第一章 劫火の火種

1‐1 非日常の日常

「やばい、やばい完全に遅刻だって!」


 日の光が燦々と照り付ける下、太陽の様な橙色をした首元まである髪を靡かせながら等々力とどろきキソラはエイジア・ローシャン区の灰塵都市スクルータ二番街の

 仄暗い女性の制服の上に爽やかさをアピールするかの様なパーカーを羽織っている彼女。


 数秒ほど宙に漂うと、大きな青空色の瞳が培養肉×炭素強化によって製造された黒色の無骨な集合住宅群を捉える。目を凝らせば、建物の所々には薄く赤い線が脈の様に広がっていた。


 重力に引かれて平たい屋根に足を付けると、再度快速と言わんばかりに足を回して更に前へと勢いよく跳ぶ。

 その顔には焦燥が浮かび上がり、汗がにじみ出ていた。

 今日はキソラの母——等々力キョウカがボランティアで開いている学校の最初の授業日。それに遅れたならば非常に長い説教と晩ご飯抜きが待っている。


 女とはいえ食べ盛り。十七歳になって間もない身としては、ご飯抜きというのは限りなく絶望に等しいモノだった。


「開始まであと十分……! 距離はあと一キロくらい……! 全力で飛ばせば私なら何とか間に合う! け、ど、も! お母さん今日くらい起こしてくれてもいいでしょー!!」


 腕時計を見ながら、キソラの悲痛の叫びが響き渡る。教員でもあるキョウカは先に学校に行っているからキソラを起こすことは簡単だった。


 ただ、娘に自立を促すことを信条にしているキョウカに“キソラを起こす”という選択肢はない。それをキソラも理解しているから、行き場のない怒りだけがこだまする。


 屋根から屋根へ、道路を挟めば屋根から街灯の上へとあらゆる高い場所を中継地点にしながら、宙路というショートカットを繰り返す。

 生まれた時より身体能力が非常に高かったと言われるキソラにのみ許されたこの行路。

 普段このような人間離れしたことをするのは人に迷惑をかけるからとキョウカに禁止されているのだが、好奇心旺盛にして行動力のお化けであるキソラはたびたび破っていた。


 そもそも眼下の地上、灰塵都市スクルータは、高さは違うものの同じような形の四角い建物しかない上、あらゆる店や建物が集合した密集地帯。

 新旧入り乱れる建物がそこら中にあるせいで大通りから一歩横にそれるとそこは迷路の入り口だった。

 大通りに面したところに住んでいる人以外では、記憶能力に長けてなお、地図でもなければ簡単に迷ってしまう。


 けど、空ではそんなのお構いなし。道なき道こそ最短ルートであり、地上ではそこを度々通るキソラを露店から呆れた笑みを浮かべて見つめている顔がいくつもあった。


「みんなー! 悪いけど今日だけは母さんにチクらないでくれると助かるー!」

「おう! なら、今度うちの肉を買ってくれるならいいぞー! ちょうどイイやつが入ったんだ!」

「あ、あたしんとこもー!」


 俺も、私も、と笑いながら十八歳の少女に口止め料を貰おうとする大人たち。

 一般的にイメージするスラム街とは思えぬ気さくで明るいその姿に、キソラは苦笑いを浮かべて返答する。


「そんなに肉ばっかいらないんだけど……。わかったよ! 学校終わったら大通り行くからそん時によろしく! ――それじゃ、私は行くから!」


 元気よく声を響かせると、キソラは街灯の上に立ち、足により一層の力を入れる。

 その時――ソレは起きた。


「え……?」


 突如、街灯がぐらりと大きく傾きキソラが空中に投げ出される。目線を青空から地面に向けると、街灯の設置部分である細胞の地面がぐじゅりと腐り、穴が開いていた。


 それと同時に、一吸いでもしたら思わず顔を歪めてしまうほど臭ってくるガスの臭い。

 ——たった今、人類が常に死の恐怖と戦わざるを得ない天災【腐蝕】が起こっていた。


「ふ、腐蝕が来たぞ!! 全員逃げろぉぉぉ!」


 太った男性が大声で呼びかけ、避難を促す。地上にいた人たちや建物の中にいた人たちはその声に従い、悲鳴を上げながら逃げていった。


「まっずい……!」


 キソラが焦燥の声を漏らす。このままでは体が叩きつけられる、からではない。

 キソラの前では車椅子に乗った黒髪の若い女性がいたのだ。そしてその女性は衝撃で車いすから落ちている。

 このままでは、女性は穴の開いた地面へと真っ逆さま。


 そう考えた時、キソラの体は勝手に動いていた。態勢を整え、まだ完全に腐ってはいない街灯の頭を人のいない方向へと蹴り付け、自らは女性の方へと勢いよく跳んでいく。

 あまりの速さに景色が伸びていく中、キソラの目には穴が広がって落ちていく女性の姿が映っていた。


「きゃあああああ!」

「(間に合えッ!)」


 目を瞑り、落ちていく恐怖への絶叫をする女性に向かって大きく右手を伸ばす。キソラの脳裏に朧気ながらかつての記憶がフラッシュバック。


 ——それは海へと落ちそうになっている母キョウカを助けた時の記憶だった。

 

