天気雨―4
あさぎは、幕が下りてからもしばらくその場から動けなかった。圧倒的な非日常というのは、こういうことをいうのだろうと、初めてながらに納得した。隣のご婦人は、そんな様子のあさぎを見て、にっこりと微笑んで、芝居に魅了されたのね、と言って去っていった。
琥珀たちに話の続きを聞くため、そして舞台に感動したことを伝えるために、もう一度会わなければと思ったが、どこに行けば会えるのか分からなかった。ひとまず芝居小屋を出て、裏口のあたりを行ったり来たりしていた。
「あさぎ、こんなところにいたのか。客席に迎えに行ってもいないからどこに行ったのかと。こっちへどうぞ」
芝居小屋の表玄関から出てきた琥珀と合流し、裏口から再び中に入った。琥珀は、舞台上で着ていた洋装ではなく、先ほどの紺色の着物姿に戻っていた。ここでちょっと待ってて、と言われ、草履を脱いで畳に上がらせてもらった。琥珀も横に座る。
「琥珀、芝居、凄かった……! 全部が輝いていて――」
「ちょっと待った。そういうのは、あいつらにこそ言ってあげてくれ。ドレスは着替えるのに時間がかかるからな」
琥珀に言葉を止められて、あさぎは小さく口を尖らせた。早くこの気持ちを伝えたいというのに。
「琥珀も、かっこよかった。最初の立ち姿が綺麗だったし、ダンスの場面も」
「それはどうも」
「あと、『では、ここで踊りましょう。バルコニーに注目する人はいませんから。それとも、相手が私では不足でしょうか』って手を差し出すところ。ローマンチックだった」
あさぎは、さっき聞いたばかりの台詞をそらんじてみせた。あのローマンチックな場面、と終演後に話している客の会話を聞き、あれをローマンチックと表現するのだと学んだ。
「……あさぎ、今のは」
「あ、ごめんなさい。台詞間違ってたかも」
「いや、むしろ――」
琥珀が何か言いかけたが、奥から凪の、琥珀を呼ぶ声が聞こえてきた。どこにいるの、と言いながらこちらに近付いてくる。
「凪、裏口の方だ。あさぎも一緒にいる」
「こっちにいたのね、お待たせ」
凪が小紋に着替え終わったらしい。その後ろには、花音もいた。どうしてわたくしまで、とぼやいているのが聞こえた。どうやら凪に無理やり連れてこられたらしい。
「さっきの芝居すごかっ――」
凪と花音の姿を見て、思わず話し始めてから、あさぎは琥珀の顔を見た。もう、話してもいいだろうか、と。琥珀は肩をすくめて、どうぞ、と手で示した。
「凄かった。本当に凄かった。舞台の上が全部輝いてて、ドレスも華やかで、琥珀にも言ったけど、凪のダンスの場面は本当に素敵だった。花音ちゃんは身のこなしが綺麗で、普段から洋装を着ているからかな。とても綺麗で可愛くて」
一度話し出すと止まらなくて、あさぎは、二人がぽかんとしているのを見てようやく口を閉じた。
「とても、感動したから、つい」
「少し驚いただけで、嬉しいわ。ありがとう、あさぎ」
「芝居を褒められるのは、悪い気はしませんわね」
でも、と花音は表情をきつくして、あさぎを睨みつけた。
「凪さんから成り行きは聞きましたわ。ですが、座長や凪さんのお知り合いではないのに、どうしてこう図々しく小屋内に入り込んでいますの」
「まあまあ、花音。声を掛けたのは俺からだし、せっかくなら芝居を見てもらいたかったから」
「もう芝居は終わったのですから、帰せばいいじゃありませんの」
「どこに?」
琥珀の短い問いかけで、その場の空気が一瞬張り詰めた。花音は黙り込んで、そっぽを向いた。あさぎは自分がどこから来たのかも覚えていない。帰るべき場所が分からないのだ。
琥珀は表情を緩めると、それに、と花音を説得するように言い足した。
「開演前に、妖のことを教えるって約束したからな。一度した約束は違えるべきじゃないだろう?」
「それは、その通りですわ」
花音は渋々だが頷いた。あさぎは、ありがとうと言ったが、ぷいっと顔を背けられてしまった。
「さて、あさぎ。妖について、何から話そうか。聞きたいことはある?」
「えっと、あまり実感がないというか、よく分かってなくて。自分が妖っていうのもそうだし、琥珀たちもどう見ても人間だし……」
「なるほど。じゃあ、見せた方が早いか」
言うが早いか、琥珀は立ち上がると、目を閉じて深呼吸をした。凪が慌てて裏口の鍵がかかっているのを確認し、格子窓にも内側から蓋をした。何が始まるのかと琥珀を見ると、琥珀を中心にして、風が円を描いて集まってきている。その風はどんどん強くなり、琥珀をすっぽりと覆い隠した。次の瞬間、一気にそれが弾けた。
「……っ」
突然の衝撃波に、思わず目を閉じたあさぎ。おそるおそる瞼を押し開けると、驚きのあまりそのまま固まってしまう。
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