Case3-11 少女

 この先に、母がいる。幸か不幸か不幸中の幸いか、道は開けたのだ。ならば進まなければならない。少女は狭い歩幅で少しずつ巨大穴へと近づいていった。

 気を紛らわせるためか無意識に両手をにぎにぎと触れあわせる。近づくほどに、体の内から緊張と警戒が強まっていくのを感じる。


 途中、転がっていた点灯中のヘルメットを拾い上げると、そのままおっかなびっくりに巨大穴の先を照らしてみた。白だ。研究所内ですっかり見慣れた、無機質な白い壁がそこにはあった。少しだけ安心した。どうやら扉の先はすぐに仕事場というわけではなく、廊下の一本道らしい。そして今度は、穴の輪郭をなぞるように照らし、改めてまじまじと観察してみる。力任せに破壊されたであろうコンクリートが、ぎざぎざと歪な形の牙のように崩れている。実におぞましいその全貌はまるで、巨大な獣がガパりと口を開いているようだ。そう、例えば……少女は、観察したことをつくづく後悔した。


 彼女の心を乱すものはそれだけではなかった。

 倒れている男達の存在――彼らを痛くしないように、もしくは起こしてしまわないようにと、少女は男達を決して踏まないように気をつけて進んでいく。

 だがどういう訳か、彼らが視界に入り込むと、少女は大げさな素振りで、半ば反射的に目を背けてしまうのだ。そのせいで余計に時間がかかり、いつまで経っても先に行けず、少女の中で焦りが募った。


 わからなかった。やはりどうしても彼らを見てはいけない、そんな気がした。

彼らの存在を足元に感じると、自分の中の何かが傷つけられていく、そんな思いがあった。

 すると急に、目元にじわりとした熱い感覚が登ってくるのを感じた。その感覚に理解が追いつかないままでいると、少女の頬を伝って、独りでに涙がこぼれ落ちていった。そしてちょうどその頃、少女はようやく歩みを終えた。


 踊り場と零階フロアの境界線――巨大穴の入り口。

 移動した距離はたったの数メートルぐらい。しかし彼女の両肩には、既に虚しさを感じさせるほどの疲労がどっともたれ掛かっていた。彼女の年齢で経験するには、あまりに酷なものだ。

 そのせいでどこか上の空のまま、少女はフロア内部にヘルメットライトを向けた。

 暗闇の中に隠れていた光景がぼんやりと姿を現す――ある程度続いた、道幅の広い廊下。途中から曲がり角になっており、当然ライトの光はそこでぶつかり、フロア内をそれ以上照らし出すことはできなかった。床には所々に大きなひびが入っており、軽くへこんでいるのがわかる。空間内には、何者の気配も感じられない。何もない。


 複雑な重みがみぞおち辺りに落とされ、少女は顔をしかめた。

 そんなこと、そんなのはおかしい――そう確信していた。

 この先に絶対「何か」がいる。自分が怖がりながらやってくることを今か今かと待ち構えているのだ。そう考えてしまうと、この廊下が、どこまでも果てしなく不気味に映った。その不気味さに、これまで自分を恐怖させてきたあらゆる存在を重ねてしまった。

 足がすくむ。みぞおちの重みが強くなり、その重みがぐるぐると少女の中で暴れ出した。やり場のない感情が膨らんでいく。それがひどく心地が悪くって、苛立ちすら覚えた。


 ……ここに来るまでで既にぐつぐつと溜め込まれていたものが限界を迎える。

 もう自分ではどうしていいのかわからない。抑えようのないものが顔をぎゅっと歪めさせ、熱いものがこみ上げてくる。そして、


「う…うぅ…うぁ…ああああ!!」少女は、その場で大声を上げて泣き出してしまった。


 年相応に、真っ赤に染まった顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙を幾つもぼろぼろと落とし、わめいた。先ほどまで声を上げないようにつとめていたことなんて、もはや関係なかった。ここにいることを誰かに気づいてほしい。助けてほしい。なんとかしてほしい。それだけだった。


 少女は、ひとしきり泣いたあと、今度はぐずって、どたばたと床にあたるように足踏みをしてやった。声が枯れて、せて咳き込んで、自分の苦しみを最大限表現したあとに、もっと大きな声で泣いてやった。


 でも、何かが起きることはなかった。彼女以外の全ては何一つ変わらず、残酷なままであり続けていた。

 現実が容赦無く突きつけられる。お前のわがままは通らないと、無慈悲に幼子を突き放した。


 だから……少女は泣き続けてやった。

 泣き止むなんてしてやらない。それが今の彼女にできる唯一の反抗であった。ここでやめてしまえば、きっとこの心は恐怖で完全に覆われてしまう。そんなの絶対に嫌だ。だから、意地でも泣き続けてやった。


 そして、廊下に自身の喚きを反響させながら、その奥を睨み付けながら、少女はまた小さな歩幅で歩みだして行った。


 「蛇」が嫌いだ――怖くて怖くて仕方が無い。

 でも、母が「蛇」に襲われることは、きっともっと怖いことなのだ。






 一連の顛末てんまつを経て様変わりしたとはいえ、動く者の気配が消えた踊り場には再び以前の静寂が戻っていた。

 しかし、その中で最後に、一つだけ小さなが見られた。


 結局少女が気がつくことはなかった。当然と言えば当然である。彼女はなるべく周囲の惨状を視界に入れず、前に進むことに意識を注いでいたのだから――沈黙の踊り場。散り散りに捨て置かれた黒の武装を纏った男達の死体……その中にたった一体、唯一、鈍い銀色を纏った機巧人形が紛れ込んでいた。


 同じく捨て置かれたその人形はすっかりせており、まるで長い歳月のあいだ動き続け、その後にまた同じく、長い歳月のあいだ鉄くずの山に放置されたかのように朽ち果てていた。


 ――はじめ、機巧人形は確かに沈黙の一部であった。

 しかし、今まさにこの瞬間、その沈黙を人形が自ら破った。不意に、その眼球にあたる部位が、焼き尽くされた炭のようにぼろぼろと崩れ始めたのだ。

 その奥から、点々と淡い光が漏れ出す。何かがある。

 崩壊が進んでいく――点同士が広がりあって繋がり、光が束ねられていく。限度を超え、部位の残りが一斉に崩れ落ちだした。

 そして――人形の内部から、てのひらに収まる程の、妖しい光をかもす宝石が一つ、炭と共に踊り場の床に転がり落ちた。


 実に奇妙な宝石であった。中心部分に、絵とも文字ともとれる極小の記号が緻密ちみつに刻印されており、更にはその緑黄金りょくおうごんの輝きはまるで小宇宙を彷彿ほうふつとさせるほどに魅惑的だ。だが、ライトの光がどれ一つとして直接照らしていないにもかかわらず、宝石は異様なまでの量の光を反射し、その存在を誇示していた。


 その時であった――宝石が、風吹かぬこの空間にて、ほんの僅か独りでに傾いた……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る