先生から差し伸べられた救いの手
「先生、失礼します」
部屋をのぞくと、先生は踏み台に登って高い位置の本に目を通していた。今日は畑に出ていたのか、肩の辺りが土で汚れている。
「ミレット、少しそこで待ってて」
本と書類が乱雑に詰め込まれている部屋。先生が自然の光を好むおかげで窓は無事だけど、そこ以外は全て壁までぎっしり本が積んである。代わりに隣の実験室は余分なものが何一つなく、丁寧に整理整頓されている。
この部屋は本と土の匂いに満ちている。インクの香りもする。先生らしさを思い切り吸い込む。
日差しに背を向けて文字を追う先生の真剣な顔をしっかりと心に刻み付ける。心からの尊敬と、少しだけ胸が高鳴るこの気持ちも一緒に。ずっとそばにあると思っていた日常が、こんなに簡単に失われると知っていたら、もっと大切に過ごしたのに。
しばらくして本を棚に戻した先生は踏み台から降りた。
「ごめんね、区切りが悪かったものだから」
ジラルス先生は若くして農学の教授になった研究者で、私が研究院で学ぶきっかけを作ってくれた恩人だ。休み時間や放課後に、頻繁に研究院に忍びこんで先生の畑を観察して記録を付けているところを見つけて拾ってくれた。
いくら学園での成績が良くても、面倒を見てくれる先生がいなければ研究院への出入りは認められていなかったはずだ。
「お邪魔して申し訳ありません」
「今日は、もっと遅くに来るかと思っていた」
言いながら、先生は椅子の上に乗っている本をどけて私が座る場所を作ってくれた。いつもは幸せな気持ちになる先生の笑顔が、今日は少し私の胸をしめつける。
学園の高等部と違って研究院に春休みはない。私は授業を受けたり畑の観察をしに、学校が休みの間も頻繁に研究院に顔を出していた。いつもは夕方頃に顔を出すのだけど、今日は落ち着いて相談する時間が欲しかった。授業が無いことを確認して、早めの時間を選んだ。
先生が座ったことを確認してから、昨晩練習した言葉を頭に呼び起こす。緊張して手に持った用紙をつい強く握ってしまう。
「き、今日は、お別れとお礼と相談で来ました!」
「お別れ?」
いつものように、私が農学関連の質問や報告をしようとしていると思って、紙とペンを引き出しから取り出していた先生の動きが止まった。
「私、学校を辞めることになりました。今までお世話になりまして、ありがとうございました」
先生が驚いたように目を見開いて私を見ている。
「でも、研究院には入りたいので、その論文作成の旅に出ようと思うのですが、北と西、どちらがいいかご指導頂けないでしょうか」
北には、新しく栽培を始めたと噂の果物がある。
西には、以前から興味があった天災に強い穀物がある。
昨日まとめた用紙を机の上に差し出した。北と南、どちらを選んだ場合に何を研究してどういう論文にしたいか、という内容だ。先生は用紙を見ずに、じっと私と目を合わせたまま動かない。
学校を辞める以上、もう先生の教え子ではない。好きにしなさい、そう突き放される事が一番怖い。少しくらいは私の行く末を気にかけてくれるだろうか。
怖くなって、視線を外して机の上の用紙をじっとみつめた。
「や、やっぱり、論文にしやすいのは北の果物でしょうか?」
「ちょっと待って、ミレット。ごめん、ちょっとだけ待って」
固まっていた先生が動き出した。視線を先生に戻すと、心なしか動揺しているように見える。いつも落ち着いている先生のこんな様子を見るのは初めてだ。
「あのね、北と西を選ぶ前に、もう少し詳しく聞かせて欲しいんだ」
「申し訳ありません。東と南を捨てたのは早計でしたか?」
「えっと、違うな。学校を辞める理由を聞きたい。どうしてかな」
(良かった、見捨てられてはいない)
「正確には、通えなくなりました」
「理由を聞いてもいい?」
私は先生に、平民になった経緯を説明した。眉根を寄せて真剣に聞いてくれる。
「ありがとう、話がつながった」
先生は腕を組んで天井を見つめて考え込んだ。
旅先について考えてくれているようだ。突き放されなかった。胸のあたりに固く詰まっていたものが、ゆっくり溶けて全身に血が回り始めた。思い切り息を吸い込む。
先生は北か西か、どちらが論文を書ける可能性があると考えるだろう。どうせなら、せっかくまとめた用紙を見て欲しいのだけど、全然見てくれる気配がない。
口頭で説明した方が良いだろうか。少しそわそわし始めた頃に、先生がやっと口を開いた。
「君には確か、弟がいたと思うけれど彼も学校を辞めるのかな」
(弟?)
