再還 トラントの渓谷

「黒陽の理想郷はどこへ?」


 ルビンさんは、太陽が山の影に身を隠すころにようやく屋敷へ戻ってきた。私たちが帰ってきてからずっと臨戦態勢のサーシャさんは鋭い声で追跡の成果を聞く。


「奴らは王都北側に開けた隠し通路から北西へ。そのまま止まることなくトラントの渓谷へ向かっていきました。瘴気域の入り口近くまでは追うことができましたが、それ以上の追跡を断念し戻ってきたところです」


「いいわ。急なお願いだったのにありがとう」


 トラントの渓谷。そこは正しくユーシェを生け贄にしようと奴らが考えていた場所だ。まさか、瘴気域に戻るなんて選択肢を思いつきもしなかった。


「最近奴らの動きが活発だったのは、ユーシェが狙いだったって訳か。俺らも一杯食わされちまった」


 苦虫を噛み潰したような苦い顔でフーラさんが吐き捨てる。さきほど聞いたのだが、彼ら炎華の獅子は教団の怪しい動きに気付いていたらしい。しかし、それを逆手に取った奴らの陽動で、私たちの方へ来るのが遅れたのだという。


 不意打ちとはいえ、ユーシェも守れずアキラに助けてもらってばかりで、何もできずにいた私自身が何よりも不甲斐ない。


「サーシャ。これをどう見る?」


「……恐らく、私たちがこれ以上の介入をしなければ、奴らはこれまで通りの態度を続けてくると思うわ」


「……! それって!」


「ユーシェを見捨てるってことかよ!?」


 私と明のどちらも、思わずといった風に怒気をはらんだ声をあげる。そんな薄情、どんな事情があっても私たちは受け入れられない。

 しかし、その反応を分かっていたかのようにサーシャさんに先制で制止されてしまう。


「私たちは、


 炎華の獅子のメンバーが笑いながらこの言葉に同意を示した。面食らったのは私の明だけ。それは、ある意味では予想外の反応だった。


 物語だったら必ず、若者の勇み足を年長者がもっともらしいセリフで止めてくる。それを若者が持ち前の無鉄砲さで払いのけるというのが常だ。

 それがどうだろう。私たちを諫めるどころか、自分たちが率先して助けに行くと息巻いている。これではまるであちらが主人公のようではないか。


「アキラ、ノゾミ。私たちからの依頼があります。いい?」


 サーシャさんは改めて私たちに向き直る。深紅の髪の毛と同じくらい燃えるような視線が私たちを貫いて、居住まいを正させた。

 お願いなどではなく、依頼。私たちは今、冒険者として彼女の前に立っているのだ。


 未だ何も為せていない私たちを一人前と扱ってくれているが、喜びよりも後ろめたさや戸惑いの方が私の中で大きく膨れ上がっていた。


 気圧されながらも、なんとか無言で頷く私たちを見てサーシャさんは話を続ける。


「トラントの渓谷の調査と、最奥に潜む主の討伐。この任務を私たちと共に受けていただきたいのです」


 唾をのむ音がする。これは私かそれとも明か。もしかしたら同時だったかもしれない。その言葉の重さに喉が張り付く。


「この一週間、あらゆる方面から観察を続けてきましたが、あなたたちは瘴気の影響を受けないほぼ唯一の人類です。そのうえ、巨大な魔物も臆さず倒すだけの実力がある。これを頼らないという選択肢は、この国には……いえ、この世界には存在しないのです」


「それでも、瘴気域の主と戦うなんて俺たちじゃ……」


「三日だ」


「え?」


 壁に背を預けるフーラさんが、三本指を立てて明の言葉を遮った。


「これは俺たちが支障なく瘴気域で活動できる日数だ。これはあくまで支障なく動けるってだけで、疲労感や軽いめまいなどの症状は一日目から出る奴もいる」


 これは以前、瘴気域について教えてもらった時に聞いた数字だ。改めて聞いても、トラントの渓谷に行った私たちにそんな症状は見られなかった。


「実を言うと、トラントの渓谷の主は発見済みなんだよね~」


 そう軽い調子で話すのは、ロビンさん。


「え? だったらだれか討伐しているんじゃ……あっ」


 明は何かに気付いたかのように言葉を切る。発見済みの主、瘴気域での活動時間……二つの条件を合わせて考えて、ようやく私も理解した。


「そう。主が根城にしている場所まで約四日かかるんだ。もちろん、そこからの帰還にはそれ以上の日数がかかるときた。この情報を持ち帰った奴らは全員、冒険者を続けられなくなったんだとさ」


 瘴気域に長期間居続けた者は、最悪の場合錯乱状態に陥ることもあるという。冒険者を続けられない理由の方に考えが及びそうになったが、頭を振って振り払う。深くは考えないが、きっとろくでもない末路だったに違いない。


