悪妻になることを決意する

 ジェイドにもらった安心感のおかげで、思ったよりもちゃんと眠れた。結婚式と舞踏会で体がしっかり疲れていたことも幸いだった。


 案外すっきりした気持ちで朝食の席に着く。結婚翌朝に夫はおらず、夫ではない男性と朝食を取る。異常な状況でも使用人は顔色変えずに対応する。


(優秀なのね。それとも、あらかじめ何か言われていたのかしら)


 恐らく両方なのだろう。


「ねえ、ジェイド。悪妻ってどんなことをすると思う?」

「え? 悪妻?」


 ジェイドが薄紫の瞳を細めて考え込む。


「散財したり、家の評判を落とすような振る舞いをするんじゃないかな」

「そうよね」


 私が思いついたのも、そんな所だ。


「なに? 悪妻になる事にしたの?」

「そうなの。頑張ってみようと思って」


 私から離婚を切り出したら、恐らくカルロの家から大きな支援を受けている姉と義兄に迷惑がかかる。でも、お願いだから離婚してくれ、と言われる状況を作れれば、支援を続けることを条件として離婚が出来るかもしれない。


 そう説明したら、ジェイドは楽しそうに笑った。


「すっかり元気そうで安心した。そう都合よく進むかどうか疑問はあるけど、試してみるのはいいんじゃない?」

「そうかな!」


 よし、めざせ悪妻。


(はて、散財と家の評判を落とす。まずどうやれば良いかな)


 首をひねったところで、ジェイドが助言をくれる。


「悪妻が散財する時には、家に商人を呼びつけるんだと思うよ」

「なるほど!」

「今日、手配してきてあげるよ」

「ありがとう! さすが、お義兄さま!」

「今日は、家の中でも探検してなよ。確かここには書庫もあったはずだから」


 ここは余暇を過ごすための別宅だったと聞いている。書庫にも色々な種類の本が置いてあるはずとのことだった。


「俺はカルロの様子を見てくる。仕事もあるから戻りは夕方頃になる。それまでに何か困ったら連絡をくれ」


 簡単な予定と連絡先を残してくれた。ジェイドを見送って変な気分になる。


(何か、ジェイドと結婚したみたい)



 ジェイドが出かけた後、私は家の状態を把握することにした。カルロに紹介されなかったので、この家の使用人のことが分からない。


「あの、この家の使用人の取りまとめをしている方はどなたかしら?」


 掃除をする若い女性にそっと声をかけてみると、無表情だけど丁寧な口調で部屋で待つように言われた。やがて部屋に現れたのは初老にさしかかった年齢の女性だった。


「奥さま、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。私が使用人頭のデーナです。何かございましたら、何なりとお申し付け下さい」

「オリヴィです。これからお世話になります。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」


 私は丁寧に礼をした。そのまま、どのくらいの使用人がいるのかを確認した。


(思ったよりも多いわね)


 私の家には、ほとんど使用人がいなくなっていた。身の回りのことや料理まで、ある程度の事は自分で出来る。本当はこんなに人数はいらない。でもこのヒューズワード家はとても裕福だ。使用人たちの待遇も良いと思う。楽が出来て待遇が良いのであれば、減らしたりしない方が皆のためには親切だろう。


 私は主要な使用人に挨拶をしたい事と、屋敷の中を知りたいという事を伝えた。


 デーナは恐らく事情を全て把握しているのだろう。感情を表さないようにしながらも、温かい気遣いは感じられた。


 私の希望はすぐに手配され、その日の午後には主要な使用人の名前と顔は全て一致させることが出来た。


 案内された屋敷の中で特に気に入ったのは図書室だった。思ったよりも広い。図書室のすぐ横には、日差しが気持ち良い、窓の大きな小部屋がある。


 大きな机と椅子。くつろげるように配置された長椅子や、一人掛けの椅子が何個も並ぶ。窓の外には花壇があり、風と共に花の香りが入ってくる。私は一目でこの部屋が気に入った。


