ビーストリー <2 遊ぶ猫>
黒月水羽
奈落の夜が開けてから
久遠が透子の入院する病院に訪れたのは事件から五日後のことだった。
自身の診察に向かう道永、要と受付で別れ、真っ白な廊下を守と並んで歩く。幸いにも病院に縁がなかった久遠は落ち着かない気持ちで周囲を見渡し、人とすれ違うたび目立たないようにと被った帽子のツバに手をかけた。
透子の病室は奥まった場所にある。この病院は五家と懇意にしており、五家の事情や霊障にも詳しいのだという。他の患者と遭遇しないよう透子の病室は個室が用意され、限られた者しか通さないようにしているのだと聞いた。
そのせいか、進めば進むほどに人通りが少なくなっていく。要から預かったメモを頼りに進む守の足取りに迷いはないが、未知の空間ということもあって迷路の奥へ進んでいくような不安があった。
「ここですね」
守はそういって足を止める。下げていた視線をあげると名札差しに「猫ノ目透子」という名前がおさめられていた。間違いなくここが透子の病室だと確認した守はボールを持ってきた犬みたいな顔で久遠を見つめている。それに対して「ありがとうございます」と返しながら久遠は考えた。
ここまで勢いで来てしまったが、透子に会って本当に大丈夫なのだろうかと。
生悟から透子が会いたがっていると聞いたがそれが本当なのか、ここに来て不安になってきた。透子と話したのはあの精神世界の中だけ。透子にとって久遠は記憶を勝手に盗み見た侵入者だし、透子が護ろうとしてきた猫ノ目を後から出てきて荒らした人間であることは変わらない。
精神世界での会話を透子が覚えているという確証もないのである。その場合、どういう対応をとればいいのか久遠には全く思い浮かばなかった。
久遠は閉じたスライドドアの前で手を上げたり、下げたりを繰り返す。ドアを開ければいいだけなのに、その一歩が踏み出せない。
ドアの前で完全に固まってしまった久遠を守は不思議そうに見つめてくる。何で開けないんだろうという純粋無垢な視線が突き刺さって、久遠は余計に焦ってきた。
守だったらこんな風に迷ったりはしないのだろう。少しは強くなったと思っていたが、久遠はまだ弱虫でダメダメだ。
一旦落ち着こうと深呼吸する。
このまま病室に入って療養中の透子に気を遣わせたり怒らせたりするよりも、道永と要の到着を待った方がいいと久遠は考えた。最初からそうすればよかったのだ。透子だって久遠よりも道永と話したいに違いない。
そう結論付けた久遠はドアに背を向けようとした。守が目を見開いて、視線がドアと久遠を往復する。守が何かを言う前に久遠はその場を逃げようとしたが、
「久遠様、遠慮せずに入ってきてください。そうやって逃げられると透子ちゃんが気にします」
ガラリとスライドドアが空き、静かながら妙に圧のある声が耳に届いた。恐る恐る振り返れば笑顔の誠が立っている。その笑顔には「逃げませんよね?」という威圧がハッキリ見えた。
守の背筋が伸びる。久遠は逃げようとした姿勢のまま固まった。
「透子ちゃんに会いに来てくれたんですよね。中にお入りください」
声と表情だけは優しげに誠が奥を示した。
こんな人だっただろうかと記憶を探る。誠とは話したこともない。透子の後ろに仕えている姿を何度か見ただけで、まともに話しているのを見たのは事件の最中だった。影のように付き従う姿はまさに従者。どちらかといえば大人しい印象が強かったために、今の威圧的な姿と繋がらない。
「誠……さん、ですよね?」
違和感は接点がほぼない久遠よりも同じ環境で育った守の方が大きかったらしく、よく似た別人でも見かけたような困惑しきった声を出した。それに対して誠はうなずく。
「ず、ずいぶん雰囲気が……」
「強くならなければ大事なものは護れないと気づきましたので」
そう言って眉を吊り上げ、何かを睨みつけるような険しい顔をした誠の姿を久遠はもう怖いとは思わなかった。その感情には覚えがある。外は怖いと閉じこもっている間に居なくなってしまった両親。どんなに後悔したところで両親は帰ってこない。今から久遠がいくら強くなっても過去は変えられない。
でも、誠は違う。誠の護りたい人は生きている。
「同じ失敗は二度と繰り返しません」
