無限の可能性への冒涜
森本 晃次
第1話 無限という発想
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年十一月時点のものです。それ以降は未来のお話です。
二〇五二年、世界の歴史は大いに変わった、それまで、
「開発は永久にできないのではないか」
と言われていたタイムマシンの開発に成功したと、タイムパワード研究所が発表したからだった。
「タイムマシンの開発というのは、理論的には無理ではないが、その理論を裏付けるための倫理が、成立しない」
と言われていたのだった。
いわゆる、
「タイムパラドックス」
と言われるもので、未来に対してというよりも、過去に対しての介入が、一番大きいといわれていた。
タイムマシンには、
「パラレルワールド」
と呼ばれるものが大きく影響してくる。
ただ、パラレルワールドというものは、
「異次元世界という発想ではなく。同じ次元の中で、もう一つの酷似した世界が存在している」
という発想である、
だから、タイムトラベルにおいて、
「過去に行って、歴史を変えると、未来が変わってしまう」
という当たり前の発想を、実は
「過去で未来の人間が何をしようとも、それはパラレルワールドにおいて行われることであり、未来が変わってしまうことはない」
と、パラレルワールドを、
「タイムパラドックスの解決法」
として見る考え方もある。
ただ、それは、実際の未来が変わっていないというだけで、過去を変えてしまった場合、自分が未来の戻ろうとすると、戻った先がパラレルワールドの可能性がないわけではない。
むしろこちらの方が信憑性も、説得力もあり、パラレルワールドの存在と、タイムパラドックスを一本の線で結んで考えるというのは、無理のあることなのかも知れない。
それを思うと、タイムマシンの開発に対して、
「タイムパラドックスが起こってしまうので、開発はできない」
という倫理的な考え一本ではなく、その解決法としてのパラレルワールドを創造したならば、今度は、
「パラレルワールドまで巻き込んだ形の理論的な説明が必要になり、どんどん解釈が拡大化してしまうのではないか?」
という考えが生まれてくることになる。
それを思うと、
「何かを解決するためには、一つ一つの疑問を潰していって、次第に疑問や溝を小さくしていき、それを埋めてしまうことが大切なのだが、タイムマシンの場合は一つを解決すると、さらに大きな疑問が生まれてきて、最後には追い付かない、あるいは、間に合わないという発想になるのではないか?」
と考えられる。
ただ、もう一つの考えとして、
「どんどん、穴が小さくなっていくのはいいことなのだろうが、会計の仕事で数字を合わせる時、大きな数字であれば、意外と簡単に見つけられるものだが、二円や三円の違いは、根本から見直さないと見つけることができない」
と言われるように、問題の穴が小さければ、簡単に解決できるという発想は、かなり荒っぽいものだといえるだろう。
タイムマシンの創造というのは、今の会計における、
「誤差の範囲」
のようなものなのかも知れない。
普通なら、大きな数字の違いの方が、複数の違いが感じられて、数字を合わせるのが難しい気がするが、実際には逆で、五円や三円などという金額は、一つの商品では、税抜きの状態では、なかなか合わないものだ。なぜかというと、元帳と請求書の金額を合わせる場合など、どちらが多いかというのは、何とも言えない、元帳が多いものもあれば、請求が多いのもある、つまりは、
「未計上と、未請求というものの可能性もあれば、数量相違であったり、仕入れ価格の一個単位の値段の相違などにより、単価が違っている場合もある。そうなると、どちらが多いかということは判断できず、誤差の範囲と言われる金額は、プラスマイナスが微妙に絡み合って、総合的に、金額が計算されるのだから、こちらの方が金額を合わせるのがむずかしい、なぜなら、大きな金額の差であれば、プラスマイナスによって、どちらに大きな差があるかということが、容易に分かるというものだ。微々たる差であれば、ヤマを張るわけにもいかない。だから、誤差の範囲というのは、癖が悪いといってもいいだろう」
ということになるのだ。
同じような感覚を思わせるのが、双六であった。
さいころの目を振り、出た目の数だけ先に進み、止まったところで、さらに支持を仰ぐ、
「ふりだしに戻る」
などというのもあり、あまり先に進みすぎると、却って難しくなっていくというものである。
特に難しいのは、ゴールの時だ。
「ぴったりと、さいころの目がそこに合わない時はゴールできない」
というルールがあった場合、最後までのマスが、二つだったとすると、三つ以上のさいころが出た場合は、その差の分、戻らなければいけない。
つまりは、さいころの目に六が出れば、四つ戻るという計算である。
つまりは、ゴールに近いからと言って、必ずゴールできるわけではない。もたもたしていると後ろから来た奴に、ゴールをかっさらわれてしまうことになってしまうのだ。
さいころの目が出て確率は、均等に六分の一なので、数が少ないほど、ゴールしにくいということはないのだが、
「残りのマスが、一よりも三の方がゴールする確率が高く感じられる」
というのは、なぜだろうか?
