第二章 真実へと至る決意

2-1 こびりついた記憶

「————ん……」


 キソラの意識が浮上する。

 横たわる身体、消毒液の匂いを知覚すると、寝起き特有の重たい瞼がゆっくりと開かれていく。

 窓から差し込む陽光が、視界を乱反射するガラスの様に染める。

 一つ瞬き。

 再び瞼を開くと、元に戻った視界に今度は黒一面が広がった。


「よかったぁぁぁぁ……! 目が覚めたんだね、キソラ……! もうずっと、このままかと思ってた……!!」

「……ユウリ……?」


 乾いて張り付く喉から出たかすれ声。

 黒と思ったそれは、ボサボサで少しべたついているユウリの髪。ぎゅっとキソラを抱きしめるその身体は震えていた。

 

「ここ……は……」


 肩が涙で濡れていくのを感じながら、キソラは首を動かして辺りを見渡す。

 白い医療用ベッドに、左側にあるサイドテーブルには水の入ったピッチャーと空のグラスが一つ。

 自分が病衣を着ていることを認識し、ここが学校の保健室だということに気付いた。


「私……どうなって——ッ!! ったぁぁぁ……!」


 そっとユウリの肩に手を置き、一緒に起き上がろうとした瞬間に全身に走る激痛。

 筋肉がパンパンに張って、身体はガチガチに固まっていた。


「な、なにこれ……! い、痛い痛い痛い……!」

「それ多分、筋肉痛だと思う……。それと、寝すぎてたせいかなきっと」

「き、筋肉痛……? 寝すぎてた……? どういうこと……?」


 これまで健康被害が一切なかったキソラが、生まれて初めて味わう筋肉痛。

 起きたらそこは何故か保健室。ユウリは泣いていて、自分は身体をまともに動かせない。

 なにかしらの異変が起きていることに困惑するばかりだった。


「キソラね、二日間昏睡状態だったの。あの日、わたしたちの所にフラッと帰ってきたら、そのまま気を失ってそこから……」

「二日間……!?」


 そこで思い起こされる記憶。街は腐蝕で穴だらけになり、人も朽ちていったあの惨状。

 肉が腐る異臭も、辺りを覆った黒い胞子も、腐り墜ちたヤマトの右腕もなにもかもを思い出した。


「そうだ……! み、みんなは!? みんなは無事なの——けほっ……!」

「だ、大丈夫キソラ!? 落ち着いて! ちゃんと話してあげるから、まず水飲も水!」


 痛みも忘れて思わず起き上がるキソラを支え、ユウリはグラスに水を注ぐ。

 すると、二つの足音が二人の耳朶を打った。


「自分のことよりまずは他人のことか。相変わらずだなキソラは」

「とりあえず元気そうで何よりだわ。ちょっと待ってなさい、栄養剤作ってあげるから」

「母さん……ヨシハル……」


 保健室に入ってきた二人。慌ただしく棚を物色し始めるキョウカに比べ、落ち着いている様に見えるヨシハルだが胸元は少し汗ばんでいる。

 二人ともがキソラを心配していることはすぐに分かった。


「『露店通り』はまぁ正直言って絶望的だな。あの時、お前が帰って来た頃には黒い胞子は消えてたんだが、被害はヤバくてな。死傷者は多数。建物も一部は崩れたりもしてたし、道も穴だらけ。あそこで店を開き続けるのは難しいだろうな」

