魂が抜け落ちた人形のように、力なくそのまま眠りについた夫人の姿を確認してから、ユリーベルは反対方向に回る。

「あとは、貴方だけです。イザーク・イルナルガ伯爵。」

夫人にした事を繰り返すように、ユリーベルはイザークの首元に手をかざす。

ユリーベルは直接その手を汚さない。

けれど、その力は紛れもなくユリーベルに備わった力。

影は静かに、イザークの首を絞め始める。

が、その時。


「——サルファ・グラッサムの犬め……っ!」


イザークの喉を絞めていた影がザクっと切られた。

驚いたユリーベルはそのまま一歩後ろに下がる。

ユリーベルの目の前には、それまで寝ていたはずのイザークが身体を起こしていた。

その手には短剣が握られている。

「この私が気付かないとでも思ったか?シュベルバルツ。貴様が帝国の犬として、人殺しをしている事はとっくに知っている。」

イザークはゆっくりとベットから降りると、ユリーベルの目の前に立ちはだかった。

「ユリーベル・シュベルバルツ。貴様は我が娘、エンティーの友であったな。エンティーに近付いたのは、これが目的か。」

確かにそう捉えられても、不思議では無い。

ユリーベル自身、この司令はまるで誰かに仕組まれたもののように感じていた。

だが、これは仕事だ。疑問を抱く事も、私情を挟む事も許されない。

ユリーベルは、イザークに答える。

「だとしたら、貴方は彼女の父として私をお叱りになるのですか?イザーク・イルナルガ伯爵。」

「叱る?巫山戯た事を。ユリーベル・シュベルバルツ。世の中の言葉にはこんなものがある。『眼には眼を歯には歯を』そしてお前は今し方、我が妻を殺した。ならば……死には死を、だろう?」

こんな時に限って、護身用の短剣を持ってきていない。

丸腰のユリーベルに、イザークは思い切り切りかかる。

その剣筋を見切って、華麗に避けたユリーベルだったが、思わぬ所で轍を踏んでしまう。

ローブを踏みつけてしまい、そのまま倒れてしまったのだ。

「はっ!好機!」

イザークはユリーベルの上にまたがって、そのまま彼女の心臓を目掛けて短剣を振り下ろす。


——駄目、避けられない……!