「いえ、弟は親切な知り合いに預かって頂けるので、そこから通い続けられそうです」
「そう。ミレットが学校を辞める手続きは、もう済んだの?」
「いえ、先ほど記入する書類を何枚か受け取ってきたところです。明日には提出しようと思います」
「それなら明日、書類を提出する前に、ここに来て欲しい」
書類に研究院につながる推薦状のようなものを付けてもらえるのだろうか。だとしたら、とてもありがたい。
「承知しました。⋯⋯あの、旅先のことも、明日ご指導頂けるでしょうか」
先生は、思い出したように私がまとめた用紙に目を落とした。
「うん、明日までに考えておく」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
学校を辞めても、またここに来て相談していいか。一番聞きたかったことは聞けなかった。許可出来ない、もしそう言われてしまったら。
でも、今晩はまだ夢を見て過ごすことができる。死刑執行が1日延びた気持ちだ。
◇
翌日、先生の授業が終わった時間を見計らって部屋をのぞくと、先生は机で書き物をしていた。
漆黒の髪が太陽の光を浴びて輝いている。先生が身動きすると、さらさらと動き、光も揺れる。先生が真剣な顔で何かを書くペンの音だけが響いている。私の大好きな光景。
ペンを走らせる手が止まったところで、そっと声を出した。
「先生、失礼します。ミレットです」
「うん、待ってたよ」
ペンを置き、顔を上げてほほ笑んでくれる。机の前の椅子に座るよう促された。
「提案があるんだ」
先生は机の上で両手を組んだ。これは大切な話をする時の姿勢。私も姿勢を正した。
「条件付きではあるけれど、学業を続けられる方法がある」
「学業を⋯⋯続けられる、方法」
「そう。かなり特別な事だけど、君は優秀だから上手く話が進められた」
先生は学校と研究院の両方と交渉して私が学業を続けられる方法を見つけてきてくれたという。
研究院で先生の助手として仕事をする事。
研究院に入るための研究と論文作成を必ず行う事。
この2つを条件に、高等部への通学を認めてもらえるという内容だった。
これを、学園長も研究院の院長も了承してくれたそうだ。学園長は、初等部時代から一度も学問で1番を譲ったことが無い私の資質を惜しんでくれていたらしい。即断してくれたそうだ。
これは私に得しかない話だ。先生の助手になれるなんて夢のようだし、研究院に入るための研究と論文執筆は、止められてもやりたいことだ。
(先生から離れなくてもいい!)
