1-3 人としての限界値

 学校の一画、保健室。診察台と机、二つの椅子があるだけの簡素な造りで、診察台には腕を出して顔を強張らせたキソラが寝そべっていた。


「ほーら、力抜いてー。刺すわよー」

「ゆっくり! ゆっくりね! でも、やる時は一瞬で……!」

「どっちよ……。まったく……こういうところはいつまでも子供なんだから——はい」

「いっ……!!」


 ちくっと注射の針が柔らかなキソラの肌を突き刺す。

 ほんの僅かな痛みが顔を歪めさせるも、体内に注入されていく液体を感じて顔がだらしなく緩まっていく。


「はい、終わり」

「ふいぃぃぃぃ、終わったぁぁぁぁ。あぁ、効くぅぅ……」

「気持ち悪い顔で変なこと言うんじゃないの。ヤバいの入れてるみたいになるじゃない」


 針を抜いてキョウカが一つ溜息。

 呆れた吐息が耳に届くも、そんなことよりキソラは全身に広がる心地よさに浸っていた。

 体中の細胞が新品に作り替えられているかの様なソレは、まるでとろけそうなほどの心地よさ。

 肌は瑞々しくなり、腕を揉むキョウカの指がもちもちと弾んでいく。


「だって、仕方ないじゃん。注射は嫌だけど【免疫接種イミュニティ】の気持ち良さだけは、美味しいごはんを食べることと同じくらい格別なんだもん。おかげでもう、朝の疲れもなくなって元気満タンだよ」

「朝の疲れ……ねぇ」


 言っておくが、投与された薬品はなんらヤバいものじゃない。

 政府であるV5が少しでも人類の生存確率を伸ばそうと、常に細胞を健康状態に保たせるためのワクチンの様なモノで、この【免疫接種イミュニティ】は各区に課せられた予防接種だった。


「ほら、立って。もうお昼も終わりかけだし、ごはんにしましょ。美味しくはないけど、朝ごはんのも兼ねてハイどうぞ」

「ありがとっ」


 診察台に腰かけ、渡されたのは銀紙に包まれた四角い合成食料と包装されたサプリメントの錠剤が三つ。

 キソラは銀紙を剥いで、粘土みたいなソレをもちゃりと頬張った。

 と、途端に顔が渋く歪む。


「んー……。しっかし、これも全然美味しくならないよねぇ。もうちょっと政府さんも味の研究をしてくれてもいいのに。何回食べても嫌な気分にしかならないんだけど……」

「生きることが最優先だもの。資源も限られてるし、栄養が摂れたらそれでいいんでしょ」

「そうだけどー……。味気ないのは楽しくないよ。お肉だって食べ飽きたし……」

「ぶーぶー言わないの。今の世の中、食べられるモノがあるだけマシなんだから」


 全ては残された人類がどう生き延び、繁殖していくかどうか。V5が掲げる理念はそれだけであり、あとのことは二の次だ。

 そんなどこか寂しい世界を想いつつ、キョウカはカップに注いだ水でサプリメントを流し込み、一息ついてキソラを窘め始めた。


「それより、朝の疲れって言ってたけどあんまり無茶しちゃダメよ」

「無茶?」

「あなたの大好きなお世話焼きのことよ。話は聞いてるわ。腐蝕が起きて、ワカナを助けたんですって?」

「あーうん。ワカナさん自由に動けないし、あのままじゃ海に落ちるだけだったから……、何かマズかった……?」

「いいえ、彼女を救ったの行為そのものはもちろん偉いわ。褒めてもあげる。でも、もしかしたらそれであなたも落ちて命を失っていたかもしれないの。そのことはちゃんと理解できているかしら?」

「うぅ……、ごめんなさい……。でも私——」


 説教による僅かな語気の強さの裏にある心配の種。 

 怒っているわけではないからこそ、キョウカの優しさに軽はずみなことをしたと胸が痛んだ。

 それでも、同じ場面に遭遇した時キソラの身体は勝手に動くだろう。

 ——それが、七歳までの記憶が無く訳も分からなかった自分を優しく迎えて入れてくれた灰塵都市スクルータの人たちを護る為なら何度でも。自分キソラがなすべきことだと本能と理性が合致していた。


「まぁそういう性分で、そういう生き方をしてきたあなただものね。止まらないことは分かっているわ。でも、助けると決めた時に周りの状況とあなたを想っている人のことは絶対に頭の中に入れておきなさい。

 どれだけあなたが強靭な体を持っているとはいえ、構造は人間と何も変わらないんだから。その美味しくないごはんを食べなきゃ生きていけないし、注射にも怖がる女の子。自分が特別だと思って何でもかんでも出来ると勘違いしちゃダメよ」

「うん。『困っている人がいるなら助ける。けど助ける時は、手の届く範囲だけ』——だよね?」


 それは、キョウカが定めたキソラへのルール。

 キソラだって自分の両の手が届く範囲しか助けられないのは理解している。

 その範囲が人より広いだけで、限界はあるのだ。


「ええ、それが分かっているならお母さんはもう何も言わないわ。あなたのその力はきちんと使えば大抵のことは出来ちゃうでしょうけど、あなた一人で解決できることなんて限られているんだから。昔から言ってることだけれど、手に負えないと判断したらすぐに周りを頼りなさい。少なくとも私はいつでもあなたの力になるつもりよ」

「ん、ありがとうお母さん」


 緋色の髪を優しく撫でられ、キソラの心が温まり顔が柔らかくほころんだ。頬は少しだけ赤くなって照れが見えている。

 少しして恥ずかしさが勝ってくると、キソラは紛らわすかの様にシリアルバーを口に一気に運んで立ち上がった。


「じゃ、じゃあお母さん! 私もう行くね! また遅刻したら子供たちに何言われるか分かったものじゃないし!」

「ふふっ。ええ、分かったわ。ちゃんとサプリ飲んでから授業受けるのよ」

「うん!」


 保健室の引き戸を開けてキソラは教室へと戻ろうとする。と、その一歩手前。

 扉に手をかけたまま、キソラはキョウカの方へと振り向いた。


「ねぇお母さん。私ってなんでこんな体で生まれてきたんだと思う?」


 人としての構造は同じでも、スペックが違うことによる周りとの意識の乖離。

 儚げに呟かれたその声に、キョウカは笑って答えた。


「そうね。ハッキリ言って偶然の産物としか言いようがないわね。それでも答えを言うなら……」

「言うなら……?」

「『強く生きろ』っていう神様からの贈り物なんじゃない? 科学に触れてる身としては不正解の答えでしょうけど」

「ははっ、なにそれ。でも、贈り物……贈り物か。そうだね、そう信じることにするよ。この力のおかげで私も私の守りたい人も助けられるってね! ありがとうお母さん、それじゃまたね」

 

 一切否定することなく肯定だけの優しい答え。それにキソラは快活に笑って、元気よく廊下を駆けて行った。


「廊下は走るんじゃないわよー!」

「はーい!!」


 もう、廊下の奥から聞こえてくるかすかな声。

 それを保健室で聞いて思わず笑ってしまうキョウカ。けれど、それも瞬きほどの時間。

 開けっ放しになった扉を物憂げな表情で見て、キョウカは誰にも聞こえぬ声でポツリと呟いた。


「そう……。贈り物だけならどれだけ良かったことか……」


 その声は罪悪感に満ちていた——。

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