「ほぼ万全の状態で主と戦えるってのはそれだけで大きな優位点なんだよ」


「ここまで話したうえで聞くのは酷だと思います。それでも私たちは二人のことを人類にとっての希望だと、考えているのです」


 希望だなんて大げさだ。特殊な能力に目覚めて色々な条件に恵まれているが、私たちの中身はただの高校生。世界を背負うには小さく頼りない背中だ。


 大それた話だと思う。瘴気域の主は初めての遺構で戦ったカマキリなんかよりずっと強くて恐ろしいものに違いない。それでも……。


「私は」「俺は」


 意を決した私と同時に明もなにかを言いかけたようだ。目線がかち合うと、話をこちらに譲ってくれる。

 大丈夫、多分言いたいことは一緒。


「私は、ユーシェを助けたい。世界のためとかどうとか、考えるだけで怖いから今はひとまず置いておいて。ユーシェのためなら私たちはやるわ」


 私はひそかに、自身の境遇とユーシェの境遇を重ねていたのだと思う。

 異世界から来た私と、この世界に広く伝わっている常識と全く別の常識の世界で生きてきたユーシェ。外から来た者という意味では私と彼女は同じなのだ。


 理不尽にな運命によって、今までの常識が通用しない世界に一人ぼっちで投げ出された彼女はどれだけ心細かっただろうか。

 同じような境遇といっても彼女は私よりもずっと寂しかったはずだ。私の隣には明という秘密を共有できる人がいたのだから。


 明がいてくれたように、私も彼女の隣にいてあげたい。そんな思いを自覚すると同時に、病気がちでほとんど交流することもなかった義弟を不意に思い出す。


 ああそうか、弟を含めた家族とほとんど言葉を交わさずに拒絶したことを後悔しているんだ私は。そして、ユーシェを彼と重ねている。

 都合のいい考えだと心のどこかで声があがる。義弟への罪悪感をユーシェを使って薄めようとしているのだと。そんなの、ただの偽善であり、独善だと。


 それでもかまわない。この世界も現実も、死なない限りいくらでもやり直しが利くのだ。元の世界に戻ったら、もっと人と関わるように変わっていけばいい。そして、そのための第一歩をこの世界で歩むのだ。


「ユーシェは私にとって妹みたいなものだから。勝手に連れてかれて、腹が立って仕方ないの」


 明は安堵したように頷く。言いたいことは一緒だから心配いらないわよ。

 サーシャさんは手を差し出してにこりと微笑んだ。握り返したその手のひらはごつごつとした戦う人の手だった。


「それを聞けて良かった。ユーシェの捜索がまずは最優先。捜索が長引けば瘴気域の主の討伐は中断も検討するわ」


「ユーシェを探す手間はそんなにかからないと思います」


 そう声を上げたのは明だ。どういうことだろうと疑問に思っていると、明は懐から円盤状の何かを取り出した。


「この円盤上にある針の先にユーシェがいます」


 そこでようやくピンときた。それは、冒険の準備で購入した魔道具だった。


 『番いの陰陽・陰』。二つで一つで互いの場所を指し示すというだけの魔道具だが、別行動をとるときに互いの場所が分かれば便利だろうと購入したものだった。


「それ! いつの間に!?」


「贈り物の外套に、迷子になると悪いからと思って入れておいたんだ。瘴気域をしらみつぶしに探す手間は省けるんじゃないでしょうか」


「でかした! お手柄だ、アキラ!」


「道標があるに越したことはないですね。さっそく明日の朝には出立しますが、二人とも覚悟はいいですか?」


「はい!」「もちろんです!」


「良い返事です。さっそくみんなは明日からの準備を始めてちょうだい。二人は準備でき次第早く寝ること。それじゃあ解散!」


 話がまとまって、それぞれが部屋を出ていく。


「先行ってる」


 動こうとしない私から何かを感じたのか、明はそう言って他の人に続いて外へ出て行った。


「ん」


 私と様々な書類をまとめているクレアさんが最後に残った。

 どうしても聞きたいことがあって、クレアさんに声をかける。


「クレアさん」


「なあに?」


 書類から顔を上げて穏やかに聞き返してくる。


「どうしてみなさん、サーシャを助けてくれるんでしょうか?」


 クレアさんは困ったように笑う。私もおかしな質問をしているという自覚はある。


「ノゾミと同じよ。私たちもサーシャのことを妹のように思ってるの。あんなに良い子のこと、好きにならない人はいないわ」


「それでも瘴気域に逃げた奴らを追うなんて危険なこと止められると思ってました。皆さん大人だから、奴らと事を構える危険なんて分かり切ってるでしょうし」


 それを聞いて、クレアさんは何か納得したかのような表情を作って声を出して笑った。


「アハハ! そういうことね。確かに、ギルドの人たちとかマルコさんとかだったら止めていたでしょうね」


「それなら……」


「でもね。私たちは、貴女が思っているより大人じゃないのよ? みんな貴女の思う大人よりも、物分かりが良くないの。理不尽をはねのけるために無茶をするのは若者の特権、なんてね」


 そう言って微笑むクレアさんの表情は誰よりも大人っぽかった。



***



 日が昇ってからそれほど時間が経っていない森の中。天気は曇りで、わずかに霧がかっている。早朝に出発した俺たちは、トレントの渓谷の入り口付近まで来ていた。


「トレントの渓谷内部の瘴気は、奥に進むほど濃くなってくる。途中までは全員で進むが、中間地点からはフーラと私、アキラとノゾミの四人で奥へと進む。問題ないな?」


 全員が無言で頷く。屋敷を出る前にもした作戦のあらましの確認だ。入ったら最後、戻ってこれないかもしれない危険な行軍のため、メンバーのうち瘴気耐性が比較的低い人たちは中間地点で陣地を作る役割を担うこととなった。


 作戦に抜けがないかを確認して行軍を再開する。すると、明が耳打ちしてきた。


「ユーシェのこと、絶対助けようぜ」


 至近距離での低音ボイスでのささやきは思っていたよりドキッとした。しかし、そんなそぶりを見せたら負けな気がしたので、平気な顔で返事を返す。


「もちろんよ。家族だもの」


 瘴気域という不自然な自然だけでなく、人の悪意も私たちを待っているのだろう。それでも、何があっても私は止まらない。昨日の失敗は私自身で取り戻すのだ。


 人生三度目の瘴気域。そして、二度目のトレント渓谷へと望海と明は分け入っていくのだった。

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