追想曼殊沙華秘抄-遥けき花の庭に結ぶ―

響 蒼華

『祟り神』


 一面を覆い尽くす紅は、今を盛りと咲き誇る彼岸花。

 その赤をなぎ倒さんばかりに吹きすさぶ風に、人々もまたただ立っている事すら侭ならぬ中。

 少女は思った、何故自分は髪も衣服も揺らす事なく、こんなにも穏やかに立っていられるのだろうと。

 視線を少し巡らせれば、呻き声をあげながら倒れる男達が映る。あれは、先程まで少女を捕らえようとしていた者達だ。

 従者を盾にして、互いに支えあいながらかろうじて地を踏みしめこちらを見ているのは、少女の母と父だ。

 二人の傍らにて縄で戒められながらも倒れるのを拒んでいるのは、少女の兄だ。

 少し離れた場所には、少女にしか見えない人ならざる緋髪の娘の姿がある。あれは、少女のただ一人の友だ。

 皆荒ぶる風に翻弄されながら、それぞれに差はあれども皆揃って茫然とした様子でこちらを見ている。

 何が起きているのか、少女には分からない。自分が、何故こうして立っていられるのかも。


 ――自分が、何故見知らぬ男に抱き締められているのかも。


 夜闇よりもなお暗い黒を髪と瞳に宿す、あまりに冴え冴えとした端整な容貌の……人とは思えぬ程に美しい男である。

 いや、人ではないのだろう。それならば人離れして美しいのも必定。

 男には獣を思わせる耳があり、艶やかな毛並みの尾がある。口元には発達した犬歯が覗く。

 そして、男は荒れ狂う暴風の中央にて少女を腕に抱きながら、野分に吹かれる木の葉のような人々を無感情に見据えている。

 双つの黒には温かな感情の色は欠片もない。けれども、少女を抱き締める腕はあまりに温かく優しい。


 知らない、少女には覚えがない。

 知らぬ男に戒められているならば、離せと抗わなければならないのに、それが出来ない。

 呪いを帯びた気を纏い、あまりに強大な力にて空を黒雲にて閉ざし、狂風に煽られた黒焔にて人々をなぎ倒す男を恐ろしいと思わないのか。


 ゆらゆらと揺らめく焔は、少女には露程も熱さを感じさせないけれど、少女を捕えようとした男達は身を焦がすそれに悲痛な叫びを発している。

 震える声で誰かが「祟り神だ」と告げる。その言葉は漣のようにその場の人々に広まっていく。


 祟り神。祟りなす荒ぶる神、人の世に災い齎す恐ろしきもの。


 かつて一族が祀っていた神に封じられたとされる、呪われし真神。言い伝えの中だけに存在していた筈のもの。

 ああ、多分そうなのだろうと思う。この男は人ではない、この禍々しさを帯びた力も、尋常ではない美しさも。

 それなのに、何故自分は逃げないのか。何故この腕を抜け出せないのか、この腕はこんなにも優しいのか。

 そして、何故どこか『懐かしい』と思うのか……。


「これに、触れるな」


 祟り神と呼ばれた男は地に伏す者達、辛うじて震え立つ者達を睥睨し告げる。

 傲岸不遜なまでに圧倒的で有無を言わせぬ口調で、少女を甘く捉える腕には優しさを込めながら。


「これは、俺のものだ」

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