Case1-6 矢上藤次郎
見事なまでの混乱が、国枝を襲った。
想定していた矢上の反応とは、完全なる正反対の現実。
しかし、ただでさえ『そこ』から気を離す事はできない。
国枝の脳内は、みるみるうちに恐怖と当惑に支配され、思考力を剥奪されてしまった。
矢上がおかしくなってしまったと、その一言で片付けることはできる。しかし、そうすることができないほどに、逆に自分がおかしくなっているのではと錯覚するほどに、矢上の笑い方はまるで「いつも通り」なのであった。
そして、その認識が正しいものであったと指し示すように、
矢上は、自分の意思で、ごく自然に、笑いを収め、ごく自然に、
「はあー。お前、なんて間抜けな顔してんだ。いくらなんでも傑作すぎるぞ?」
国枝に話しかけた。任務中であることを忘れたかのように。平常な日常の
「は?」
本当の本当に、本当に意味がわからなかった。言葉の意味は理解できるが、言葉の意図が理解できなかった。
状況がそぐわないだけで――それが一番の問題ではあったが、――いつもの喋り方だ。目の前にいるのは確実に矢上ではある。だがこれは、これはまるで、別の瞬間の矢上と入れ替わったかのような、『そこ』とはまた別種の不気味さを……『そこ』――
国枝はすぐさま曲がり角の確認を――
「あぁ、そっちは一旦気にしなくていいぞ? 何かが襲ってくるってこともない」
「え……、おま…何を」
矢上の口から出てくるはずのないその言動が、国枝の言葉を詰まらせた。
「わからないか? わからないよなー。怖いよなー、そりゃそうだ。やばかったもんなさっきの」
そう言う矢上は、バイザー奥で満足げな表情を浮かべている。そして、
「そうでなくっちゃ困る。お前がそうなってくれるようここまでやったんだからな」
……国枝にはもはや、返す言葉を見つけることすらできない。
そんなことなどお構いなしに、矢上は容赦なく言葉を続ける。
「もういい加減気づけよ。国枝、これはな、全部仕組まれたことなんだよ。俺によってな」
そう、言ってのけた。
いたって冷静を保ちながら、矢上は国枝に、辻褄の合わぬ衝撃を突きつけた。……しかしその語気には隠しきれぬ
矢上自身、いつからかはともかくこの瞬間を待ち望んでいたのだ。
それを裏付けるように、その口元が、唖然とする国枝を
「な、な「何故そんなことをしたかって? そんなのお前が一番よく知っているんじゃないのか? なあ、裏切り者!」
勢いづく矢上は、国枝に決して主導権を渡そうとしなかった。例え国枝が、この時予想とは外れた発言をしようとしていたとしても、それは今となっては意味の無いことであった。
「俺が…、俺が気づいてないとでも思っていたんだろう? そんな俺を、お前は! 影で
矢上の声色が、顔付きとともに激しさを増していく。
その心中にあった愉悦は既に鳴りをひそめ、かわりに
「ほら、自分の口で言ってみろよ。それぐらいのチャンスは与えてやる。自分の口で、お前が俺に何をやったのかを全て吐き出して謝罪しろ!! 国枝ぁ!!」
その叫びにも近い主張が終わると、廊下には、しばし矢上の弾んだ呼吸音のみが
相手を
思えば国枝とは長い付き合いであった。
警察学校で知り合ったあの時から、互いをライバル視し、時に競い合い、時に助け合いながら、二人で数々の経験を積んできた。
国枝がいれば、どんな任務にだって自信が持てた。どんな犯罪者にだって立ち向かえた。
もちろん、ライバルだと思っていることが変わることはない。しかしそれ以上に、矢上は国枝のことを、相棒として、そして人間としても信頼していたのだ。
だからこそ、矢上は次の国枝の言葉に絶望した。
「な…なんのことだ? 何を言ってんだ矢上……?」
まだ……、まだここで本当のことを言ってくれていたのなら、引き返すことができたかもしれない。しかし時は既に遅い。矢上を留めていた一筋の線が、
「お前……! とぼけるなあ!!
それが全てであった。
最上の友である国枝が、最愛の妻である
自分の二人への思いも知っていたはずだ。それなのにもかかわらず、国枝という男は、罪悪の念のかけらもなく妻と関係を持ち、持ち続け、その
矢上はそれを知らされた時から、自分の中で腫れ上がっていく、行き場のない感情を自覚した。
そしてそれは、やがて限界を迎えた。
気づいた時には、N-GET研究所と警備部隊を巻き込んだ今回の計画を思いつき、実行に移していたのだ。
「報いだ……」
ゆらりと、矢上は銃口を国枝へと向ける。
「報いを受けろ…国枝…!!」
その言葉は何より、熱い哀しみに満ちていた。
「おい待て! 待て待――ッ」
危険を感じた国枝が、同じく銃口を向けようとするやいなや、
矢上は強く、引き金を押し込んだ。
廊下内に溢れかえる、
そのまま矢上は、ゆっくりと、じっくりと、顔から下へ、被弾の範囲を広めていった。国枝という人間の存在を、なるべく抹消できるように……
やがて、
床に放られた、空の
空気中に取り残された白煙が、ライトの照らす景色を曇らせる。
硝煙の香りがする……その中に、
矢上は、正気を取り戻した。
ずっと……ずっと失っていた正気を。
あの時から――一階から零階へ進行を開始した時から――忘れがたい奇怪な体験を思い出せなくなった時から――南階段の扉を開いたあの時から失っていた正気を、矢上は取り戻したのだ。
……いいや、
果たしてそれは本当に取り戻したと言えるのだろうか。
もしそれがもっと早ければ、矢上が国枝を殺害することはなかっただろう。それだけではない。もっと早ければ、他の四人の命だって救えたかもしれない。他班の運命も変えられていたかもしれない。
つまり矢上が正気を取り戻したのは、最悪のタイミングであったということだ。
故に、矢上は取り戻したのではない。
もう奪っておく必要がなくなったから、還された。
ただ、それだけなのである。
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