「数が多かった分は切り捨てして、残りが三マスであれば、四以上が出ればすべてゴールとした場合、残りのマスが六よりも、一の方がはるかに可能性が高いのは、一目瞭然のこと」
なのである。
確率の問題だと考えると、確かに、ゴールが難しいルールの方は、残りが六マス以内であれば、どれも同じ確率のはずである。しかし、簡単な方から考えると、やはり、残りマスが少ない方が、不利に感じるというのは、精神的な錯覚からきているものに違いないのだ。
それこそ、タイムマシンの発想に似ているのではないだろうか。
タイムパラドックスというのは、考えれば考えるほど、無限に出てきそうな気がする。
「世の中なんて、矛盾に溢れているんだから、どうしたって、開発できないものはできないんだ」
と考えてしまうと、まるで投げやりになっているようだが、タイムマシンの構造や倫理を考えると、何度投げやりになったとしても、意外と冷静になれるまでに、時間はかからないものであり、タイムマシンの発想というものは、それこそ、一筋縄ではいかないものなのだろう。
会計の数字合わせにしても、双六のゴールにしても、仕事と遊びの違いこそあれ、世の中の矛盾というものを、それぞれに垣間見させるものとして考えれば、結局戻ってくるのは、確率の問題だったりする。
「科学的な根拠を求めるには、数学は切っても切り離せないものだといえるのではないだろうか」
と言えるのだろう。
そういえば、相対性理論の観点から、
「我々はタイムマシンに乗らなくても、時間を遅くすることはできなくても、早くすることはできる」
というもので、スピードが速いものに乗っていると、時間はその中ではゆっくりに進行していることになるというものだ。
相対性理論の話というと、日本でいうと、浦島太郎のお話であったり、かつてのアメリカ映画であった、
「猿の惑星」
の話が思い出される。
猿の惑星というのは、
「宇宙ロケットに乗って、宇宙に旅立った飛行士が、数か月くらいだっただろうか、宇宙を旅して、ある惑星に到着した。そこは、猿が人間を支配する世界だった……」
というところから始まる話だったが、ラストの話は別にして、宇宙飛行士のセリフの中に、
「光速で旅してきたのだから、相対性理論の観点から、地球時間でいえば、数百年が経っている計算になる」
というセリフがあった。
そのセリフを思い出したのと、浦島太郎でいえば、
「海の底にある竜宮城に数日滞在していただけなのに、浦島太郎が故郷が懐かしくなって戻りたいということを言った時、乙姫様が玉手箱をくれた。それを開けると、中から煙が出て、おじいさんになってしまった」
というところで終わっている。
本当は、続きがあるのだが、ただ、浦島太郎がおじいさんになっただけではなく、地上はまったく知らない世界になっていて、自分を知っている人間も、自分が知っている人間も一人もいなかった。
何と、そこは、七百年以上が経った世界であったという話である。
数日間のはずなのに、実際には七百年以上が経っていたという理屈は、相対性理論しか考えられないだろう。
タイムマシンとは、少し違うが、相対性理論による、光の速度と時間の関係は、
「誰か特定の人間だけ、時間の進みを遅くすることはできる」
ということになるのだろう。
ただ、これを派生して考えると、
「不老不死」
という発想にも行きつかないだろうか?
