第17話 曖昧な関係に名前は無く


あの婚姻の義から三ヶ月が過ぎた。

シュベルバルツ家当主としての仕事が本格化し、忙しない日々を送っている。

姉のマリーベルが行っていた財産運用は、思っている以上に頭を使い、改めて姉の素晴らしさに気付かされた。

「……あら、もうこんな時間なのね。」

「なんだ、休憩するのか?なら俺の分の茶も頼む。」

「違うわよ……ていうか貴方、此処に来てからずっと食べてるか寝てるかのどっちかしかしてないじゃない。暇なら私の仕事を手伝って。」

自室で書類の整理をしていたユリーベルは、自分の持つ懐中時計を手にする。

窓枠に座って、ブラブラと外に足を伸ばしていたハルムンはキョトン、とした顔でユリーベルの方を向いた。

「いやいや、俺はこう見えても頭を使う事が大嫌いなんだ。大賢者様を馬鹿にするなよ?」

「そんな嫌な自慢話は聞きたくないわよ……。そうじゃなくて、これから用事があるの。」

立ち上がったユリーベルは、近くにあった帽子を手に取る。

「用事?友達もいないお前に?」

「当主権限で、貴方を追い出すわよ。……はぁ、これからアルファード様と約束があるの。」

ユリーベルはハルムンの質問に端的に答えた。

約束と、口にしている割には気乗りしていない様子のユリーベルにハルムンは首を傾げる。

「約束って?」

「それは……」


それは、あの夜の事。月明かりの下、二人だけのダンスが終わった後の事。


『ち、近くに美味しいケーキ屋さんが出来たんです。とは言っても平民街にあるのでその……。』


もじもじと言いにくそうな顔をしながら見つめられたユリーベルは何かを察した。

けれど、これ以上この男と関わってはいけないと、自分の中の誰かが忠告する。

この人はあまりにも優しすぎる。ユリーベルと一緒に居たことが誰かに知られでもしたら……。

面倒は御免だ。これから先、ユリーベルが成そうとしている事の為にも。

だからここはきちんと断って——

『一緒に行きませんか……?』

ユリーベルを見つめるカイルの顔は、ご褒美を待つ子犬のようだった。

その姿に、ユリーベルは一瞬たじろぐ。


はっ、駄目よ私!ここですっぱりと断るのよ、ユリーベル!


意を決したユリーベルはすうっと、口から息を吸い込んだ。

胸の中に優しい月の香りが落ちてくる。

『——……分かりました、一緒に参りましょう。』

『!! 本当ですか!?凄く嬉しいです!』

馬鹿馬鹿、私!!

だって、あの目で見られると、どうしてたがお姉様を思い出して……。

あの嘘偽りのない、純粋な瞳。あれはとても恐ろしいものだわ。

自分の中で決めた決意はあっさりと破られ、こうしてユリーベルとカイルは一緒にお茶をする約束となったのだ。


「ふーん、じゃあ今回は正真正銘のデートってわけか。」

「違うわよ!ただのお茶会。デートなどというものではありません!断じて!!」

ハルムンの言葉に、ユリーベルは強めに釘をさした。

けれど、今日あの人に会えると考えたら、こう、胸が……。しっかりするのよ、ユリーベル・シュベルバルツ!

私はただ、誘いを断るのも申し訳ないからと思っただけで……。

そうユリーベルが心の中で自分と葛藤していると、ハルムンが口を開けた。


「——お前はその男の事が好きなのか?」


その言葉に、ユリーベルは肩をピクっとさせた。

ハルムンの方を向くと、真剣な面持ちでユリーベルを見ている。

一度言葉をつまらせながら、ユリーベルははっきりと宣言した。

「……あ、ありえないわ。今日彼と会うのは、あくまでも私にメリットがあるからよ。四代公爵家のアルファード家っていえば、様々な有名騎士を排出している騎士の名門。そんな人とお近付きになれば帝国の闇がもっと分かるかもしれない。だから……。」