強く拳を握りしめる誠を見て、久遠はホッとした。誠が側にいてくれたら透子は大丈夫だ。また同じように悩んで、迷って、重圧に耐えきれなくなったとしても、今度は誠が透子の手を引いてくれる。一人で悩ませることなど二度とないのだろう。
「透子さんは誠さんがいて幸せですね」
自然と口からこぼれた言葉に誠は目を瞬かせ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんです。私が幸せにします。私は透子ちゃんのお姉ちゃんなので」
胸を張る誠を見られることが久遠は自分のことのように嬉しかった。透子の心の一端に触れてしまったせいだろうか、勝手に誠に対して親近感を抱いてしまう。
「お姉ちゃんですか? 守人ではなく」
誠の発言に守は不思議そうな顔をした。その反応を見て、守は透子と誠の関係を知らないのだと気付いた。偶然、覗き見てしまった久遠が説明するのもおかしな話だし、どうしたものかと誠の様子を伺うと病室から焦ったような声が聞こえてきた。
「いつまで廊下で話している! 他の患者に迷惑だろ!」
その声が思ったよりも元気そうで久遠はほっとする。誠は透子の気持ちを正確に理解したようで、クスクスと楽しげに笑いながら病室のドアを開けた。
「透子ちゃん、久遠様と話したがっていたんですよ」
「ま、誠!!」
「あら? 姉上とは呼んでくれないの? お姉ちゃん、寂しいなあ」
寂しいというわりには楽しそうな誠の返答に透子が声にならない唸り声をあげたのが聞こえてきた。
守と顔を見合わせてから、とりあえず病室の中に足を踏み入れる。個室というだけあって広い室内にベッドが置かれている。
そのベッドに上半身を起こして座っているのは髪をおろした透子だった。髪型が変わるだけでずいぶん印象が違う。ヘアバンドで前髪を上げているためにつり上がった瞳はハッキリ見えるが、本邸で見かけていたときよりも柔らかいというか幼いというか、戸惑うように揺れていた。頬も赤いし、誠の発言に照れているのがわかる。
「お姉ちゃん?」
触れずにいればいいのに純粋すぎて空気が読めない守が首をかしげながら呟いてしまう。その言葉で透子の顔は着火した。真っ赤になった顔のまま目尻を釣り上げ、ギロリと守を睨みつける。隣にいた久遠は思わず「ひぃっ」と悲鳴を上げてしまった。
「猫ノ目はその後どうだ! 大事ないか!」
話題を変えたいとバレバレな大声で透子が久遠に話しかける。それを指摘する度胸はなかったために久遠は大げさなほど頭を上下させた。
「要さんと生悟さんが指示だししてくれてますし、他の家から狩人や追人が来てくれてます。猫ノ目からも他の家に追人が何人か穴埋めにいっているそうです」
「……生悟……さんが」
名前と敬称の間にずいぶん間があったうえ、眉間に深々とシワが入った透子の表情から生悟が苦手なのだとよく分かった。
透子の過去を覗いてしまった故に透子の気持ちは少し分かる。透子からみて狩人の中でも特別な生悟は目に毒だろう。それを抜きにしても透子は生悟に苦手意識を持っているようだ。真面目な透子と自由奔放な生悟は正反対ともいえるので透子が苦手意識を持つのは分かる。その生悟が今、猫ノ目の指揮をとっていると聞けば内心穏やかではないのだろう。
恐る恐る久遠は透子を見つめた。いつの間にか誠も心配そうな顔で透子を見つめている。二人の様子に気づいた守も遅れて透子を見つめ、三人の視線が透子に集中した。それでも透子は気づいた様子はなく眉間に皺を寄せて何かを考えている様子だった。
その険しい表情がふいに緩む。ふぅと息を吐き出した透子はこわばっていた体から力を抜き、顔を上げたところで自分を凝視する久遠たちの姿に驚き肩を跳ね上がらせた。
「な、なんだ」
「……透子様、生悟さんは道永様と透子様の代理です。穴埋めです。透子様の居場所を奪うなんてしませんし、絶対にさせませんから」
誠は力強く宣言した。あまりにも強い口調には生悟への拒絶が現れていて、ここにはいない生悟が少し可哀想に思える。
透子もそこまで否定されるとは思っていなかったのか、目をパチパチと瞬かせて、それから苦笑した。
「もう一人で抱え込んだりしない。生悟さんは……正直苦手だが、生悟さんが今の猫ノ目にとって必要なのは分かっている。昨日、土下座されたし」
「ここでも土下座したんですね」