 午後の遅い時間には、大きな荷物が何個か運び入れられた。ジェイドの荷物のようだ。どうやら本当にここで暮らすことにしたらしい。家のどこにも、主人であるカルロのものは無い。部屋もない。そこに義兄の部屋が用意され、荷物が運び込まれる。質問一つせず、事務的に事を運ぶデーナが頼もしかった。



 ジェイドが戻ったのは、日が落ちてしばらくした頃だった。


「遅くなったね。先に夕食にしようか」


 表情がすぐれない。恐らく昨日のことはカルロの一時的な気の迷いではないという事だと思う。だから荷物もここに運び入れたのだろう。


 くつろげる場所で話そうというジェイドの言葉に、私は図書室の小部屋を提案した。私は窓際の一人掛けの椅子に腰かけてクッションを抱きかかえた。どんな話を聞いても受け止められる体勢が整った。


 ジェイドは大きな机に向かって座った。手を机の上で組み合わせている。


「カルロに確認した。昨日の発言を撤回するつもりはないそうだ」


 覚悟していたことだ。私は大きくため息をついて、ジェイドに向かって微笑んだ。


「もう、大丈夫。昨日ちゃんと理解したから」

「そうか。⋯⋯それと、俺がここで暮らすことも、その理由もちゃんと伝えた。だから、もしカルロの気が変わっても、オリヴィが非難されるような事にはならない。それは安心してくれ」

「ありがとう。朝も言ったけど、私は悪妻になるって決めたの。どんどん悪い事をしてやるのよ。気が変わったってもう遅いんだから」

「そうか、それは怖いな」


 ジェイドは笑ってくれた。


「それでね、妹さん。君のご希望通り、商人に来てもらうよう手配をしたよ」

「散財する悪事ね!」

「俺もあまり詳しくないから、本邸に出入りしている商人が来たら、ついでにここに立ち寄ってもらうように伝えた。ドレスでも宝石でも、好きなだけ頼めばいいんじゃないか?」


 素敵だ、それは悪妻っぽい行動だ。


「でもヒューズワード家に出入りするような商人だから、高価なものしか扱っていないんじゃないかな」


 私の家は窮乏していたので古いものを大事に使っていた。どうしても必要なものだけ使用人に頼んで街で買ってきてもらっていた。商人を呼びつけるなんて事はしたことがない。


「そうだろうね。高価なものしか扱っていないだろうね」


 ジェイドが意地悪そうな顔をしてにやりと笑う。


「さて立派な悪妻さんは、どうやって散財するんだろうね。お手並み拝見させて頂こうかな」


(むー。私が買い物し慣れないことを分かって言ってるわね。見てらっしゃい、見事な散財っぷりを見せてあげるわ)


 そういえば。


「あの、一つお願いがあります」


 私の改まった口調に、ジェイドは眉を上げて机の上の手を組みなおした。


「空いている時間で良いので、以前のように勉強を教えてもらえないでしょうか」


 私の父は窮乏しているという理由だけでなく、学ぶと口うるさい事を言い始めるという理由で私たち姉妹が勉強することを嫌った。この国では男性は貴賤を問わずに学校に通う。でも女性については家庭教師に付くという方法しかない。学ぶ機会が持てるかどうかは家長に委ねられている。


 親族の交流会でのこと。他の家の女の子たちはみな、家庭教師に付いて勉強をしていた。さすがに読み書きや最低限の事は学ばせてもらっていたとはいえ、あまりに物を知らない私は、他の子供たちにとても馬鹿にされていた。


 悲しくて物陰で泣く私を気の毒に思って勉強を教えてくれるようになったのがジェイドだった。本を読む習慣がない私の家の状況を聞いて、こっそりと家で本が読めるようにも手配してくれた。ジェイドは私の先生でもある。


「もちろんだ。ここ最近勉強出来てなかっただろう? 前に教えたところの試験から始めないとな」

「きゃあ! 少し復習する時間をください!」


 悪妻になる前に、勉強の復習から始めた方が良さそうだ。

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