第60話 番外編 ソーハの夏野菜カレー 前編

「それ」は、人間が老いと共に体験する事象の1つだ。

「それ」はとても強烈で前触れなく訪れる。

 たとえばザオボーネのような屈強な冒険者であっても、「それ」を止めることはできないのだ。


 決して逃れられない「それ」の名は。



「ギックリ腰……?」



 ソーハは豆太郎に言われた言葉を復唱して首を傾げた。

 おっさんにとっては身近でも、子どもには縁遠い単語だろう。


 そんな彼の前には、寝床に突っ伏して撃沈する豆太郎の姿があった。

 はたから見たらただのだらけたおっさんだろうが、彼は今、寝返り1つで発生する壮絶な痛みと戦っているのだ。


 豆太郎がギックリ腰になったのは今朝のこと。

 それは朝早く起きた悲劇だった。

 ヤギ(正式名称:ビッグホーン)の乳しぼりを終え、豆太郎がヤギミルクを持ち上げた瞬間。


 ピキーン! という音と共に、豆太郎の腰は死んだ。一瞬の出来事だった。


「いやー、ギックリ腰なんてまだ先の話だと思ってたんだがなあ……」


 豆太郎はへらへらしているが、その額には汗が浮かんでいる。

 かなり痛いのだろう。うめきながら寝床に突っ伏したままの豆太郎を見て、ソーハは眉を寄せた。


「泉の水でも治らないのか?」


 ソーハのダンジョンにある水源は、あらゆる状態異常に効く。

 麻痺、石化、毒、なんでもござれの治癒の水。

 ならばギックリ腰とやらにも効くのではないかと考えたのだ。

 だが豆太郎は力なく首を振った。


「さっきレンティルさんに頼んで試してみたけど、だめだったんだよなあ」


 石化や毒といった状態異常と異なり、ギックリ腰は加齢による人体の現象だからだろうか。


「まあ、心配すんな。今日はエルプセが夜に来るって言ってたから、お医者さんを紹介してもらうさ」


 別に心配はしていない。

 だが、それをいちいち言葉にすると気にしているみたいなので、ソーハは何も言わなかった。


(しかし、この様子ではもやし料理はお預けだな)


 ソーハは寝返りを打ってはトドのようにうめく豆太郎を見て、そんなことを考えていた。

 そして、はっ!と名案を思いついた。


「……お前、今日の昼ごはんはどうするんだ」

「ん? ああ、ヤギミルクでも飲んで夜まで待つさ。おっさんは、若者より燃費がいいのよ。一食くらい抜いても、平気、平気」


 この有り様では、這いつくばってヤギミルクを飲むのが精一杯だ。

 とても料理はできないと宣言した豆太郎。

 そんな弱った人間を前に、魔人ソーハは得意げに口元を吊り上げた。


「なら、昼は俺が作ってやろう」

「え」


 ソーハは自信満々に胸を張った。


「魔人の気まぐれだ。たまには人間にほどこしてやるのもいい。お前はそこに寝転がって待っていろ」


 ソーハは張り切って豆太郎の部屋を出て行った。


「大丈夫かね……」


 心配げにつぶやいた豆太郎だったが「まあ、レンティルさんがいるから大丈夫か」と思い直した。



 □■□■□■



 ソーハの寝床のすぐそばには、レンティルが事務仕事に使う部屋と調理場がある。


 調理場に向かったソーハは、張り切って服の袖をまくった。


「さて、何を作るか……」


 豆太郎が頼りにしていたレンティルは、なんと市場に買い物に出掛けていた。


「レンティルがいた方が色々作れただろうが……、まあ、簡単なものなら1人でもなんとかなるだろう」


 実際のところ、全然大丈夫ではない。

 だがソーハはこの前、豆太郎と一緒にもやしのつくね焼きを作っていた。

 その時の成功体験が、ソーハに限りない自信をもたらしてしまったのである。


 ソーハは岩をくり抜いて作られた野菜入れをのぞき込む。

 真っ赤に熟れたトマトや、大きなズッキーニ、玉ねぎ、などなど。たくさんの野菜が入っていた。

 その横に設置された棚には、干した植物や瓶詰めになった粉が並んでいる。

 さまざまな木の実を煎り、潰して粉末状にしたスパイス。

 それを見てソーハはレシピをひらめいた。


「よし、カレーにしよう」



 □■□■□■



 カレーは奥が深い。

 だが同時に、素人でも失敗しにくい料理でもある。

 初心者が偶然選んだレシピとしてはかなり良かった。それでもソーハの料理レベルを考えると、まだまだ不安は尽きないが。


 レンティル用に作られた調理場。

 ソーハでは身長が足りないので、まず椅子を持ってきて足場を作るところから始まった。

 それから使う野菜を厳選して選んでいると、調理場の入り口から誰かの気配を感じた。


 視線を向けると、1体の鎧と、手乗りサイズの小さなゴーレムと、これまた抱っこできるサイズの小さな龍が、入り口から顔を覗かせていた。

 順に地下1階の門番のリビングメイル、地下2階の門番のストーンゴーレム、そして最近住み着いた水の魔物である。

 ストーンゴーレムは、本当はもっと巨大な体をしているが、今日は岩の欠片を集めて作った手乗りサイズになっていた。


「なんだ、お前ら。来たのか」


 彼らはいずれもソーハの支配下にある魔物だ。

 リビングメイルが、がしゃがしゃと銀の鎧を鳴らしながらソーハに近づいた。手伝おうとしているのだろう。


「ふふん。俺はな、今からカレーを作るんだ」


 得意げにそう言い放つソーハ。

 そんなダンジョンの主人を見て、リビングメイルとチビゴーレムが、ハラハラと顔を見合わせた。(正確に言えば、岩の欠片と鎧の頭部だが)


 2人とも、主人の力量をよく分かっているのだ。

「このままじゃヤバくない?」「レンティル様を呼ばなければ」と慌てているのが目に見て取れる。


 だがそんな彼らの心配とは裏腹に、ソーハは意気揚々と拳を振り上げた。


「よし! 作るぞ! 夏カレー!!」


 ちなみになんにも分かっていなさそうな水の龍は、小首を傾げてきゅう、と鳴いた。

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