これが一番嬉しい。学校を辞めることは受け入れられる。でも先生から離れることは、想像するだけでも身を切られるように辛かった。
カタン、と音をたてて先生が立ち上がり、机を周って私の目の前に立った。困ったような顔をして、私にハンカチを差し出すのを見て自分が泣いていることに気が付いた。
「す、すみません。失礼しました」
あわてて、自分のハンカチを出して涙を拭いたけれど、泣いていると自覚したことで余計に涙が止まらなくなってしまった。嗚咽まで出てきてしまう。
(どうしよう、止まらない)
泣きじゃくる私の頭を、先生はそっとなでてくれた。いつもの本と土の香りに、ふわっと石鹸の香りが混ざった。
「もう、大丈夫だよ。私が必ず君を研究院に入れてみせるから」
「ありがとうございます、先生。ありがとうございます」
ずっとずっと不安だった。両親と一緒に畑を耕せば、生きて行くことは出来るだろう。でも、研究院に入る道は険しくなった。もう無理ではないかとも思った。
私は研究院に入って、ずっと先生と一緒に研究がしたい。
旅に出たとして、本当に一人で論文を仕上げられるだろうか。旅費もそれほど多くは望めないなかで、一人で見知らぬ所に旅に出て、本当に研究を続けられるだろうか、不安は日に日に大きくなっていた。でも両親の手前、旅が楽しみで仕方ないという顔をするしかなかった。
我慢して押さえていた気持ちが、後から後から、涙としてあふれ出てきてしまった。泣き止むまで、先生は優しく頭をなでてくれた。
落ち着くと、先生はもう一つ提案をくれた。
「手伝いが増える分、学校から帰る時間が遅くなってしまう。馬で通学するのは難しくなるから、私の家から通ったらどうかな」
うちは貧しいので王都に屋敷が無い。正確には維持出来なくなって朽ち果てた屋敷しかない。だから、領地の両親の屋敷から2時間近くかけて馬で通っていた。
寮がないこの学園では、ほとんどの生徒が王都の屋敷から馬車で通う。こんな生徒は前代未聞だと学校中で噂になっていた。
「先生の家からですか? でもご家族にまで、そんなご迷惑をお掛けするわけにはいきません。私、早起きは得意ですから今まで通りで問題ありません」
先生は少し困った顔をした。
「実は、頼みたいことがあるんだ。私の息子の勉強を助けてやってもらえないかな」
先生の家族の話は初めて聞く。
先生は奥さまを亡くされていて、息子さんと二人で暮らしているそうだ。数年前に先生の奥さまがお亡くなりになるまで、息子さんは奥さまの静養先と王都を行き来していて、学校に通いにくかった。その分の遅れが、なかなか取り戻せないまま今に至っているので、勉強を見て欲しいというお願いだった。
「私が勉強を教えると、反発されて言い合いになってしまうんだ」
家庭教師をすることは問題ない。私には弟もいるし、上手くやれるだろう。でも、さすがに家に家に置いて頂くのは甘えすぎだと思う。
「私の助手と、息子の家庭教師を引き受けて欲しい。書面にまとめたから、家に帰ってご両親と相談してみてもらえないかな」
先生は私を見捨てるどころか、救いの手までの差し伸べてくれている。嬉しくてありがたくて、また涙が出てきてしまいそうになる。
「それにしても、ミレットの髪の毛は、本当にふわふわで触り心地がいいね」
先生の笑顔と笑い声につられて、出かけていた涙がひっこんだ。つられて私も笑ってしまう。
「先生、ありがとうございます。両親に相談してみます」
◇
父は初めて入る研究院が興味深いようで、あちこちに視線を走らせている。父が王立学園に通っていた頃の研究院は、王都の各地に散らばっていたそうだ。今のように大きな建物にまとまってから、まだ10年も経っていないらしい。
先生の提案に、両親は難色を示した。
「教授のお話はお前から、もう耳を閉じたくなるくらい毎日、何度も聞いているから、立派な方なのだとは思う。助手のことは、ありがたくお受けしたらいい。だけど家にお世話になる事は反対だ。さすがに申し訳ないだろう」
助手のことだけ父から改めて先生にお願いさせて頂こう、ということになった。
先生は今日は一日授業が無い。部屋をのぞくと留守にしていた。
「多分、畑だと思う」
先生は、他の数人の助手と一緒に畑で作物の確認をしていた。私と父は、離れたところで先生の作業が終わるのを待つことにした。
「思ったよりも、広い畑だね。よく手入れされている」
父は楽しそうに畑を眺め、私に作物について尋ねた。助手の仕事についても、あれこれ質問してくる。そうこうしているうちに、先生の作業が一区切りついたようだ。助手たちが立ち去り、先生がこちらに向かって歩いてきた。
「申し訳ありません、お待たせしたようですね」
父に向って軽く会釈をした。私たちがいることに気が付いていたようだ。
「先生、毎日お邪魔して申し訳ございません。昨日いただいたお話について、父から先生に直接お礼を伝えたいと申しますので、連れて参りました」
「ミレットの父です」
「セイボリー・ジラルスです」
父と先生が歩み寄り握手をした。父は私に向かって、先生と二人で話をしたいから、少しどこかに行っているように言った。先生を見ると微笑んでうなずいてくれている。私は少し離れたところで待つことにした。
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