3- 白アザの黒少女

 二階天井地点。二人の女による、衝突が巻き起こった――。


 その衝撃が、少女のねがいをめちゃくちゃに破壊する。

 風船の破裂のように、頭の中が真っ白に吹き飛ばされた。足掻きもヘドロも何もかもが連れ去られる。 

 何が起きた――今何が起こっている――


 離れはしないと彼女の両腕が背に回った。

 痛いほどに、抱き寄せられる。

 何故私は、独りで落ちていない――


 ぐわりと体勢が崩れる。桜が視界を通り過ぎて、間近に迫った青タイルが最期の景色に定められる。

 反射的に、本能的に、強制的に、「痛みの想像」が脳を焼いた。

 ――死ぬ! 死んでしまう!―― それが望みだったはずなのに――。


 窮地を直感したとき、無意識下で、意志が勝手にもがきだした。

 埋もれてやつれて、色褪いろあせて、かろうじて残っていた誇りと美学が、わずかに息を吹き返す――。

 その回路で、最期の最期に少女が起こした行動は、


 ――共に落ちるの女を、死からかばうことだ。


 咄嗟だった。少女は胸にうずまった彼女の頭を、おおうように抱きかかえた。


 アクセル全開で、ズームアップしてくるタイル面。

 眼の奥で――警告の光が――バチバチと明滅――――。

 風圧。顔を直撃する風圧が、ひどく恐い。顔が激しく引きつる。それを超えて、歪んでいく。

 そして

 その時だった。


 世界のスピードが、一気に引き延ばされる――少女は、時間の流れが急激に遅くなる感覚におちいった。


 下へ落ちれば落ちていくほど、落ちる速度が落ちていく。倍に、倍に、更に倍に。まるでスーパースロームービーのようになっていく。風圧までもが弱まっていく。


 人は、

 唐突な死の直前にひんした際、そのような体験をすると言う。いわば極限の集中状態。それに少女も入り込んだということか。


 荒い自分の息づかいが感じられる。スローモーションは、もはや停止の域に達しつつあった。

 タイル面は目と鼻の先にあるのに、いつまでもぶつからない。今のうちに覚悟を決めろと言われているようだ。そんな状況で蟻が一匹、何食わぬ顔で目の前を通り過ぎていく。全くもって意味が不明だ。どうにかなって……しま……う……、




 ……蟻が一匹、……目の前を通り過ぎていく。




「は…ぁ……?」思わず、クエスチョンが漏れ出た。


 ……蟻が一匹、……目の前を通り過ぎていった。


 ――これは―― 一つ違和感を掴むと、後は早かった。

 スローとは言えない自分の呼吸ペース。

 聞こえてくるすずめのさえずり。

 というか、髪が、垂れてタイルについている。

 ――まさか――

 答えが出た。ただ自らそれを疑った。それほどの答えであった。


 しかしそれが正解だ。二人は、平常の時の中で、なんと逆さのまま空中に停止していた。というよりは、浮いていた。


 そして、

 置かれた状況を受け入れきる前に、

 時が再び動き始めた。今度はゆっくり――ゆっ…くりと――沈むように――。

 やがて、少女と彼女は、アポロから降り立ったアームストロングのように、無事に地表へと着地を果たしたのであった。


 校舎の日陰にさらされ、ひんやりとしたタイルの上で、お互いに抱き合う形で寝そべった二人。

 先に動いたのは少女の方であった。劇的経験を終えて荒くなった息を整えながら、恐る恐る逆光の彼女から手を離して、恐る恐るタイルに触れる。

 ――体が動く。息をしている。物に触れれる――

 実感はできた。

 だが、まだまともに生きていることが、そして自分の身に起こったことが、あまりよく理解できない。


 いやそれよりも。

 ゆっくりと体を起こし、見下ろした。

 そこには、まだ自分の体にひしりと抱きついたままの、見覚えのない〝女生徒〟――逆光の彼女は、少女と同じ才林高校のスカートタイプの制服を着ていた。


 だがそれよりも。

 少女の目を引いたのは、〝彼女という人物そのもの〟であった。


 はっきり言って、見とれた。

 あまりに神秘的なのだから。

 雪のように、腰まで広がったその長い髪は白く透明。それでいて肌は、まるで冬の曇夜くもりよのように暗かった――褐色肌というよりも、それは灰の色に近い。

 そのコントラストが生み出している彼女の美は幻獣的で、素直に、心を奪われてしまっていた。


 ――と、その途端、相手の体がガバリと起き上がった。

 雪色のまつ毛が囲んだ二つの黒い瞳に、真正面から見つめられる。思わず息をむ。

 そのまま、彼女の左頬ひだりほほへと視線が吸い寄せられかけたその時、

 彼女の表情がカッと燃え盛った。

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。ちぎれるほどの勢いで、胸倉を鷲掴わしづかみにされたのだ。


「テンッメエ! フザッけんじゃねえぞォ!!」


 可愛らしい童顔をバリバリつき破り、裏社会モノ顔負けの剣幕が飛び出してきた。

 瞬間最大風速ギャップ。少女は豆鉄砲チャカをもろにくらった。神秘的がどうとか全部蹴散けちらされた。


 だがその威勢はどうやら一発が限界だったらしい。改めて見れば彼女の調子はかなり悪そうだ。とっくに落ち着いた少女に比べ、まだ呼吸は整っておらず、額には脂汗あぶらあせにじませ、もともと薄かった血色もさらに薄らいでいっている。

 というかだ、彼女の目の焦点が合わなくなってきた。


「ガチで…! 危な…かっ……」そこまで言うと、とうとう女生徒はプツリとこと切れ、身を預けるようにしてこちらへと倒れかかってしまった。


 少女は茫然ぼうぜんとした。


「……えッ!?」――死んだ!?――


 一瞬本気でそう思ったが、肩に乗った彼女の頭からスヤスヤと暖かい息を感じた。なんなんだ、この女は!


 と、そこで校舎玄関奥から、祝福の声が湧いた。

 新入生達がやってくる。まずい。

 この状況である。さして問題にはならないと願いはすれども、ややこしいことになるのは必須じゃないだろうか。

 冷や汗が出る思いに襲われる。


「ねえ! 起きて! 起きてって! ねえちょっと!」彼女を揺すってはみたが、起きる気配のkの字もない。


 ダメだ――焦り焦って、少女は急いで彼女をおぶった。小学生だと言われてもギリギリ信じられそうなその体は、想像以上に軽かった。


 玄関にはもう人影がちらほらと集まってきている。

 一連の出来事全部ひっくるめて、誰にも目撃されていないことを切に祈り、そそくさと校舎裏へ逃げ去っていく少女。その姿は、情けないことにコソ泥のようであった。

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