絶砂の恋椿

ヤネコ

プロローグ

荒ら屋にて

 カームビズ商会大番頭、ファルボドはその荒ら家の有様に、酷く愕然とさせられた。第一に、その家は人の住みかと言うにはあまりにも生の匂いがしなかった。土間はきれいに掃き清められてはいるが、煮炊きの跡が無い。住人は、なにを喰らって生き存えているというのだろうか。

 壁に立て掛けられた破砕鎚は錆ひとつ付かない有様に手入れされているというのに、この荒ら家に住まう者が、自らをかつて愛用した得物程には顧みていないことは、商売柄人の機微には聡いファルボドには、痛々しい程に理解できた。表に残してきた従者が守る荷車に積んだ品々は、顧みられることすらないかもしれない。だが、ファルボドには彼を訪わなければならない――甚だ身勝手だと彼が自嘲するものではあるが――明確な理由があったのだ。

「御免――マリウス翁は、ご在宅か」

 気を取り直し、荒ら家の奥へと声を掛ければ、ややしてから奥から枯れ木のような老人が、跛を引きながら姿を現した。

「これはこれは……商会の番頭殿であられましたか。遠路はるばる、よくぞお越しに」

 片脚を引きずり、顔面の半分は爛れたような有様だというのに、礼を執る老人の所作は美しかった。これが、亡き父の掌中の珠であったかと、ファルボドは胸の内に苦いものを覚える。

「どうぞ楽になさってくだされ、マリウス翁。いかにも、私はカームビズ商会大番頭、ファルボド――トゥルースの一人目の倅にございます」

「あなたが……」

 言葉に詰まったらしい老人の顔を見遣れば、どこか懐かしげなものを榛色の瞳に見て取ることができる。忌ま忌ましい――母がこの場に居れば、漏らしそうな台詞を頭の片隅に思い浮かべながら、ファルボドは老人の不自由な側の手を取り、椅子へと誘導した。

(まるで、骨と皮だな……記録とは、大違いだ)

 カームビズ商会の管轄地である、ここバハルクーヴ島におけるあらゆる記録は、商会の目耳である者達により、詳らかに記録されている。かつて、亡き父の懐刀として勇猛さを発揮した彼のことは、物語の戦神もかくやという描かれ方をしていた。流石に盛りすぎだろうと鼻白んだのは、ファルボドの記憶に新しい。

 かと言えば、先程老人が実際に見せたように、この砂の孤島においては、凡そ学ぶのは不可能であろう礼法を身に付けていることも記録されている。出生記録には、北方出身の傭兵と地の女の間に生まれたことも記録されている。

 何処かの貴種であるということもない――怪我を負うまでは、容色が極めて優れていたであろうことは伺い知れるとは言え――この島には全くありふれていたはずの男だ。

「手を……」

 物思いに耽る中で、老人の手を握ったままでいたファルボドは、慌ててその木乃伊じみた手を離す。掌に残る感触に、思わずファルボドは気になっていたことを訊ねた。

「ああ、失敬――しかし、ずいぶんと痩せておられる。食事はいかがなさっておられるのです」

「ああ、近所のおかみさんらが親切にも世話をしてくれましてな……この所は、すっかり量も食えなくなりましたが」

「なるほど」

 煮炊きの跡が無いのはそういうわけか、とどこか安堵したのをファルボドは自覚した。あまりにも生に希薄に見えるこの老人に、今回の訪問の理由を打ち明けて良いものか――商人としてではなく、一人の人間としてのファルボドが想いを巡らせる。

「して――ファルボド殿、此度は如何な御用でお越しになりましたか」

 老人に真正面から斬り込まれ、ファルボドは内心を驚きに冷やす。だが、熟練の商人としての顔は、決してそれを覗かせず、しかし、相手を尊重するかのように、参ったと破顔してこれに応えた。

「これはこれは、お気遣いをいただき――然らば、申し上げまする」

 椅子に腰掛けた老人に対し、まるで従僕のように深々と頭を下げたファルボドは、台本を読むかのごとく、言葉を続けた。

「マリウス翁におかれましては、かの憎き砂蟲すなむしめより我が父トゥルースの遺骸を回収いただきましたこと、一族を代表しお礼申し上げます。また――恩知らずにもこれまで沙汰に及びませなんだこと、汗顔の至りではございますが、あなた様への見舞いの品を、本日はどうぞお納めいただきたく」

 頭を上げずに一息に告げたのは、老人の表情を見るのが怖かったからだ。ファルボドは、父トゥルースの顔を知らない。彼の名をつけたのは母であり、その母も、父への怨嗟の中に先日亡くなった。恩人を訪うことができたのが、ファルボドが不惑に近づいてようやくという不義理も、信用を第一とする商人である彼をして恥じ入るばかりであるというのに、ここから更に恥の上塗りを重ねねばならないのだから。

「ご丁寧な挨拶、痛み入ります――しかし、御用件はそれだけではないでしょう」

「ははっ……」

 ファルボドは、自らの修練にてこれを隠してはいるが、生来肝が小さい性質をしている。特に、自分が引け目を感じる年長者からの圧に弱い。老人が発する圧に、まるで小さな子供に戻ったような心地を覚えたファルボドは、改めて亡き父を恨めしく思った。