そう。これはただ人脈を広げる為の行為に過ぎない。

そこに、自分勝手な感情は含まれていない。

ゆっくりとユリーベルとの距離を縮めるハルムンは、物々しいオーラを身にまとっている。

ハルムンは、ユリーベルを見詰めた。ユリーベルの本心を探るような瞳で。

けれどユリーベルはそういう目線に慣れている。

だって、彼女が相手にしているのはこの帝国の玉座に座る男なのだから。

「なあ、お前はどうして人間が誰かを愛するのか知っているか?」

「……?」

「——いや、これは愚問だったか。聞き流してくれ。」

そう告げたハルムンは、口を閉じて俯いた。

ユリーベルは時々、彼が何を考えているのか分からなくなる。

一緒に居る時間は、長いはずなのに、ユリーベルはまだ彼の事を何も知らない。

彼が何処から来たのか。何故ユリーベルを助けたのか。


「もしも……もしもお前がその男を好きになったのなら、俺は——俺は、応援してやるよ、ユリーベル。」


ハルムンの声は、やけに寂しそうで弱々しい声だった。

ユリーベルの心に深く溶けていくその言葉に、彼女自身も少しだけ動揺する。

何故そんなにも悲しい顔をするのだろうか。

今にも泣き出しそうな顔で『応援している』だなんて。

けれど、彼の言葉が嘘偽りの無いものだとユリーベルは悟った。

だからだろうか。ユリーベルの心臓がぎゅっと押し潰されるように痛む。


ああ、そうだ。だってこの男は……ハルムンは時々、私の事を——。


いや。これ以上考えては駄目だ。それに気付いたらきっと、もう元の関係には戻れなくなる。

ゆっくりと、ユリーベルは目を逸らす。

何かが変わるよりも前に、蓋をして閉じ込めなくてはと、ユリーベルは唾を飲み込んだ。

「彼を好きにはならないわ。私の中でやるべき事は変わらないし、それを変える気もない。ずっと、お姉様の為だけにこの命を尽くすと決めたのだから。……だから……。——あの男を好きになる事なんてありえない。」

自分に言い聞かせる様に、ユリーベルは告げた。

ハルムンはユリーベルの瞳が僅かに揺らいでいる事を知りながら、口を閉じる。

その心の中に、小さな蕾が芽吹いている事を知りながら、ハルムンは何もそれ以上は追求しなかった。

「あっそ。まあ、全部はお前次第だしな。約束あるんだろ?早く行ってこい。」

「ええ、そうさせてもらうわ。——ハルムン、一つだけいい?」

ユリーベルは扉のドアノブに手をかけ、ハルムンの名前を呼んだ。

帽子を深く被ったユリーベルは、ハルムンの心を探るような目線で問いかける。


「——貴方は、誰?」


彼は大賢者で、面倒くさい事が嫌いで、ユリーベルの願いを叶えてくれる人。

……でも、それだけしか知らない。

優しくしてくれる理由も、一緒に居てくれる理由も。彼も目的も。

知らない事ばかりで、ユリーベルの中で疑問は絶えない。

けれど、ユリーベルはその答えを聞かない事にした。

その質問が風に溶けていくと、ユリーベルはパタンと、扉を閉めてハルムンと自分との間に壁を隔てた。

協力関係にあるからといって、全てを理解し合う必要は無い。

ユリーベルの興味がハルムンとの関係を壊したら全てがおしまいだ。

だからユリーベルは投げかけた問いの答えを聞かないまま部屋を後にしたのだ。

ぽつん、と部屋に一人取り残されたハルムンはその拳に力を入れる。

そよそよと柔らかい風がハルムンの淡いピンク色の髪を揺らした。


「——貴方は誰、か。もしもそれを話したら……それこそお前は俺を本気で嫌う事になるんだろうな。こんな身勝手な目的の為に、お前を利用している俺を。……なあ、ユリーベル。俺は——」


ハルムンはユリーベルが去っていった扉を見つめる。

その瞳は今にも泣き出してしまいそうで、とても儚げな目だった。

「お前が、誰かを好きになったらそれでいいと思ってるんだ。本心なんだぜ、これでも一応。だって……だってさ。」

ハルムンのもの寂しげな声は、太陽の暖かな空気に溶けていった。

ハルムンの瞳には何が写っているのかを、ユリーベルはまだ何も知らない。


「——愛した女には、幸せでいて欲しいんだぜ?」

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