ユリーベルは目を固く閉じる。

ここで終わりかと、そう悟った瞬間聞こえてきたのはユリーベルの心臓を突き刺す音でもユリーベルが痛みで悶え苦しむ声でも無かった。

「ぐはっ……!」

ユリーベルがか細く瞳を開くと、そこにいたはずのイザークの姿は無かった。

代わりに、とでも言わんばかりにユリーベルの周りには赤い液体が広がっている。

何が起きたのかと、ユリーベルが周囲を確認すると彼女の横にはイザークが短剣を持って倒れていた。

腹部から出血している。ユリーベルの周りに広がっていた赤い液体は彼から流れ出たもののようだ。

ユリーベルはよろける足元で、ゆっくりと立ち上がる。

「……ぬ、め……てい、こくの……いぬ、め……。」

そう言い残し、イザークは動かなくなった。

勿論、イザークを殺したのはユリーベルでは無い。ユリーベルの能力でも無い。


「——アホか、あのままだと死んでたぞお前。」


ユリーベルを罵倒する声。

ユリーベルは扉の方に首を向ける。

そこには面倒くさそうに扉に寄りかかっているハルムンの姿があった。

「貴方が彼を……?」

ああ。とハルムンは端的に答える。

どうして、とは聞かなかった。イザークを殺すのがユリーベルの役目であるように、ユリーベルを守るのがまた、ハルムンの役目なのだから。

「今ここで、お前に死なれたら困るからな。」

「助けてくれたから問題ないわ。」

ユリーベルは寝室を見渡す。


ベッドで眠りに着くように死んだ夫人と、大量の出血で苦しみながら死んだイザーク。

ユリーベルはゆっくりとイザークに近付いて、彼の開きっぱなしの瞳孔をそっと閉じる。

「貴方の娘は、絶対に守るわ。何があっても……。」

死人に誓うだなんて、我ながら馬鹿げている。

それでも、ユリーベルは彼にそう告げた。


「ハルムンは、地下通路にいる子供達を安全な場所まで連れて行ってあげて。」

「お前はどうする?」

「彼を……伯爵を夫人の隣で寝かせてあげたいの。」


それがきっと、ユリーベルに出来る最後の手向けだ。

ハルムンは全てを察したかのように「分かった」と答えると、瞬間魔法でユリーベルの前から姿を消した。

残ったのは、二つの死体とユリーベルだけ。

彼女のローブはイザークの血液で汚れてしまっていた。

「さて、と。私じゃ伯爵を持てないし、やっぱり影にお願いするのが一番ね。」

仕事をやり終えて、ほっと肩を撫で下ろしたその瞬間だった。

ああ、最後の最後まで油断をしてはいけなかったと言うのに。なぜユリーベルはその微かな気配にすら気付かなかったのだろう。



「——おとう、さま?」


それは聞き覚えのある声だった。

その声を聞いた瞬間、心臓が飛び出そうなほど強く脈打った。

ドクン。

もしかして。いや、まさか。でも……。

ユリーベルはゆっくりと振り返る。

扉の先に立っていたのは、紛れもなくユリーベルの友であり、イザークの愛娘でもある——エンティーだった。

「あ、れ……?ユリーベル様……?」

状況を理解出来ないエンティーは、驚きと動揺の視線をユリーベルに送る。

その真っ黒なローブが、何かの液体で汚れているのを目にしたエンティーは恐る恐るイザークの寝室に踏み込んだ。


「一体何が……——え?」


ベッドまで近付いたエンティーは、その先で抜け殻となった自分の父親を見つける。

彼のそばにたっているのは、ユリーベル。

そしてその瞬間、ユリーベルのローブが一体何で汚れていたのかを理解する。

「ユリーベル様が、……お、おとうさま、を……?」

何と口にすればいいのか分からなかった。

震える手で口元を抑え、その瞳を静かに揺らす健気な少女に、何と声をかけるべきか。

……いや。違う。

声をかけてはいけない。

紛れもなく、イザークと夫人を殺したのは自分なのだから。

ここで元の関係に戻ろうだなんて願ってはいけない。

ユリーベルは、エンティーに近づき彼女の両肩をガッツリと掴んだ。


「いい、エンティー!今すぐこの屋敷から逃げて!貴女がこの場にいた事がバレたら私は貴女を殺さなくちゃいけなくなる!」


ユリーベルがこんなに声を荒らげたのは久しぶりだ。

普段穏やかで、気高く気品溢れるあのユリーベル・シュベルバルツとは思えない口調にエンティーは錯乱する。

「ころ……?ユリーベル様、一体何を……」

「いいから!早くこの屋敷から逃げて!私の事は恨んでいい!でも今は貴女を助けたいの!!」

物言わせぬユリーベルの言葉に、エンティーは震えながら、寝室を飛び出した。


彼女ならきっと、ユリーベルの言葉を信じてこのまま屋敷を抜け出すだろう。

徒歩で逃げるとしても限度はある。イザークをベッドに戻したら急いで後を追おう。

ユリーベルはそう決心し、急いでイザークをベッドに戻す。

明日の朝になれば帝国騎士団がきっと、この屋敷に来る。

それまでに、エンティーがこの寝室にいた痕跡を消さないと。

「お願い、もう少しだけ手伝って頂戴。」

影はそんなユリーベルの願いに好応するようにゆらりと揺れた。


後始末には五分もかからなかった。

エンティーが寝室にいた痕跡を消し、自分はイザークの血液がべっとりとついた靴で廊下を走る。

早く。早くエンティーにたどり着かなくちゃ。

その存在事消すように、エンティーは元からこの世界にいなかったかのように、偽造して偽装して。

そして、全てを話さなくちゃ。

確かに貴女の両親を殺した。


それでも私は、貴女の友でありたい。

それでも私は、身勝手な願いで貴女に生きて欲しい。

それが私の……!



屋敷を飛び出し、庭を全力で走る。もう少しで門だ。

そこさえ抜ければ、あとはどうとでもなる。

「はぁ……はぁ……!」

足首が痛い。何処かで捻ったのだろうか。

肺がぎゅっと掴まれたように苦しい。

それでも足は止められない。

唯一の友達くらい、守る力は私にだってある……!

