第10話
オフィスに戻ると、すぐに小さな手でノックする音が聞こえた。
やゆは努めて優しく、どうぞ、と返事をした。
扉を開けて、はにかみながらここねが入ってくる。
やゆはその姿を見るだけで、仕事の疲れが吹き飛び、体が喜びに満たされる思いだった。とんでもない少女だ。
ここねがこちらを見上げて言う。
「あの、やゆ、いま、いい?」
「あなたならいつでも歓迎ですよ。コーヒー飲みます?」
「ううん。おれには苦くて」
やゆはここねに席をすすめた。
ちょこんと腰掛けるここね。足が床につかない。とても実年齢17歳とは思えない。
「あのね、やゆ」
「なんでしょう」
「ありがとう」
「なんです改まって」
対面に椅子を持ってきて座る、やゆ。
「さっきのミーティング。最下層民を映した街頭モニター前の映像、三割か四割くらい隠したよね」
やゆの胸がどきりとした。手足がこわばった。
この少女はどこまで聡明なのか。
いつも街頭モニター前の映像は、何箇所かを重点的に見るだけで、残りは高速で流してしまう。まさか、ここねはそれを数えていたのか?
「え、えと」
「たぶん言い争いか、もしかしたら暴力が起きてたんでしょ。おれの愛媛マロへの反応で」
ここねの言う通りだった。
彼女の不完全な演技は、それを見た最下層民の間に亀裂をもたらしていた。
愛媛マロが本物の最下層民かどうか、言い争い、罵り合い、暴力の応酬にまで発展した箇所が多くあった。
やゆはそれを、ここねから隠した。仕方なくやゆはうなずいた。
「ありがとう、やゆ」
八重歯を見せて笑うここね。
「でもね。これからはこういうことはしないでいいよ。オレが受け止められるかはわからないけど」
やゆは尋ねた。
「お体に触れていいですか?」
「それも尋ねないでいいよ」
「では失礼します」
やゆはここねを抱きしめた。
「ここね。あなたはとても優しい子です」
「やゆは、とっても優しい人だね」ここねが言った。
やゆは思った。
残念ながら、それは間違いだ。
自分は優しい人間ではない。身内にだけ優しい人間だ。この二つの間には、千尋よりもはるかに深い谷があるのだ。自分は仮面をかぶっている。ここねが覗き込めば、すぐに破れてしまう仮面を。
ですが、ここね。どうかあなたの前でだけは、わたしに仮面をかぶったままでいさせてください。
せめてもう少しの間だけでも。
やゆは願った。
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赤い空に伸びる摩天楼の間を行き交う、数多のフローター。
その一つ、高高度を行く白いブーメラン型のフローターの中で、座席に腰掛けすずりは物思いに沈んでいた。
なぜ自分はVtuberを目指したのか。
地球とのゲート開通、ロボット介した交信の試み、通信規格の変換成功、なだれ込んできた地球文化。
衝撃の渦の中で、すずりは自分にできることを探した。
地球に比べれば、はるかに小さなハールタニナ。
しかしそれは巨大だった。単なる良家のお嬢様にすぎない、すずりにとってはあまりに巨大だった。
社会を根本から変える。などという発想は到底不可能に見えた。
「お嬢様。お茶が入りました」
「ありがとう」
侍女の中年婦人、松本イザベラが、ティーセットを運んできた。
本来彼女の仕事ではないが、何かと面倒を焼く女性である。
「失礼します」
「まって、イザベラ。お茶の相手をしてくださる」
「私などでよろしければ」
横の椅子に腰かけるイザベラ。
「イザベラ」
「まずは一口、お茶をお召し上がりください」
茶を一口飲んだ。体が温まる。気分が落ち着いた
すずりはこの侍女のことを信頼しきっていたが、
こちらのことを何から何まで知っているようなところが少し癪に障った。
「なにごとも思った通りにはいかないものね」
「それが人生でございます。お嬢様」
「わたくしがなにを目指していたか、わからなくなってきたわ」
「そのように彷徨っても、人間どこかへ辿り着くものです」
「身分の差がもう少し縮まって、最下層民ももう少し人間的な生活ができるようにする。それがわたくしの望んだところよ」
「そうでございますか」
「間違ってるかしら?」
「たとえ全ての人間がNoと言っても、お嬢様がYesとおっしゃれば、私にとってはYesでございます」
「でも現実はぜんぜん違う方向に進んで行く」
「そうでございますか」
「わたくしの配信は誰も見ていませんわ」
「私は見ております」
「あらそう」
「お嬢様のお母上お父上も、欠かさず見ていらっしゃいますよ」
「そうなの?」
「はい」
意外だった。すずりの両親が配信のことを口にしたことはなかった。
「パパとママは、なぜ話題にしないのかしら」
「大変僭越ながら私見を申し上げますと、いかに地球から輸入した文化とは言え、
上流階級の方が口にするのに相応しいか、まだ悩んでいらっしゃるのかと」
なるほど。
悩んだ。
そして、すずりは結論をくだした。
やゆの提案通りにする。
階級差のない、あるいは少ない世界は目指すべき理想だが、道は一歩ずつ進まなければならない。となると、今はまず浸透しなければならない。
市民階級以上に訴える、新しい配信コンテンツ。
それは。
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