妻の呼び声
差掛篤
第1話
僕の妻はとても愛らしい習慣を持っていた。
夜、寝る時には必ず
「寝ますよあなた。こちらへどうぞ」
と何度も僕を呼ぶのだ。
僕はのんびり屋で、ついつい寝るまでの洗面や身支度も遅くなりがちだ。
妻は早々にベッドへ入り、時には楽しげな声で、時には少し疲れた声で、またある時には甘い誘うような声で僕を夢の世界へ誘うのだった。
リビングにいると、寝室の開いたドアから少し中が見える。
掛け布団を被った妻の脚が見え、寝室の窓には美しい長髪の妻の姿が薄暗く映っている。
この時間は夜の楽しいひとときだった。
だが妻は、突然の病で永遠の眠りについた。
鈍い僕は、無闇に家事をしたり、仕事を増やしたりした。
生活に一生懸命になる事で妻との別れを考えないようにした。
正面から向き合うと、僕は正気を失ってしまいそうだから。
だが、僕はどんな形でもいい。
何が何でも妻を返してほしいと神に祈った。
妻の葬儀が終わり、四十九日を過ぎた頃だった。
夜、耳穴から心臓までを貫いてきそうな静寂と孤独の中、僕は洗面していた。
「寝ますよあなた、こちらへどうぞ」
懐かしいセリフが聞こえた。
僕は思わずタオルから顔を上げる。
だが、声は聞き慣れた妻とは違う。
どこかくぐもって、品質の悪いカセットテープで再生したような…妙な声だった。
「寝ますよあなた、こちらへどうぞ」
また聞こえた。
僕はリビングへ行く。
暗いリビングに、わずかに開いたドアから寝室の明かりが漏れている。
僕は目を凝らした。
妻の脚が見えた位置に、確かになにか見えた。
だが、妻の愛らしい脚の形とは違う。
細長いパイプのような形に、掛け布団がかかっている。
ひどく細くて、なだらかな妻の脚とは違う。
そもそも脚と言えるような細さではない。
僕は寝室の窓ガラスを見た。
そこにはベッドに座る異様なものが、映り込んでいた。
首は細く、そして長い。
モップを逆さまにした様なシルエットで、ボサボサの長い髪が、ベッドに掛かるほど長く広がっている。
真っ黒で、不格好であり、悪魔崇拝者がクリスマスツリーの飾り付けをすれば、こんな物を作り出すかもしれない。
細長い首についた顔には、2つの小さな光が見える。
夜の猫の目のようだった。
「ねますよ あな た こちらへ どうぞ」
壊れたテープのようなくぐもって、途切れた声が寝室から聞こえる。
僕は背筋が凍る。
愛する妻はもういない。
寝室から僕を呼ぶ声は誰の声だろう…
僕は寝室に行きたくない。
おぞましい何が、僕を待ち構えているに違いない。
だが、身体は言うことを聞かず、僕を寝室へ導いていく。
確かに僕はどんな形でも妻に会わせてほしいと神に祈った。
だが…恐ろしい姿で…怪異としてこの世に蘇らせるなんて望んでいない。
僕は寝室のドアへ手をかける。
「寝ますよあなた、こちらへどうぞ」
またくぐもった声が聞こえる。
だが…よく聞けば心地の良い声だ。
妻の声とほぼ遜色ない気もする。
細い脚、長い首、光る眼…
美しく、スレンダーな妻を思わせる。
僕は狂い始めているのだろうか。
僕は寝室へ入る。
暗い中に、妻の姿をしたモノがベッドに座っている。
僕はその長い髪をなで、首を触る。
ああ妻だ。
優しく、聡明で、スレンダーな妻。
「寝ますよあなた、こちらへどうぞ」
妻が、夢の中のような声で言う。
「わかったよ」僕はこたえる。
そして、妻の髪を撫で、少し硬くなった頬へキスをする。
妻は、帰ってきてから痩せたような気がする。
少し心配だ。
だが、あの世から蘇ったんだ。
心配はいらないだろう。
僕は妻に語りかける。
「寝ようか…明日も早くから家の掃除をしなくっちゃあ…」
「寝ますよあなた、こちらへどうぞ」
「わかってるって、ごめんごめん。そう言えば…最近、モップと物干しとカセットテープがなくなったんだよ。音楽を聞いて家事するのが、僕は好きなのにさ。どこ行ったんだろう」
「ねますよあなたこちらへどうぞ」
「わかったよ。ごめんね。夜更かしは毒だね。それじゃあ、おやすみ。愛してるよ…」
僕は優しい妻に、おやすみのキスをした。
そして、妻に寄り添い夢の中へ沈み込んでゆくのだった。
妻の呼び声 差掛篤 @sasikake
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