ユリーベルを動かしているものは、そんな単純な感情だった。

愚かで、浅はかで、でも、人間として大切な守りたいという感情。

今のユリーベルにとって、目の前にある門の先はまるで光への入口のように思えた。

その光にと、手を伸ばす。


——あと少し……これでエンティーを助けられる……!


その門は、音を立てて開く。

ギィっと軋む音は、ユリーベルの心を打ち砕く為の鐘の音だった。

門を抜けた先に広がっていた光景は、決して光などでは無かった。

「……え?」

希望だった。

エンティーを救う事が、その命を守る事が。

でもそんな希望は幻でしか無く、ユリーベルが望む世界など、ここには存在しない。

それを思い知らされるかのように、ユリーベルの足元には『人間だったもの』が転がっていた。

その青い、まるで晴天をそのまま宿したような髪は、灼熱の太陽に染まる。

力なく倒れ込むその少女の姿に、ユリーベルは息を切らせたまま立ち尽くした。


「……——エンティー?」


応答は無い。

人形に名前を呼んでも、答えるわけが無い。

もうそこに、魂は無いのだから。

ぽつり。

天からこぼれ落ちてくるのは、一体誰の涙だろう。

その水はやがて音を大きくさせ、ユリーベルの頬を濡らす。

目の前に倒れる死体から流れた血が、雨と混ざり合う。


「——ユリーベル・シュベルバルツ公爵様。」


ユリーベルの前に立っていたのは、茶色の髪をした、ガタイのいい大男だった。

服を着ていても、その鍛えられた筋肉はくっきりと目で捉えられる。

右頬には、何処かの戦場でつけられたであろう古傷が残っていた。

ユリーベルはその男を知っている。

「……ルーデン・アルバルク騎士団長。」

帝国騎士団の頂点に君臨し、サルファに仕える忠実な忠犬。

鋭い目付きと、迫力のある威圧感。

「屋敷から逃げようとしていたので、殺しておきました。が……珍しいですね、ユリーベル様ともあろうお方が一人の少女を取り逃がすなど。」

彼は今、ユリーベルを疑っている。

雨はユリーベルの黒い髪を濡らし、毛先から雫がポタリと地面に落ちていく。

今、ここで何と答えるべきか。

サルファの右腕であるルーデンには、変な誤魔化しは効かない。

動揺すれば、全てを見透かされる。

だから、ユリーベルがとった行動は……笑う事だった。


「ええ。私とした事がネズミを取り逃してしまいまして……アルバルク騎士団長が居なければ、このまま逃がしてしまう所でした。感謝申し上げます。」


引き攣らないように、自然な笑顔でユリーベルは答える。

その姿に、ルーデンは数秒程沈黙した後静かに瞳を閉じた。

「……そうでしたか。貴女様のお役に立てたのなら、何よりです。今宵はもうすぐ夜が開けます。ゆっくりとおやすみ下さい。」

そう言い残し、ルーデンは去っていく。

彼がここに居たという事は、サルファはユリーベルの動向を監視していたという事だろう。

これまでの仕事で、信頼は積み上げていたと思っていたが、それはどうやらユリーベルの思い過ごしだったらしい。

ルーデンの去っていく足音は、雨の音にかき消されていく。


一人残されたユリーベルは、その場の死体に近付いてその頬に触れた。

「——ごめんなさい、エンティー。私は……」

貴女を救えなかった。

折角出来た友達なのに。ユリーベルに手を差し伸べてくれた、優しい少女だったのに。

何の罪もない、何も知らないままに、殺された。

——私が、殺した。

あの時一人で逃げろと言ってしまったから。

サルファが自身を監視していると、何故気付かなかったのだろう。

メアリを送り込んできた時点で、サルファはユリーベルの行動を危険視していたと分かっていたのに。

気持ちが先走ったせいで、ユリーベルは友を失った。

初めて出来た、唯一の友達を。


——ああ、雨が降っていて良かった。


この涙が誰にも見られずに済むから。

この悲しみを、雨が洗い流してくれるから。

結局、ユリーベル・シュベルバルツはいつだって一人ぼっちなのだ。

仲間も友達も、全ては無に返る。

呪われた公女は決して、幸せになる事は無い。


——だから、悲しむ事も慈しむ心も、もう要らない。


さようなら、エンティー。私の人生でたった一人の友達。

そして、さようなら。


——ユリーベル・シュベルバルツはもう、誰も愛せない。

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