ベッドに座る透子に向かって土下座する鳥喰四人の姿を想像して久遠の頬が引きつった。なかなかのインパクトである。すべての家で土下座するつもりなのだろうか。
「私こそ土下座すべきなんだがな。久遠にも、生悟さんにも。他の筆頭たちにも。あの場ではずいぶんと迷惑をかけた」
そう言って佇まいを正した透子は今にも頭を下げそうで、久遠は慌てて両手を左右に振った。
「透子さんは何も悪くありません。悪いのはケガレです」
「ケガレに屈しない。それが狩人の最低条件だ。ケガレに取り憑かれて暴れるなど狩人としては歴史に残る大失態。私は五家の歴史にケガレに取り憑かれた愚かな猫狩もどきとして記録されるだろう」
「そんなこと……」
否定の言葉が欲しくて誠を見たが誠は胸の前で両手を握りしめ、唇を噛みしめていた。守は気遣わしげに誠と透子を見つめている。その二人の反応から透子の言ったことは事実なのだと分かった。
五家には長い歴史がある。歴代狩人たちの記録に霊術の習得の仕方、ケガレの出没数の変化など事細かな記録が残っているのだと道永から聞いた。それはこれからも五家がある限り、きっとケガレが現れ続ける限り残り続けるのだ。
「そんなのあんまりじゃないですか……透子さんは誰よりも猫ノ目のことを考えて頑張ってきたのに」
親から期待されず、正当な狩人への劣等感にさいなまれ、不遇な環境のもとまともに学校にも行けずに戦い続けた透子。その透子の頑張りが認められず、ケガレに取り憑かれた猫狩なんて不名誉な部分だけが伝えられるなんてあんまりだと久遠は思った。そんなの許せないとも。
「私はそれでいいと思っている。記録は正しく伝わるべきだ。私個人の失敗、そして猫ノ目家としての失敗、それから金眼の必要性。すべて正しく、あるがままに伝えられるべきだと思う」
その悟りを開いたような静かな語り口に驚いて、久遠は透子を凝視した。
いつもつり上がっていた黄色の目が穏やかに細められ、晴れ晴れとした顔で久遠を見つめている。
「狩りは狩人と守人、二人で行うもの。そして追人、時には他家との協力しながら行わなければいけない。一人で出来るわけがないんだ。一人では出来ないから私たちは守人を見つけ、追人と協力し、五つもの家を現代まで伝えてきた。それを忘れてはいけないのだと今回の件で気づかされた」
透子はそこで言葉を句切ると久遠と目を合わせた。
「それを気づかせてくれた久遠に私は感謝したい。それから非礼を詫びたい。出会ってから今まで失礼な態度をとった」
頭を下げた透子に久遠は言葉が出なかった。そんなことをしなくていい。頭をあげてくれと言うべきなのに喉につっかえて出てこない。胸の奥から泣きたくなるような激情がせりあがってくるけれど、それは悲しいのではなく喜びで、初めて感じる感情をどう表現していいか分からず、久遠はただ視線をさまよわせた。
そこで久遠は自分を優しく見つめる守と誠と目が合った。二人の視線を受けてますます久遠は感情の置き場を失う。嬉しすぎて泣きそうになることがあるなんて思わなくて、でも泣くのは恥ずかしくて下を向いた。
「……俺には、もったいないです。俺はただ、必死だっただけで。また居場所がなくなるのが嫌だっただけで……」
家を護りたいとか、この町で生きる人々を護りたいとか、透子の方が立派な信念で立っていたのだと思う。それに比べたら久遠の動機なんて子供のわがままと変わらない。ただ失いたくなかった。なくなるのが嫌だった。だから必死にしがみついただけなのだ。
「それが私と家を救ってくれた。心から感謝しよう。金の猫」
柔らかなその声を聞いた瞬間、久遠の涙腺が崩壊した。ケガレが怖かったとか、助けられなかったらどうしようと不安になったことだとか、無力だった自分への悔しさだとか、あの日抱いた感情が一気に押し寄せてきて決壊したのだ。
突然泣き出した久遠の背を守が慌てながらなでてくれた。その手が温かくて、久遠は余計に泣きたくなった。
「えっ、どうしたの」
ドアの方から驚いた道永の声がする。それから要が久遠に駆け寄ってくる気配も。
それに対して久遠は何も言えなかった。「大丈夫か?」と問いかけてくる要にも答えきれずにただ泣き続ける。
病室の中に透子と道永がいる。生きてそこにいる。それが久遠はとても嬉しかったのだ。
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