真に堕ちたのは


 奥庭を臨む事が出来る場所……屋敷でも奥まった場所にある侘しい場所に寿々弥は寝かされていた。

 祭神たちの尽力で年を越す事こそできたが、もはや異能を振るう事も叶わなくなった彼女を、一族の者、とりわけ寿々弥の妹に阿る者達は倦厭するようになっていた。

 静養して頂くという名目で、人の訪れの殆どない部屋で寿々弥は一日を床に伏して過ごして居た。

 用済みという事かと苦々しく祭神たちは吐き捨てたが、勿論寿々弥に聞かせられるものではない。

 一族を見放してやるつもりであった二人に、寿々弥はそれだけは止めてくれと懇願した。

 変わらず一族を見守ってやって欲しいと――例え、自分が潰えたとしても。

 透き通りそうな程に儚い雰囲気となりながらも切実な光を湛えて訴える女に、二人は遣る瀬無い思いで紡ぎかけた言の葉を飲み込んだのだった。

 伏せていた寿々弥がゆるりと瞳を開いてそちらを向くと、そこには白銀の髪の男が居た。寿々弥は微かに頬を緩めて、口を開く。


「久黎……戻ったの……?」

「ああ……。一族も、織黒も、恙無く。……もうじき戻ってくるだろう」


 その日、寿々弥は二人の祭神には一族に寄せられた怪異退治の助力を願った。

 寿々弥を一人には出来ないと渋ったものの、二人は最終的にその願いに応じた。

 久黎の答えを聞いて安堵したように吐息を零す寿々弥を見て、久黎は唇を噛みしめる。

 これだけの仕打ちをされても……自らを犠牲にした献身すら踏みにじられても。お前はそれでも一族を想うのかと苦い思いが久黎の裡を占める。

 それに、織黒の無事を聞いた瞬間に彼女の表情に喜色が垣間見えたのを彼は見逃さなかった。

 重ねて感謝を紡ぐと、寿々弥は激しく咳込んだ。

 命を削るような激しい咳込みに慌てて久黎が上半身を抱え起こして背をさすってやると、少しして寿々弥の呼吸は落ち着き始める。

 寿々弥は久黎の腕に支えられながら、ふとまだまだ花期が先である奥庭を見遣る。


「……叶うならば、もう一度この庭の曼殊沙華が咲く様を見たかったけれど……」


 寂しげな笑みと共にぽつりと紡がれた言葉は、寿々弥の小さな願いだった。

 人の為に多くを費やし尽くし続けた女が最期に望んだ、自分の為の儚い願い。

 俯き顔を伏せたままの久黎は、不思議な程の穏やかな低い声音で、呟いた。


「いや、また見られる。……お前が望むなら何度でも、何時までも」

「くれい……?」


 その呟きに、不思議そうな表情で寿々弥は久黎の顔の方を向き、問おうとした。


 しかし。

 彼女は問いを紡ぎきる事ができなかった。


 久黎の腕は寿々弥の胸を貫いていた。血は零れない。

 やがて、吸い込まれるように沈んでいた久黎の手が何かをつかみ取り、引き抜かれる。

 彼の手には、淡く儚く輝く小さな光があった。


「もう、こんな弱った身体は必要ない。少し時間はかかるが、新しい器を用意してやろう」


 久黎はわらった。愛しさと喜びと、そして狂気を帯びた笑顔で光に――寿々弥の魂に呼びかけた。

 彼が片腕で抱く身体は、問いを口にしようとしたまま、鼓動を止めていた。

 出来る限りの優しさでもはや亡骸となった身体を横たえ、戸惑い浮かべたまま開いたままだった瞳を閉じてやる。


 魂をそっと胸に抱いて、吐息を零す。

 ああ、手に入れた、これで手に入れられる。自分のものだ、この女は、これでもう――。


 昏い歓喜に震える久黎の耳に、様子を窺うように控えめな声音での問いかけが聞こえたのはその時だった。


「寿々弥? 久黎は戻っているか? あやつ、途中で姿を消して……」


 織黒だった。

 怪訝そうな表情を浮かべたまま、問いを口にしつつその場へと足を踏み入れて。

 そして、その表情は愕然としたものとなり、凍り付いた。


「……久黎……?」


 織黒は目の前で起きた出来事が信じられない様子だった。

 無理もない。

 床に横たえられた寿々弥の身体は既に命の灯火が消え失せていて、その傍らに立つ久黎の手には儚く光る魂がある。

 黒髪を揺らして織黒はぎこちない動きで首を左右に振る。 

 それでも変わらない光景に漸く黒き真神は理解したようだ。


 信頼していた兄が、愛しい女の魂を身体から奪い去った――久黎が、寿々弥の命を断ったのだと。


「何故だ……!」

「……もう、寿々弥は限界だった」


 こみ上げてくる怒りのあまり震える問いに、返る言葉はあくまで穏やかだった。

 落ちる夕陽を背に立つ久黎は、静かに微笑んでいた。

 己が為した事の間違いを分かっていない様子に、織黒は咆哮の如き怒鳴り声を上げる。


「無理やり器を変えるなど……! 寿々弥が、そのような事を、望むとでも……!」


 織黒は、久黎が寿々弥に新しい身体を与える事を望んでいたのは知っていた。

 けれども寿々弥がそれを望まぬ以上、叶わぬ事だと思っていた。

 しかし、兄は凶行に及んだ。無理やりに寿々弥の身体から魂を抜き取ったのだ、新しい器を与える為に。

 久黎はあくまで微笑んだまま沈黙している。

 その不気味な穏やかさに戦慄を覚えながらも、織黒は久黎の胸倉を掴み上げようと手を伸ばした。


