織黒

 ――ひとつの言い伝えがある。


 歴史に名を残す稀代の異能者であった長・寿々弥すずやを害してその魂を喰らい、祭神・久黎くれいに封じられた祟り神。

 万物万象を焼き尽くすと言われる、呪われた黒き焔を操る禍つ真神。

 玖珂と見瀬の者達にはそう言い伝えられている。幼い頃に親の言う事を聞かない時は、祟り神が喰いにくると脅かされすらしたものだ。

 凶行に走った呪われた祟り神、目の前の男性は恐ろしい存在の筈だ。

 封じられていた存在を迩千花は呼び起してしまったのだろうか。何の異能も残っていないこの身が祟り神を目覚めさせたというのか。

 迩千花は恐る恐る、言い伝えにのみ残る名を口にする。


「……『織黒しこく』……?」

「織黒……そうだ、それは俺の名前だ……」


 祟り神――織黒は迩千花の呟きを耳にすると、ゆるりと頷いて見せる。

 けれど、迩千花はその様子をどこか『不安定』だと感じた。その感覚を裏付けるように、やや掠れた声で織黒は続ける。


「何故、俺は此処に居る……何故、此処で眠っていた……?」


 記憶が欠落している、迩千花は息を飲んだ。

 何という事か。永い間封じられている内に抜け落ちたのか、何らかの障害が起きたのか。織黒は自身に関する記憶を失っているらしい。


(わたしと、おなじ……!)