「真に……恩知らずに恩知らずを重ねるような話ではございますが、あなた様が我が父トゥルースより預けられました、我が一族の宝……『暁の宝玉』をば、どうか、どうか――ご返還、いただけないものでしょうか」

 肺腑のそこから息を漏らすような声で、ファルボドは老人に懇願した。これだけ困窮した生活を、長年送ってきているのだ。手放していてもおかしくはない。そうではないにしても、彼にとっては恋人の唯一の形見とも言える品であるはずだ。

 だが、ファルボドは、カームビズ商会は、かの宝玉を奪還せねばならない。かつて、カームビズ商会の正当なる後継者であった父トゥルースが持ち出した『暁の宝玉』こそが、不毛極まる後継者争いに終止符を打つためには必要不可欠の品であるからだ。先代――ファルボドにとっては祖父に当たる――の死後は、連合との盟約に則り、長らくカームビズ商会の長の席は空席となっている。あくまで代理として、大番頭の立場であるファルボドが商会を束ねてきたが、最早それも限界に近い。外部からの切り崩しも、このところは苛烈さを増している。

(糞親父め……死んでさえ居なければ、ぶん殴ってやれたものを)

 もうすっかり長い付き合いとなった胃痛を宥めながら、ファルボドは頭を垂れて老人の言葉を待つ。罵倒は、覚悟の上だ。商売柄、あらゆる皮肉には充分に耐性はついている。良心が咎める以外の責め苦には耐えてみせようと、ファルボドは奥歯を噛み締めた。

「あれは――そのような品でありましたか」

 だが、老人の声は凪いだように穏やかであった。とりあえず、手放したということは無さそうだと、ファルボドは直感的に算段をつける。そして乾いた唇を舌先で湿らせて、老人に答えるべき言葉をようやくと紡ぎ出した。

「ええ。面目も無い話ではございますが、あの宝玉が無ければ、私は親父とは血が繋がっただけの男に過ぎません。なにとぞ――マリウス翁のお慈悲に縋らせていただきたく、どうか」

 哀れを誘うことはできただろうか。ちらりと顔を上げたい衝動に駆られながらも、ファルボドは老人からの色よい返事を祈った。自分がこの老人を訪ったことは、近日中にも他の兄弟にも知れることだろう。傲慢な言い分だが、今のうちに渡してもらった方がお互いのためだ。そこに理があろうと無かろうと、この島の正義は、カームビズ商会が握っているのだから。

「ファルボド殿――いつまでもそのようになされては、お膝が汚れましょう」

 凪いだ声のまま、老人はまるで転んだ幼子を抱え起こすかのようにファルボドの両肩を掴むと、彼を立ち上がらせた。椅子に腰掛けたままだというのに、あの枯れ木のような両腕のどこに、斯様な膂力が隠されていたというのか。俄に自らの身に起きたことが信じられないでいるファルボドに、老人は初めて微笑めいた表情を見せた。

「あれは、我が夫の形見にございますが――本来であればそちら様にお返しするのが筋でございましょう」

「おお、然らば……!」

 気色ばむファルボドを制するように、老人は首を横に振る。焦れったい。人の妻という生き物は老若男女を問わず、斯様にも難解そのものな心を持つものなのだろうか、とファルボドは鼻を鳴らした。そこには、天下に名を馳せる大商会を統べる者の姿はどこにもなく、ただ、亡き父の面影を知る者の胸の内に秘められた解を探す男の姿があった。

「白湯でも進ぜましょう。奥へどうぞ――表の従者殿も」

 老人の言葉に、ファルボドは長い問答を予感した。この老人は、自分が訪うまでの長い間ずっと、待っていたのだろう。その胸に砂のように積もった、心の澱を吐き出す時間を。満身創痍とも言えるその身に刻まれた、亡き父との時間を浚う手段を。

 ファルボドは熟練の商人である。聞き上手であることは商売の基本だ。問わず語りに付き合うのも、最早骨身に染みついた習慣とも言える。一世一代の勝負が得意分野の範疇にあったことを先祖に感謝して、ファルボドは大きく息を吐いた。

「いただきましょう」

 ファルボドが表を見遣り、顎をしゃくれば、程なくしてのっそりと、彼の従者が土間へと足を踏み入れた。

「扉を閉めて、閂を掛けてくだされ。直に、砂嵐が来ます」

 従者はぎょっとして表を見遣ったが、残念ながらこの狭苦しい荒ら家の玄関から、積んだ見舞いの品々を、荷車ごと搬入するのは不可能だ。老人の口調から察するに、荷解きは到底間に合わないであろう。大きな図体をして半泣きの顔をした従者に、ファルボドは頷いて荷を諦めるよう促す。

 元より、受け取っては貰えないと諦めていた品だ。それならば、風に運ばれて忌ま忌ましい砂蟲の腸を破る一石となることを期待しようと、ファルボドは思考を切り替えた。

 物寂しく響いた風は、やがて、慟哭めいた嵐を連れてきた。

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