「そんな……。ヤ、ヤマトさん達は……?」

「二人は大丈夫だよ。キソラがすぐに避難させてくれたおかげでね。お店もヤマトさんの右腕も駄目になっちゃったけど、生きてはいるよ」

「生きてる……。良かった……」


 ほっと一息。そこでユウリがコップを差し出してくる。


「はい、キソラ。これ飲んで」

「うん、ありがとう。——……ん?」

「どうしたの?」


 差し出されるコップを左手で受け取ろうとしたが、なぜか動かない。

 これも筋肉痛の影響かと思い、キソラは右手でコップを受け取り水を飲み干した。


「左手動かせないの……?」

「うん、よく分からないけどそうみたい。でも多分、時間が経てば動くようになるでしょ」

「キソラの身体が不調ねぇ……。超健康優良児なのに、そんなこともあるんだな」

「むっ。私だって人間なんだから、そういうこともあるよ。まぁ、こんなのは初めてだけど。貴重な経験になって良いかもね」

「体調不良が貴重な経験、ねぇ」


 ヨシハルが皮肉気味に揶揄い、頬を膨らませるキソラ。少しして、その何気ないやり取りに思わず笑みがこぼれる。

 そんな和やかな雰囲気の中、ユウリがキソラの左手を温める様に包み込んだ。


「揶揄わないのヨシハル。キソラは初めてのことで大変なんだから。大丈夫だよキソラ、治るまでずっとわたしが傍にいてあげるからね」

「—————」

「……キソラ? どうかしたか?」


 突如、硬直したキソラを訝しむ二人。それに構わず、キソラは視線を包まれた左手に落としていた。



 血色の良い肌。柔らかな肉感。確かな温もり。

 伝わる命の鼓動。



 キソラの左手が血塗られた真紅に染まった——


「————おえっ……!!」


 条件反射的に、左手が動いてキソラの口を覆う。その手はいつもの色で、赤には染まっていない。

 ——真っ赤に染まった様に見えただけだ。


「キソラッ!? どうしたの!? ねぇ!?」


 右手からコップが滑り落ち、砕け散る音が保健室に響く。


「ッ……! かはっ……!」


 嗚咽を漏らすキソラにユウリの声は届かない。

 キソラは今、脳裏に映る命を奪う光景を必死で処理しようとしていた。 


 ——血だらけの顔面を掴む左手。キソラを睨みつける鋭い眼光。左手に残る成人男性の体重。左腕から発生した炎。

 そしてその炎で燃やし尽くした男の遺体。


 否定したいその記憶は、しかし消そうと思うほどに強くこびりついていく。

 今じゃ、肉が燃える異臭と肌に触れてとなった男の欠片さえも感じ取れてしまっていた。


「はぁはぁはぁはぁ……!!」

「キソラ!! しっかりして! キョウカさん、キソラが!」

「えぇ分かってるわ! キソラ、落ち着いて深呼吸してこっちを見なさい。ゆっくり、息を吸って、吐いて——」


 急に取り乱したキソラに慌てて近づくキョウカ。

 背中を支え、さすって落ち着かせようとするとキソラはその手を勢いよく振り払った。


「え……キソラ……?」

「ねぇ……お母さん……。私ってなんなの……。こんなの、普通じゃない……。絶対におかしいよ……」


 震える左手を必死になって抑えながら、縋る様にキソラはキョウカを見る。

 その双眸は虚ろで、明るさは一切ない。

 自分の記憶と左手に残る感触に、キソラは絶望していた。


「私って……人間、だよね……?」

「——ッ!!」


 囁く様に零れたその疑問に、キョウカの顔が一瞬だけ強張った。

 

「だ、大丈夫。大丈夫よキソラ。あなたはおかしくなんかない。きっと悪い夢でも見たのよ。落ち着いたらすぐに元に——」


 質問に答えずはぐらかすその様子を見て、キソラのざわついた心が更に沸き立つ。


「答えてよ! 私がおかしくない……!? アレが夢……!? そんなわけないでしょ……! わ、私あんなに残酷に、ひ、人を殺して……! しかも、あんな訳の分からない炎まで……!」

「ひ、人を殺した……?」


 思いがけないキソラの言葉に目を見開くユウリ。ヨシハルもこの異常な空気に飲まれて固まってしまっている。けれど、それに構える余裕はキソラにはない。

 顔は青白く、唇は紫色。頭の中は混乱で埋め尽くされながら、キソラはキョウカの言葉を待っている。


「………」

「お母さんッ!!」




「——教えてあげたら良いじゃないですか。あなたは人間じゃないって」

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