不老不死とまではいかないが、寿命を延ばすことはできる。
ただ、それは、自分の感覚としては数日しか経っていないわけだから、相対性理論を使ってまで、長生きをするということにメリットがあるのだろうか?
もしあるとすれば、例えば、不治の病いに罹っていて、未来に特効薬が見つかるかも知れないという一縷の望みをかけた人がいるとすれば、それは、
「冷凍保存」
という発想にも似ているといえるかも知れない。
「数十年後に目を覚ますようにセットされた、冷凍保存の機械に身体を保存し、まったく年も取らずに数十年後に目を覚ます」
という、浦島太郎に酷似した話も実際に考えられているという。
ただ、何もしないで数十年、自分だけが年を取らなかったとすれば、それはどういうことになるのだろう?
例えば、事故に遭った人が植物状態になって、数十年生きていたとすれば、その人は年を取っているのだろうか? 若いまま時間だけが過ぎていくということは考えられないような気がする。
なぜなら、人工呼吸器をつけているだけで、あとは外気に触れ、さらに昏睡状態ではあるが、生きているのだから、眠りながらも年を取っていることになるだろう。
冷凍保存も、浦島太郎のような話も、猿の惑星の話も、それぞれに、SF色豊かな話であるが、微妙に違っている。
「不老不死」
という発想一つをとっても、それぞれで考え方が違っているに違いない。
そんな中、実際にタイムマシンを真剣に開発している研究所もある。
大学の研究として学校が予算をねん出したり、国立大学なのでは、文部科学省が許可した研究であれば、国から予算が出るだろう。
もちろん、タイムマシンという話は、信憑性の問題や、モラルの問題など、可能性だけを考えても、考えるだけで難しかったりする。
それを思うと、タイムマシンの研究は、予算と信憑性の観点から、大っぴらに研究しているということが分かれば、政府が攻撃されるのは分かっている。
なるべく、国家機密として、世間にバレないように研究をする必要がある。
「国家予算の無駄遣い」
というのは、政治家にとって命とりにもなる。
うまくいけばいいのだが、無駄に終わることは、避けなければいけないことだった。
ただ、冷凍保存の考え方は、実際に行われたことがあったような話を聞いたことがあった。
確かに不治の病でこのままなら、死を待つだけの人を、少しでも延命させて、目が覚めた時に、特効薬ができていれば、その成果は大いに発表できるものである。
しかし、このような延命措置が倫理的に許されるのか?
倫理的な発想が問題になってくる。
いろいろな宗教がこの世には存在する中で、
「してはいけないこと」
という戒律が存在する。
「人を殺めてはいけない」
ということは、誰にだって理解できるものである。
だから、
「自殺も許されない」
という意味で、戦国時代の悲劇のヒロインとして有名な、細川たま(ガラシャ)の話だってあるわけだ。
「自殺は許されないので、配下の人間に殺させる」
という発想であるが、これは自殺にはならないということか?
自分の手を汚さないというだけで、人を巻き込むことが、果たして戒律を守るということになるのだろうか。
これは勝手な本人による解釈なのではないか。そのために、人を殺さなければならなくなった人間の気持ちはどうなるというのか?
「そもそも、戦でたくさんの人を殺めているのだから、女一人の自殺を手伝うくらい、なんでもないおとではないか?」
と、そんな解釈であるが、キリシタン大名と言っても戦国大名。戦もすれば、人をたくさん殺すというものだ。
何しろ、
「殺さなければ殺される」
戦国時代というのは、そういう時代なのだ。
「人を殺めてはいけない」
と言って、殺めなければ、自分が殺される。
結局。誰かが自分を殺すことになるのだ。この世において、誰も殺されない時代が、果たしてあっただろうか?
