逃亡せよ、編集の魔の手から
はい、どーも。毎度上岡楓です。
今でこそベルベットの猫脚ソファに座ってタイプライターを叩く作家さまをやらせていただいているわけですが、半年ほど前までは本当にどこにでもいる残業クリエイターだったんですよ。
信じられないことに。
しかし、望んでなった職業とはいえ作家も大変な仕事である。パトロンである読者の要望には応えなければならないし、編集はときにリョーコ先輩よりきついことを言ってくる。
以前に比べれば体力的には楽になったものの、ものを生み出すクリエイターっつうのは辛いもんだね。
代わってくれるなら代わってほしい。
まあ、こんな風に言うと、自分には文才があるアピールか? とか、自虐風自慢も大概にしろ、という声が聞こえてきそうだが、断じてそんなことはない。ちょっとしかない。
それにこの国に転移してからまだ半年しか立っておらず、暮らしにもなれない。やっぱり、ドレスを着たお姫さまがいて、魔法が跋扈する世界はね……
ふふ、どう? 私の身に何が起こったか、ちょっと気になるでしょう?
ここに至るまであったあらすじだけでは語れない苦労を、どうぞ聞いていってください。
あれは辛い辛いデスマーチの真っただ中のことであった。
教育係である先輩から一人立ちさせられてからというもの、荷が重い仕事ばかりが回って来ていた。
前日も元気に終電帰りを決めた私は、朝の通勤ラッシュに追いつけず、電車が去って人のはけた駅のホームで一人呆然と立ち尽くしていた。
働かなきゃ。
人間の体はその7割が水で出来ているというが、このときの私はまるで鉛か何かになったかのように、立って歩くだけでも精一杯だった。
この身を付き動かすのはただ一つ、気力だ。ぺーぺーの私に出来るのなんて、真面目に出社することくらいだもの。
限界などとっくにすぎているはずなのに、どういうわけだか休むとか辞めるという選択肢を思いつきもせず、わき起こる猛烈な責任感でもって、私は労働に勤しもうとしていた。
電車がやって来る。珍しくすいていた。
良かった、今日は座れる日だ。
腰を下ろして、少しでも回復できればと目を閉じようとしたそのときだった。何かがおかしい。
車内はすいているという言葉では足りないほど、すっからかんだった。
行先は「大熊海岸」
逆方向だ。下りなきゃ。
しかし、理性が正しい方向へ身体を導こうとすればするほど、私の本能はあさっての方を向いた。
ああ、故郷のお父さん、お母さん、元気にしていますか。東京には海がありません。厳密にはありますが、あんなもの倉知浜に比べればデカいゴミ溜めにすぎません。
ああ、本物の海が見たい。
アナウンスが発車を告げ、扉が閉まる。
会社、遅刻だなあ。でも、まあいっか。
諦めを覚えた私の身体は、急速に緊張を失い、四肢はだらりと垂れ下がる。
薬剤によらない自然な眠気がやってくる。
さよなら、現世。
「先生! 先生! 原稿はまだかい! そこにいるのは分かっているんだから!」
と、ここで邪魔が入った。ロココ調の白い扉を乱暴に叩く音がする。
チッ。気持ちのいい一人芝居を止めんなよ、クソ編集。ここからが重要なところなんだから。
あんなもの無視して話を続けよう。
「お客さん、終点ですよ」
底なし沼のように深い眠りから私を引きずりだしたのは、車掌の呼びかけだった。意外と近かったな。たまには、こうしてひろーい海を眺めてリフレッシュするのも悪くな……
いや、ここ海じゃない。
車窓の向こうに広がっていたのは、おもちゃみたいなレンガ造りの家々と、整然とした石畳の道々。絵本の中のような世界だった。
テーマパークにでも来てしまったのか? とっさに私は赤毛の車掌に聞く。
「つかぬことを聞きますが、ここはどこで?」
「どこって大キャピタルシアだよ。この世界を支配する大公国だ。つっても、ここはいわゆる辺境だけどね」
聞いたことのない地名にぽかんとする私に、車掌はぶしつけな視線を投げる。
あんたねえ、どこから来たの? 見かけない恰好だけど。言ってることも変だし、道化師かなんか? それにしちゃあ辛気臭いナリだが。
そして、制帽で真意を隠し、車掌はにやりと笑った。
「行くとこねえのか、姉ちゃん。じゃあ、おれについてこい」
リクルートスーツを着込み、合皮の鞄を持ったくたびれた女が一人、異世界に迷い込む。こんなとき、偶然出会った人間に連れ込まれる場所といえば。
近場の領主の家である。
もちろん客としてではない。
見世物としてだ。しくじれば命はない。ようは売られたのだ。
いやー、子爵殿の前に引き出されたときは生きた心地がしなかったね。
がっしりした椅子にどっかりと座り込んだ子爵の前に引き出されるやいなや、私は怒涛の頭下げをくり出した。
どうかどうかお命だけはご勘弁を、できたら牢にもつながないで、本音を言うと三食昼寝付きでニートしたい、と靴を舐めんばかりの勢いで土下座した。
珍妙な姿で額を床にこすりつけるような米つきバッタぷりがウケたのか、それとも現世でのワクワクオフィスライフトークが興味深かったのか、幸運にも私は子爵の家に召し抱えられることとなる。
そして、さらなる幸運にも恵まれる。
このときした話はのちに本となり、前代未聞のベストセラーとなってこの国の姫をも夢中にさせてしまったのだ。
でも、この話の続きはまた今度にしよう。
だって、あの編集、ドアを壊すことを思いついたみたいだから。
ロココ調の白いドアは、メキメキと不気味な音をたてていた。
私は窓を開け、下を見る。一階と半分くらい。木も生えているし、いけるかな?
ドレスを脱ぎ捨て下履きの長ズボンだけとなった私は、有り金すべてを入れた鞄を抱いて飛び降りる。
さらばだ!
現世で仕事から逃げた私は、この世界でも仕事から逃げることを決めたのであった。
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