第8話 吾輩、旧友を偲ぶ
昔は急坂だったお社への道は今は石段が詰まれ、真ん中には金属の手すりがあった。モジャは階段を駆け上がっていく。
(あった……)
坂の上まで来てモジャは、口を開けて息をしながら立ち止まった。見覚えのある朱塗りの鳥居は色褪せ、ところどころ剥げている。
その奥に苔生した石畳が続いている。参道脇の、あの頃まだ若かった木々は今や鬱蒼と茂り、日差しを遮るようになっていた。
駆けてきたのとは別の理由で、心の臓がどきどきと早鐘を打っている。
「……」
モジャはひげをピンと張り、緊張しながら境内に踏み入った。
頭上の枝を白と黒の小鳥が囀りながら賑やかに飛び交う。将次が長尾と香枝に
最奥に大きな
「にゃー」
(おい、狛狐)
「あーお、にゃーう」
(おい、返事しろ、赤目の、猫又の長尾だぞ)
――長尾、そのまま死を受け入れなさい。香枝に会える。香枝が待っている。将次への言伝なら、私が伝えてあげるから。
――妖になんぞなるものではない。死にたいと思っても死ねなくなる。死ぬ時は形はどうあれ、人に殺されるしかない。恨みが残る。
――あれほど言ったのに……長尾、なってしまったのなら、よくよく覚えておいで。その姿で怒りのまま、恨みのまま人を殺めてはいけない。生まれ変われなくなる。そうしたら、二度と香枝に会えない。
「なおーん、ににゃあ」
(なあ、狛狐、生まれ変わったぞ。お前の言うこと、最後まで守ったんだ)
「にゃーう、うみゃみゃな」
(全部お前の言う通りだった。俺、最後は将次に殺された)
「なああ、なう、にゅにゃなやんにゃ」
(香枝は見つかってないけど、将次はまた見つけたぞ。今は直也って言うんだ。会わせてやるから、出てこい)
「にゃおーん、なおーん」
(なあ、またいっぱい話したいんだ、出てきてくれよ)
「……なんだよ、お前、猫のくせにお稲荷さんに興味あるのか?」
砂利を踏みしめる音と共に、息を切らした直也が姿を現した。耳だけをそちらに向けながら、モジャは苔がつき、左耳の先が欠けた狛狐を見上げる。
「……」
(神気がない)
冬の冷たさを残した風が吹いてきた。そこに思わず身を正してしまうような清さはない。ただの風――。
――崇められて神になり、恐れられて妖になる。どれもこれも人あってのものだよ。それがなくなれば、消えるしかない。
いつかの狛狐の声が頭の中に響いた。神と妖の違いは何かと聞いた長尾に、そう穏やかに答え、頭を撫でてくれた……。
「……にぃ」
(そうか、お前、神様でいられなくなったのか……)
モジャは顔を伏せる。
直接手を下されたわけではないのだろう、狛狐は人への恨みが高じて妖となったモジャや人から恐れられて妖と化した奴らと違って、神様の眷属だった。
寂れて、人の気配のない稲荷を見ればわかる。人はもう誰もここの神様を信じていない――狛狐も形が違うだけで人に殺された。
(人はいつも自分勝手だ)
都合のいい時だけ利用して、悪くなったら簡単に捨てる。
妖の多くは形は違えど、捨てられた側のやつらだ。捨てられたことを恨んでいる。なのに、良くしてもらった時が忘れられない。良くしてくれた人がいたことを忘れられない。そうしてみんな壊れていく――。
「なんかわからんが、悲しいのか」
「……」
(どうせお前も捨てるくせに、香枝にそうしたように……)
将次は香枝が好きだった。そして香枝も――。
だが、二人ともどうしようもなく貧乏で、“立場”が違うとかで、相手のことが大事で、だからこそどうにもできないとか言っていた。
腹が減ったら自分で狩りをして食えばいい、好き同士なら
そうこうするうちに、香枝がどこかの茶問屋の若旦那に見初められ、将次は香枝から離れた。香枝にその気はなかったのに。
好き合っているのになぜ離れねばならないのか、長尾にはまったくわからなかったし、苛ついたけれど、周りの人間どもも将次を正しいと思ったようだ。
剣術の先生が将次にしばらく大坂に行ってはどうかと勧めて兄弟子の道場を紹介し――あの火事が起きた。そして、香枝は長尾以外、誰も看取る人がいないまま息絶えた。最後まで長尾の心配をし、将次を想いながら。
(お前が香枝をあきらめなきゃ、あんなことにはならなかったんだ)
「大丈夫、大丈夫」
そう思うのも確かなのに、直也の低い声は穏やかで頭に落とされた手は温かい。鼻筋から後頭部へとなんども往復するその動きも優しい。
「……」
ここはモジャの、長尾の故郷だ。香枝と将次がいた場所。
(でももう江戸じゃない――)
また冷たい風が吹いて、頭上の楠の葉がさわさわと歌うように揺れた。優しい木漏れ日がモジャの黒毛の上に金の彩りを落として踊る。
狛狐はもういない。美しく整えられていた石畳みは苔生してガタガタになった。鳥居はもう赤くない。社の前にいつもあった油揚げもない。
背の高い建物だらけになって、空は狭くなった。雲の向こうには轟音を立てて飛んでいく鉄の鳥がいる。風が吹くたびに砂埃が待っていた地は、アスファルトとかいう黒い石で覆われて、土の香りは滅多にしない。肩輪車でも輪入道でもない、引手のいない大八車が我が物顔でそこらを走り回っている。かつてはどこにでもいた子供も、その数を減らした。町は“でんき”を食らう灯だらけで、暗がりからポっと出てくる野火も狐火ももういない。
変わっていないのは楠だけ――。
「お前、腹の具合よくないんだし、そろそろ帰るか。ああ、でもその前に」
狛狐だった石像を見上げるモジャを、腰をかがめて撫でていた直也はおもむろに立ち上がると、社の前に歩いて行った。ごそごそとポケットを探り、銭を取り出す。
そして、朽ちかけているさい銭箱にそれを投げ入れ、お辞儀を二回すると景気よく柏手を二度打った。
「……就職したら全部クレカかスマホ決済にしようと思ってたけど、それも風情がないかもな」
最後にもう一度頭を下げた直也は振り返り、瞳孔を丸くしてその様子を見ていたモジャに笑いかける。
「……」
その顔になぜか救われたような気分になり、モジャは横の狛狐をもう一度見上げた。
「ほら、入って。今度は大人しくしてろよ」
「んにゃ」
(なぜ吾輩がこんな狭いところに閉じ込められねばならぬのだ!)
前面のファスナーを開けたキャリーケースを前に背中を押されたが、モジャは前足を踏ん張り、全身を後ろに倒して抵抗する。
「……しょうがねえなあ。さっきみたいに勝手に走ってくなよ? 車とか、危ないんだからな?」
頭をガシガシと書いた直也は、片手でひょいっとモジャの腹をすくいあげると、肩の上に乗せた。
「ここならどうだ」
そして、何が面白いのか、楽しそうに笑う。
「……」
奴の顔の向こう、同じ高さに狛狐が見えた。その糸目が笑っているような気がするのは気のせいだろうか。
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