「寿々弥を失わぬ為だ」


 次の瞬間、轟く雷と盛大な破砕音と共に織黒の身体は外へ……未だ咲かぬ曼殊沙華の庭へと吹き飛ばされていた。

 久黎が躊躇いなく放った雷に打ち据えられた織黒は、苦痛の叫び声をあげながら数度跳ねながら地に転がる。

 呻きながら身体を起こして膝をつき、それでも兄を糾弾しようと口を開きかけた織黒は、目の前に立った兄を見上げて。


 そして、口から一筋の血が伝い落ちたかと思えば、動きを止めた。


 織黒の胸に、久黎は腕を突き立てていた。黒く暗い呪詛を込めて。

 心の臓を掴む久黎の腕から、奔流のように暗く冷たい呪詛が織黒の身体に流れ込んでいく。

 織黒の存在を作り変えようとする意思が、彼に染み込み、喰らおうと彼の魂に牙を突き立てる。


「何故、だ、久黎……!」

「……もう、お前は必要ない」


 苦痛に耐えて紡がれた問いに対して返る声音は、欠片の情すら籠らぬ凍てついたものだった。

 織黒が見上げた先にあったのは、兄が弟を見る瞳ではなかった。

 そこにあったのは、ただひたすらに暗い瞳。底に煮えたぎる程の感情を――憎悪を秘めた眼差し。


「呪いに喰われて堕ちろ。……未来永劫救われぬ祟り神として彷徨い続けるがいい」


 ああ、漸く分かったと久黎は呟いた。

 私はお前が憎かったのだな、と久黎はわらう。

 愛する女の心を捉えた弟が。選ばれる事叶ったというのに手を取らなかった男を、心の底でずっと憎み続けてきたのだと。

 心の内から湧き出る暗い感情を呪いに変え、織黒に注ぎ込みながら久黎は告げた。

 憎しみの眼差しを向けながら、その表情はわらっていた。


「お前に、寿々弥は渡さない」


 織黒は必死に久黎が抱く魂へと手を伸ばそうとしていた。何かを叫ぼうとしていた。

 しかし、黒い呪いは奔流となり、数多の獣となり。やがて黒き真神を深き地の底へと喰らいながら引きずり込んで行った。

 その場には不気味な程の静寂に佇む、白き真神だけが在った……。




 騒ぎを聞きつけて集まってきた一族の者に久黎は告げた『寿々弥に懸想した織黒が、彼女を弑して魂を喰らった。祟り神に堕ちたが故に封じた』と。

 あまりの事に半信半疑の者達が多かったものの、ある人物がそれを真実と口添えした。

 寿々弥の妹――真結の前世である。

 一族の内外に対して影響力の強い女が涙ながらに語る言葉を受けて、人々は次第にそれを事実として受け入れていく。

 久黎は以前から妹が姉を疎ましく思っていた事を知っていた。それ故に真実を知っていても、久黎が為した事について口を噤んだのだろう。

 自分の力と美貌に絶対の自信を持っていた女は、自分より強い力を有する姉が目障りに思っていた。姉さえ消えれば自分が名実共に玖珂の主であると思っていた。

 声を震わせながら姉の死について触れる女の口元が歪んだ笑みを刻んでいた事を知るのは久黎のみだ。

 真意を隠して久黎は彼女を長として扱った。

 寿々弥に相応しい器を作り出す為にはこの女から続く血統が必要であるから。

 忌まわしい女ではあるが寿々弥に近しい血を持つもの、この女から血筋を繋げ、かけ合わせていく必要があるのだから。

 少し加護を与えてやれば、面白い程に女は久黎の思う通りに動いた。

 彼の望むまま、寿々弥の新しい器を作り出す為の下地作りの為に踊り続けた。


 しかし、寿々弥の妹は一つだけ久黎の意に反した行いをしていた――あの扇である。

 寿々弥の妹……先の世の真結は、呪いの残滓を寿々弥の愛用していた扇に仕込んだ。そして彼女の遺品を集めた行李の中に密かに紛れ込ませたのだ。

 彼女が気に入っていた扇に愛する織黒を堕とした呪いを仕込むのは意趣返しの意味があったのだろう。

 そして久黎の言が真実であれば何時か寿々弥は再び生を得る。

 その時に呪いが届くといいと……。


 久黎は己の内に寿々弥の魂を封じ続けた。

 それはか弱き魂を守る為であり、衰弱したそれを回復させるためであり。

 誰にも渡さず、己のだけのものとし続ける為であり……。


 そうして時を待った。彼の望み通りのものが出来上がり、悲願が叶う日が来る事だけを願いながら。

 しかし、一連の出来事は白き真神に決定的な変化を齎していた。

 それこそが『築』がこの世ならざる存在を使役しなかった理由であり、敬遠されていた理由である。

 人の目には変わらぬ姿と欺く事は出来たとしても、現世の者ならざる彼らの目には真実が映る。


 ――真に祟り神に堕ちたのが誰であるのか。


 以後、玖珂に二柱の祭神があった事実は失われ、唯一の祭神と恐ろしき祟り神について語り継がれるようになる。

 織黒に関してふれた書物などは新たな長により秘密裡に焼き払われ、黒き真神については名を出す事すら恐ろしき禁忌とされるようになった。

 祟り神を封じる為と祠を置き、時の流れのうちに祠の謂れすら失われ。

 やがて、時を経て世代を経て語り継がれるうちに、それこそが絶対の『真実』となるのだった――。

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