ザリガニ

橋田紘

ザリガニ

 社会人になってから、人がザリガニに見えるようになった。

 上司も先輩もザリガニ。電車に乗る人もみんなザリガニ。人間サイズでなくて実寸大なので、行列なんかを見ると、等間隔に小さいザリガニたちが並んでいるように見える。それらは、見ていてあまり楽しいものではない。赤黒い色のボツボツした甲殻も、こちらを威嚇するような、もしくは挑発するようなふうに上げたハサミも、見ていて何だかイライラする。実際の人間の体積は透明になっているので、電車の席で等間隔なのを見ると、「もっと詰めて座れるだろ」と思う。が、実際はそこに人がいるのだから、どうしたって仕方のないことだ。

 よく話しかけてくる、会社の先輩のザリガニに、一度相談してみた。

 その人はどうやら採用面接のとき、俺と話したことがあるらしい。あの頃はまだザリガニには見えていなかったと思うが、どんな顔だったかいまいち覚えていない。

 先輩からは、普通に精神科への受診を勧められた。

 精神科の先生もザリガニに見えたのだが、他のザリガニと違って一回り大きく、色は青だった。

 オフィスチェアの座面に乗っかった青ザリガニの先生にそのことを伝えると、

「なるほど、僕はブルーマロンですか」

と答えた。そういう種類のザリガニもいるようだ。

 ブルーマロンは、人が動物に見える症状をもつ病気があります、と説明した。どうやら俺はそれで、確実な薬や治療法は今のところないらしい。幻視症状とうつ症状を抑える薬を処方され、「また来てください」とブルーマロンはそう言った。

 俺は仕事を一度休んで、しばらくの間実家に帰ることにした。幻視は治る傾向がみられず、それどころか寝つきが悪くなったり、気を病んだり、状態が悪化する一方だったからだ。

 山に囲まれた田舎は空気が澄んで、ザリガニ――人もあまり多くない。二階建ての一軒家の玄関を開けると、母親の声で話すザリガニがいた。そりゃそうか、と、諦めはついていた。久しぶりに帰ってきたのだから、母の元気そうな顔ぐらい見たかったのだが。

 自分の症状について両親に話すと、父が押し入れの中からアルバムを取り出した。写真であれば何か変わるんじゃないか、と。

 幼少の頃の自分を見てほほえましく思うのと同時に、不安と悲しみが俺を襲っていた。傍らに写る両親は、ザリガニの姿をしていた。何度も見返したが、自分以外ザリガニになった写真が続くばかりだ。もう一つ異変が起きた。俺は誰の顔も思い出せなくなっていた。学校の担任だった人も、一番の親友も、両親も、誰の顔も分からなくなっていた。

 その日の夜俺はブルーマロンに電話をかけた。半分泣きながら起こったことを伝えると、「すぐに診察を受けてください」とのことだったので、俺はすぐに家を出て、翌朝にはブルーマロンのいる病院まで来ていた。

 パニックになっている俺をなだめて、ブルーマロンは入院を勧めた。俺はそれに応じた。――怖かった。いつか俺は、目の前にいるザリガニが、本当は人であることを忘れてそれで何か取り返しのつかないことを起こしてしまうのではないか、と。

 ブルーマロンは入院の手続きを済ませて、俺を病室へと案内した。昨夜から、いや随分と前から眠れていないせいで、長い廊下をまっすぐ歩けなかった。途中で転んだ俺を起こそうと、ブルーマロンはこちらに駆け寄った。

 痛かった。切り落とされたみたいな痛みだった。とっさに振り払うと、ブルーマロンは宙を舞った。

 あまりにひどい痛みだったから、腕にけがをしただろうと思って目をやったが、出血どころか跡もなかった。おかしいな、確かにザリガニに挟まれたはずなのに。もしや痛覚にも異常をきたしているのだろうか。そうだ、ブルーマロンに薬を出してもらおう。


 ブルーマロンじゃなかった。そこにあったのは一人の男の死体だった。


 青い縁の眼鏡はレンズにひびが入って、頭と腕から血が出ていて、白衣に染みていた。腕は素人が見て分かるように折れていた。

 看護師の赤いザリガニが駆け寄ってきた。男が俺に突き飛ばされた時の音が、相当大きかったらしい。ザリガニは徒党を組んで俺に迫ってきた。取り押さえようとしているが、ザリガニだから容易に振り払える。何匹かは甲殻が割れた。次から次にザリガニが来るから、ああそうか、警察にでも通報したのか、と思った。――そうだ、人だ。このザリガニは人だ。大切なことを思い出した。けれど、目の前にいるのはやはりただのザリガニで、死んでしまったところで俺に特別な感情は湧かなかった。人の姿を取っているのはブルーマロンだった男だけで、あとはやっぱりただのザリガニだった。