平和主義の日本だって、凶悪な犯罪は山ほどある。世界に衝撃をもたらしたような事件だって、星の数ほどあるというものだ。
「私は決して人は殺さない」
と言っていて、それを貫ける時代は今だけなのかも知れないが、結局、何が正しいのかということは分からないというものだ。
そんな中、大学の研究では、タイムマシンの研究や、ロボットの研究もおこなわれているようだ。
今から五十年くらい前の、特撮やテレビマンがなどの初期の頃。タイムマシンやロボットというものを描いたSFが結構あった。
今であれば、大きなテーマの中の一つとしてそれらのものが考えられるというアイテム的な発想であるが、昔は、その一つ一つが命題であり、大きなテーマそのものだったといえるだろう。
これらのテーマには、共通点がある。
「かなり初期の頃から、近未来として開発されるべきものとして考えられていたのが、タイムマシンであったり、ロボットだったはずなのに、あれから五十年が経とうとしているのに、まったく開発されるという気配はない」
それは、別に研究できるだけの頭脳を人間が持っていないわけではない。
それ以外のところで、医薬品の開発であったり、コンピュータの開発など、軌道に乗れば、どんどん新しいものが開発されていき、今では五十年前から想像もできないような飛躍的なものになってきたのだ。
別にロボットやタイムマシンが、
「お遊び」
という発想ではない。
真面目に考えるべきものであり、それらのものが存在すれば、どれほど人類の進歩に役に立つというのか、それを思うと、おろそかにしていたわけではないのだ。
タイムマシンにしても、ロボットにしても、
「決して踏み込んではいけない」
というタブーを覗いてしまったのかも知れないのだった。
そのタブーとして、前述のような、
「タイムパラドックスと、パラレルワールド」
という発想がある。
そもそも、なぜタイムパラドックスがまずいのかというと、
「親殺しのパラドックス」
というのがある。
タイムマシンを使って、過去に行ったとする。そこで自分の親が自分を生む前に殺してしまえば、自分が生まれなくなる。
生まれないと、自分が過去に行くこともないので、親を殺すことはできない。親を殺さないと、自分は生まれてくる……。
という、無限ループを、パラドクスというのだ。
問題は、
「過去において、歴史を変えてしまったのかどうか」
というところである。
自分の親が自分を生む前の世界にいくのだから、生まれていない自分が、過去の真相を知っているわけではない。だから、自分が過去に行って歴史を変えても、その歴史は変わったものなのかどうなのかが分かるわけはないのだ。
逆にいえば、過去だと思っているその世界が、本当に、今の世界から見ても過去だといえるのだろうか。
「同じ次元で、よく似た別の世界が存在している」
と考えられる、パラレルワールドではないのだろうか?
だから、実際には違う世界をいくら変えても、本来の過去ではないのだから、その状態がいくら変わったとしても、未来に対して何ら影響を与えるものではない。それが、
「タイムトラベルを正当化させる」
という意味での解釈ではないのだろうか。
パラレルワールドとは別に、可能性という世界が広がっているという考え方もできるだろう。
未来があって、現在があって、過去がある。
つまりは、未来が次の瞬間には現在となり、一瞬にして過去になってしまう。
そういう時系列が存在していることから、
「次の瞬間には無限に可能性が広がっている」
という考え方である。
その可能性が、時刻や瞬間ごとに、末広がりのように可能性が広がっていくのだとすれば、次の瞬間の可能性というのは、本当に無限なのだろうか?
逆に言えば無限のさらに広い世界が広がっているのだろうか?