 回想は一瞬で終了。現実に戻ってきたら、キソラの手は女性の手を掴んでいた。


「えっ!? キソラちゃんッ!?」

「やぁ、ワカナさん! ヒーロー参上ってね! 今から引き上げるから私の首に腕回してくれる!?」


 突如掴まれた手に、いきなりの言葉。それに驚くワカナ。

 そんな彼女に構わず、キソラは右腕に力を入れてワカナを一瞬だけ空中に投げると、首の後ろとひざの後ろに手を回してポスッとなだらかな胸の中に収まる。

 それに困惑しながらも、言われた通りキソラの首に腕を回すワカナ。キソラの体に感じる確かな体温。

 これでもう離れる心配はない。


「さて、じゃあ上がるよ! しっかり捕まってて!」

「ど、どうやって!? あたし達、落ちてるんだよ!?」


 穴の中から上を見るキソラ。穴は直径四メートルほどに広がりつつあり、近くにあった無人の建物はキソラ達の目の前を落ちていく。だからこそのワカナの絶望だったが、キソラはいたって冷静だった。

 キソラはギュッと彼女の体に力を入れ、満面の笑顔を向ける。


「そりゃ、勿論こうやって――!」

「え――」


 くるりと空中でターンし、建物の壁を背後にして両足を着地。すると、ぐっと膝を折りたたみ、次の瞬間には足の力を爆発。斜めに向かって壁を蹴り、大きく跳び出した。


「きゃあああああ!」

「口閉じとかないと、舌噛むよー!」


 キソラの眼前にはまだ腐っておらず、〝壁〟と化した地面が。そこに右足を着地させると、再び蹴って上へと跳んでいく。そうして同じことを繰り返しながら、最後に建物の縁を蹴って地上の空中へと躍り出た。


 そして重力に引かれるまま、バタバタと髪を靡かせ、地上へとブレーキをかけながら着地。

 降り立ったころにはもう腐蝕は止まっていた。

 キソラは彼女を堅い地面へと下す。ワカナはまだ落ち着かないのか、心臓をバクバクとさせているもののその感触を味わっていた。


「い、生きてる……?」

「生きてるよ。——上手くいって良かったぁ」


 ワカナがホッとしたのも束の間、ふぅと汗をぬぐう様な動作をして満足気なキソラの言葉に顔を引きつらせる。


「……その言葉、もしかしてさっきの思い付き?」

「そりゃね。いやー、運よく(?)建物が落ちてきて助かったよ。なくても壁蹴りで上がれたかもだけど、穴が広がってたら難しかったよねー」

「ば、馬鹿じゃないの!? それでもしキソラちゃんまで落ちてたら!」

「まぁまぁ、助かったんだしいいじゃん。それに私、ここの人たちが死ぬなんて絶対に嫌だからさ。せっかくこんな力持ってるんだから、救えそうな目の前の人くらいは救わないとね。私が出来ることならなんだってやらないと」

「キソラちゃん……」


 手を開閉しながら、自分の力を再認識するようにあっけらかんと言うキソラ。

 自分の命を投げ出すに等しく、大人として止めるべきではあるとワカナは心では思う。

 それでも、助けられた身と本人の屈託のない笑みを見ては若菜は何も言えなくなった。


「お前たち! 大丈夫か!?」


 ——と、話し込んでいると最初にキソラに肉の購入を約束した店主が駆け寄ってくる。


「ああ、無事だよ。こっちもね」

「キソラちゃんのおかげで助かったよ、お父さん」

「よ、良かった……! 見覚えのある車椅子があったからもしかして……って思っちまった。キソラ、俺の娘を救ってくれて本当にありがとう……!」


 涙を流しながら、店主はキソラを思わず抱きしめる。

 それに苦笑いを浮かべながらも、ポンポンと宥めるように背中を叩いた。


「そこはワカナさんが抱きしめてくれる方がありがたいんだけどー。ヤマトさんに急に抱きしめられたって母さんに言うよー?」

「お、おい人聞きの悪いこと言うな……! 黙っておっさんの感謝の抱擁くらい受け取りやがれ!」

「えーやだー」

「ふふっ」


 キソラの軽口により慌ててその身を剥がす店主ヤマト。それにカラカラと笑いながら揶揄うキソラ。

 先程まであった命の危機とは思えないキソラが守った明るいこの光景に、ワカナはここで完全に緊張が解けた。


「ところで、キソラ。お前さん、確か急いでなかったか?」

「あ……」


 ――まずッ! と言い、腕時計を確認する。

 針が示しているのは十時十分。授業は始まっていた。


「やっば……完全に遅刻だ…」

「まぁまぁ、腐蝕が起きたって言えば大丈夫だろ。それに娘を助けてくれたって俺からも連絡しとくからよ」

「あ、ありがとう! 恩に着るってこのことだね!」

「それはこっちの台詞だっての。これだけじゃ借りを返したことになんねえよ。小さいことだが、さっき肉買えって言ったのは無しだ。学校終わったら取りに来な。タダでやる」

「いいの!?」

「ああ。むしろ向こう一年はタダでもいいくらいだ。それくらいのことをお前さんはしてくれたんだからな」

「そうそう。これからたっぷり恩を返していくから覚悟しといてねー」


 駆けだそうとするキソラを満面の笑みで送り出す二人。


「流石にそこまでしなくていいけど……。ま、学校帰りにありがたく貰うよ! ――じゃ、私は行くね!」

「おう!」

「キソラちゃん、助けてくれてありがとうねー!」

「ん!」


 二人の声を背中で聞き、救出劇を見た街の人たちのキソラへの歓声を浴びながら、彼女は幅一.五メートルほどしかない建物と建物の間へと向かってダッシュ。

 狭い路地に入ると、先ほどと同様に三角跳びし、一気に空中へ。


 見晴らしがよくなった視界で見据えるのは、五百メートル先にある平屋建ての建物——学校。

 まるで粘土をそのまま置いたかの様な無機質な建物に向かって勢いよくキソラは宙を翔けていくのだった。

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