 何十匹か踏みつぶして、疲れたので少し眠ることにした。


 目を覚ますと刑務所だった。拘束衣というものでぐるぐる巻きにされていた。

 正確には拘置所というもので、裁判を受ける前の容疑者がいるところらしい。そう弁護士のザリガニは言った。正直自分が何の罪を犯したのかよく分からなかった。ブルーマロンには悪いことをしたと思う。あのザリガニはよくしてくれた――いやあれは人間だった。そうか、殺人か。

「一人殺しても、そんなに重くはないですよね?」

「……いえ、あなたはもっと、何十人という人を殺している。覚えていないんですか?」

「だって、あれはザリガニじゃないですか。あなたもそうです、ザリガニ」

 弁護士ザリガニはそれから喋らなくなって、そのまま帰ってしまった。

 警察官のザリガニが、俺を面会室から牢まで連れて行った。大人しくしていたのに気味悪がられて、少しイライラした。

 それから数日が経ち、俺は裁判にかけられた。裁判長のザリガニが、俺を見下している。傍聴席にはたくさんのザリガニがいる。それほどまでに、俺の起こした事件は注目されているらしい。

 検察のザリガニは罪状を読み上げた。二十人の死者、三十七人の怪我人を出した。俺は死刑を求刑された。間違いはありませんか、と裁判長ザリガニが問いかけ、俺は、

「一人しか殺していない」

と答えた。だってあとはみんな、ただのザリガニだったじゃないか。精神鑑定は正常だったらしい。お前は異常者を演じているだけじゃないか、と責め立てられた。――ああ、こういう時に、あのブルーマロン――先生がいてくれたらよかったのに。彼の死に際の言葉を思い出す。頭から血を流して、折れた腕を押さえながら、息も絶え絶えに言ったのは、

「大丈夫です。突然掴んでしまってすみません。大丈夫ですから、どうか落ち着いて」

だった。彼は俺のことを理解してくれていた。彼自身の体より俺のことを気にかけてくれていた。俺は惜しいことをした。


 結局俺は有罪になって、死ぬまでの時を独房で過ごすようになった。

 いつからか、ザリガニたちは言葉を喋らなくなった。カチカチカチ、と鳴き声みたいな音を出すことはあったが。

 食事をして寝る日々を繰り返していると、ある日、独房の扉が開いた。何匹かのザリガニが、俺を別の部屋に連れ出した。何を言っているか分からなかったが、これから死ぬことになるのは、何となく分かった。

 黒い袋を被せられて、首に縄をかけられた。俺がザリガニをたやすくいたぶるように、ザリガニも俺のことを簡単に殺せるらしい、と考えていた。だからと言って俺は、それらしい抵抗をすることもなかった。うんざりしていたからだ。赤黒い色のボツボツした甲殻も、こちらを威嚇するようなハサミも、既に見飽きていた。

 一生治らない。ブルーマロンは死んだから。彼にしか治せないものだと思ったから。あの鮮やかな青色が、白衣に染みつく赤色に変わった時の苦しい絶望と焦りを思い出した。

 すぐに忘れるように努めているが脳裏に焼き付いて消えてくれない。嫌だな、先生、あなたがいてくれさえすれば、こんな事にはならなかったのに。途中までは上手くいっていたんだ。入院して治療をすればよかったんでしょう。俺はどこで道を違えたんだ。いつから? 最初から? 俺はいつから、人がザリガニに見えていた? 社会人になってから? 先輩の顔どころか、友人の顔も、両親の顔も覚えていないじゃないか。本当は初めから間違えていたのかもしれない。ここはもともと、人間の世界じゃなくて、ザリガニの住む世界だったんだ。ザリガニに育てられて、ザリガニたちと共に生きていく運命だったものを、それがあたりまえと分かっていたくせに、わざわざ自分が異常をきたしたふりをしたんじゃないか。

 ああ、神様、どうして俺の姿はザリガニではないのでしょうか。人の形で、人のまま死んでいくのでしょうか。自分がザリガニであると思い込もうとしても、首にかかった縄が、己は人間だと主張する。奴らに首はないのだから。

 金属製の床が開いた。首の縄はきゅっと張って、俺は自重でぶら下がる。ザリガニのハサミによって俺の命が断ち切られる感覚がして、しばらくもがいてから、両手足が痺れて動きを止めた。

 俺は、ここで人として死んだのだ。


「……っていう夢なんだけどさぁ」

「――先輩、どうして俺が、人がザリガニに見えるって、知ってるんですか」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ザリガニ 橋田紘 @HHasida01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る