 戸惑い露わに相手を見上げながら、問いかける迩千花の声は震えている。


「覚えていないの? 自分が……祟り神として封じられていた事も……」

「分からぬ。ただ……」


 頭を何かを振り払うように左右に降ると、織黒は苦渋の表情のまま一度目を伏せる。

 そして、再びその双つの黒を開いたと思えば、迩千花の瞳を覗き込む。


「……お前の、名は……」

「……迩千花……」


 真摯に見つめる眼差しに促されるように、気が付けば迩千花は名を告げていた。

 一瞬だけ何かがちりりと焦れたような不思議な感覚があったけれども、気のせいであろうか。

 織黒は数度迩千花の名を独り言のように繰り返していたが、再び迩千花を見つめて言う。


「迩千花……お前を愛しいと、側にありたい……守りたいと願う心だけがある……」

「……!」


 そのような場合ではないと言うのに、迩千花は己の頬が赤く染まるのを止める事が出来なかった。

 それは聞きようによっては、いや、あまりに飾りのない率直なまでの愛の言葉ではないか。

 迩千花には訳がわからなかった。

 父母に非情な命を下され逃げ込んだ先、嘆きの叫びに呼応するように封印の眠りから目覚めた言い伝えの祟り神。

 それが、今迩千花を腕に抱いて、愛を告げる。もう、理解が追いつくはずがない。

 混乱し通しの迩千花の耳に、母の意味ありげな空気を帯びた言葉が聞こえてきたのはその時だった。


「ならば、その娘を捧げましょう」


 暴風は既に止み始めていた。

 母は織黒に対して膝をつき、頭を垂れて見せながら言葉を紡いでいる。

 父は茫然としてそれを見つめ、戒めから漸く抜け出せたらしい築は厳しい声で母の言葉の意を問いただしている。

 我に返り怪我人の対応に当たっていた従者たちも、揃って言葉を失い母の挙動を凝視している。

 その中で、母は笑みすら浮かべて更に言葉を重ねた。


「大いなる真神よ。その娘を喰らうも嬲るもお好きになさいませ。その代わり、我ら玖珂家に力をお与え下さいませ」


 母の意図を迩千花は悟った。

 他の者達が祟り神の存在に怯え事態を理解しきれずに狂乱する中、狡猾な迩千花の母は冷静に一族にとって最大の利益となる道を素早く見出したらしい。

 呪われし禍々しい存在であろうと、強大な力を持つ祟り神は祀り方次第によっては多大なる加護を齎す存在となる。

 本来の祭神である久黎は現在その存在が無きと同じ、失われた神の代わりに織黒を据えようというのだろう。

 両親は迩千花を贄に差し出そうというのだ。織黒が執着を垣間見せた迩千花と引き換えに、この祟り神を祭神として迎えようと。

 役立たずに使い道を見出したと言わんばかりに、母の顔には暗い笑みがある。

 自分はそこまで要らぬものと……自分に対する欠片の情も母の中には残っていない事を改めて感じて、言葉を失う迩千花。

 異能を失った子はそこまで疎ましいのか。自分はそうまで忌まれて、愛されず、認められる事もなく……。

 言葉を失った迩千花は、無意識の内に織黒の胸元の衣を握りしめていた。

 その手があかぎれだらけで荒れている事に気付いた織黒は、迩千花を改めて見遣る。

 そして沈黙し何かを思案していたがややあってゆるりと口を開き、告げた。


「ならば貰い受けよう……我が妻としてな」


 その言葉に言葉を失ったのは迩千花だけではなかった。その場に居た母を含めた全ての人々が絶句した気配を感じる。

 この美しい祟り神は、今何と言ったのだ? そんな空気がその場に立ち込め支配する。

 如才なき母とて、ぽかんと口を開いたまま間抜けた顔をさらしているではないか。

 迩千花もまた、何かを言い返したくても叶わない。

 妻に、など。自分ですら価値を見出せぬこの身を妻に望むものがあるとは思っていなかったし、ましてやそれが人ならざる強大な存在であるなど。


「馬鹿な事を! そんな事を認められるものか!」


 怒りに満ちた叫びにて沈黙を破ったのは、築だった。

 見れば仁王立ちした築は、見た事もないような憤怒の形相で織黒を睨みつける。今にも殴りかかりそうなほどの様子である。

 それを察した周囲が必死で羽交い絞めにしてそれを止めるけれど、兄の怒りと剣幕は収まらない。

 あれほど激し我を忘れた兄を見た事がないと迩千花が目を丸くして言葉を失っていると、母がおそるおそる口を開いた。


「そのような出来損ないを御身の妻になどと畏れ多い……」


 あくまでその声音は丁寧であるけれど、宿る戸惑いと不快、迩千花への侮りは消しきれない。

 一族の美しい女を幾らでも差し出そうと尚も言い募る母を遮ったのは、織黒の告げた言葉だった。


「お前たちの言う事など聞かぬ」

「は……?」


 母は造り笑顔のまま凍り付き、咄嗟に言葉を返す事も出来なかった。

 織黒はそんな母へと険しいとすら感じる眼差しを据えて、傲岸なまでの声音で更に言葉を紡ぐ。 


「お前たちの求める力は与えてやろう。ただし、迩千花が願う事が条件だ」


 織黒は己にどのような力が備わっているのか、何が為せるのかを思い出したようだった。

 加護として力を与える事が出来る事を、そしてそれを目の前に平伏し震える者達が求めている事も。

 その上で告げるのだ、迩千花の存在が無ければ与えないと。


「俺に何かさせたいと思うなら、迩千花にそうして欲しいと願わせろ。俺は迩千花の言う事しか聞かぬし、迩千花が願う事しか叶えぬ」


 理解が追いつかぬのか、理解をしたくないのか、呆気にとられた表情のまま沈黙する一同を睥睨し織黒は尚も言う。

 迩千花を抱き締める腕だけは優しく、温かなまま。迩千花に向ける時だけ、その瞳は柔らかな光を帯びる。


「ただ願わせればいいわけではない。迩千花が心から願っておらぬなら知らぬ。意に染まぬ事を強要してみろ、その時は命がないものと思え」


 ただ願えばいいとすれば、目の前にいる矮小な存在達が迩千花に何をするのかなど見えているのだろう。

 その抜け道を、退路を断つように、冷厳なる真神の声はその場に響き渡る。

 迩千花は戸惑いで言葉を失ったまま、ただ織黒を見上げる事しか出来ていない。


「此れまで蔑ろにしてきた迩千花にひれ伏して乞うがいい、願いを叶えて欲しいと」


 迩千花は一瞬息を飲む。

 織黒は気付いていたのだ、迩千花が虐げられている事を。荒れた手から、痩せた身体や粗末な身形から。

 迩千花の内にある己に対する自暴自棄ともとれるこころが何故であるのかを。

 母や父は顔を醜悪なまでに歪めて口を引き結んでいた。

 それはそうだ、今まで踏みつけてきた無価値と思う相手に頭を下げろと強いられているのだから。自尊心が許さないのだろう。

 さりとて、言われた言葉を拒絶し怒る事も出来ない。


「お前たちが俺を要らぬというならいい。迩千花を連れて去るまでだ」


 織黒を祀りあげようとしているのは母であり一族である。織黒がそれを望んだわけではない。強い立場にあるのは織黒である。

 言葉通りにただ迩千花を連れて去るだけならいいが、迩千花に不思議な執着を見せた祟り神が災いを齎さないという保証はない。

 迩千花が報復を望むだけの事をしてきた自覚はあるのだから。

 どれほど不本意であろうと、忌み疎んじてきた存在に頭を垂れるしか、己の身の安寧を確かにする術はない。

 最初にその事実を認め屈したのは、やはり長である母だった。


「……承知致しました。迩千花を、貴方様の……祭神の妻として相応の扱いを」

「迩千花……!?」


 母が屈辱に震える声にて降伏を告げたのと、織黒が気色ばんで叫んだのはほぼ同時だった。

 何も分からない。理解が追いつかなくて、受け入れられない。我が身に何が起きていて、これからどうなるのか。

 わからない、何がどうなっているの?

 迩千花の視界が徐々に霞がかかったように曖昧になっていく。するりと力が抜けて崩れ落ちかけた迩千花を、織黒が受け止め支える。

 消え行く意識の中、その腕がとても温かで。


 ――泣きたいほどに、懐かしいと思った。



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