という考えなのだが、それは、まるで、
「次の瞬間に広がっている可能性は、まだまだ無限ではない」
ということになるのであろうか。
それ以上広がることのないものが無限だと考えると、瞬間瞬間のさらに次はということになると、いつまでたっても、無限に行き当るということはないということではないだろうか。
行き当ってしまえば、それ以上先はないということになるわけだし、それが次の瞬間でしかないという考えに至ってしまうに違いない。
最初が無限ではないとすれば、どんどん先に向かって、つまり無限を目標に伸びているとすれば、これから伸びていく時間も無限だといえるのではないかと思うと、最後がないわけだから、まるで底なし沼のように、
「どこまで沈めば気が済むというのか?」
という発想に行きついてしまいかねない。
「無限に無限を掛けるとどうなるというのだろう?」
という発想に行きつくような気がして、それこそがパラドックスだといえるのではないだろうか。
これが、タイムマシンの開発を不可能にしているものであり、これ以外にも、タイムマシンの正当性を揺るがすものがたくさんあると考えられているものではないだろうか。
これは、タイムマシンに限ったことだけではなく、他の科学的な発明に共通したものだといえるのではないか。
その一つがロボット開発であり、このロボット開発には、タイムマシンの開発と酷似したものが存在しているといってもいいだろう。
ロボット開発にも、
「無限に無限を掛ける」
という発想があるに違いない。
無限に無限を掛けるというのは、掛け合わせるという意味合いもあるが、もう一つは、
「無限を紡いでいくこと」
という発想なのではないかと感じた。
「無限に無限を掛けるというのは、見減を無限に紡いでいく」
という発想だとすれば、それはさらに増えていくことになる。
二次元である平面に高さを掛けると三次元になる。これは、今我々のいる世界であるが、そこから、さらに異次元として言われる四次元という世界には、時間というものを掛けるという発想から、三次元が四次元になるということで、その四次元というものが、どうやら、
「時空の歪み」
のようなものだと感じているようだが、それも、無限という発想と組み合わせれば、さらに複雑なものに感じられ、四次元の世界を説明するうえで、都合のいい言葉にもなっているようで、無限という言葉は、曖昧に感じられるが、ある意味、都合がよく、何かの説明をするのに、万能な力を発揮するような気がする。一種の、
「オールマイティ」
という意味で、最強の武器ではないかと思えるのだった。
この発想が、今までは開発されそうで開発することができなかったという意味で、タイムマシンと似ている、ロボット開発なのではないかと思うのだった。
タイムマシンのようなパラドックスを、ロボット開発は秘めている。タイムマシンが、
「時空を横の線にして、現在から過去や未来に伸びているように見えているのに、三次元までの世界は時系列でしか動くことのできないものだ」
と説明することで、
「四次元という世界を、無限という発想を抜きにして考えることができないものではないか?」
と考えるようになると、いろいろな発想が生まれてくる。
SF小説などで、タイムマシンがたくさん使われるのも、ある意味、無限の発想があるからではないだろうか。
さて、もう一つの無限の可能性として、
「ロボット開発」
というものがあるが、これには、最初から大前提が存在している。
その発想の期限となるのが、
「フランケンシュタイン症候群」
というものだ。
ロボットの元々の発想としての元祖に、フランケンシュタインの発想がある。
「ある科学者が、理想の人間を作り出そうとして、肉体的には強靭な人造人間を作り出したのだが、手違いによって、その人造人間は、我々なまみの人間を攻撃し始めるという話で、結局、悪魔を作ってしまった」
という、小説における架空の話である。
つまりは、
「ロボットを作るのであれば、まずは、人間に害を加えないということが、最低条件である」
というのだった。
そこで生まれたのが、
「ロボット工学三原則」
という発想であり、さらに、ロボット開発の最大の問題として考えられているのは、
「フレーム問題」
と言われるものであり、それが解決しないと、人工知能を持ったロボットが、最低限必要とされる、
「ロボット工学三原則」
を守ることのできないものになってしまうという発想である。
「フレーム問題」
と呼ばれるものが、相対的に、異次元といy発想にあるのであり、ここに、
「無限」
という発想が絡んでくるのである。
異次元の場合もフレーム問題の場合も、無限という発想は、
「可能性」
という問題であり、逆に、可能性だからこそ、無限に広がるものなのだ。
ここでいう可能性というものが、不確実なものだといえるのかどうか、曖昧な発想をいかに紡げるかというのが、時系列での発想となるのではないだろうか。
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