冒険と自由の国 ルダニア

何も分からぬ異世界

「Grrrrr!!」


 双角を携えたライオンに似た生物が、不用意に声を上げた俺を見つけようと周囲を見回している。どうやら俺は、異世界というものに来てしまったらしい。


 今いるここが異世界だということを念頭に置くと、周囲の森の植生も現代日本とは微妙に違う気がする。針葉樹林が多いように見えるが杉の木には似ていない。


 まとわりつくようなこの森の空気には何とも言えない気持ち悪さがあるが、かといって都会の排ガスまみれの空気ともまた違う雰囲気がこの森からは感じられた。


 そんな考察をしてみるが、冷静に周囲の観察をしていたわけではない。目の前の恐怖を視界に入れたくなくて、どうでもいいことに思考が向いているだけだ。


 もう少しであの生き物に食われるかもしれないという考えを、頭の隅に追いやろうという現実逃避でもあった。しかし、そんな時間は長くは続かない。


 不気味な獣が、俺を視界にとらえたのだ。


(見つかった……!)


 こちらに視線を固定してそいつは駆けてくる。車のように大きな体で木々をなぎ倒しながら距離が詰められていく。


 情けないことに全身に残る鈍い痛みで立ち上がることもままならない。それでもみっともなく近くの木の根元まで這って進む。


 ――怪物の巨躯が俺の頭上に影を落とした。


「Gaaaa!!」


 硬質な物同士がぶつかり合ったかのような音が響いた。


 前肢から伸びる長く鋭い爪で引き裂かれようとするまさにその瞬間、何かが間に割って入ったのだ。突然の乱入者に怪物は警戒して後ずさる。


 それは赤い長髪を風になびかせる凛然とした女性だった。


 身にまとう白いドレスのような衣装とその上に身に着ける白銀の軽鎧は、血の匂いさえ漂う不穏な森の中では酷く浮いていた。しかし場違いに見えるからこそ、そんな場所に立っている彼女がただものではないと証明していた。


【コード:ファイア】


 無機質な音の連なりで、なぜか耳慣れた英語が女性の右手から響く。


 その正体は刀身の細い一本の剣だ。一切の曇りのないそれは柄の部分に紅玉がはめ込まれており、素人目にも素晴らしい刀剣だと見て取れる。


 鏡のような銀の輝きは燃える炎へと姿を変える。冷たい白銀の輝きから赤熱の煌めきへ。俺はその美しさに目を奪われた。


 獣は怒りの咆哮と共に跳びかかる。ご褒美は最後に取っておくとでもいうようにその殺意を剣士に向けたのだ。しかし、悠然と構えた剣士は最低限の動作で回避する。


「はッ!!」


 横を通り過ぎる怪物に、気迫とともに一撃が放たれる。炎の剣閃は両角の獣の首をいとも容易く焼き切った。思考を失った巨体は数メートルを進んだまま崩れ落ち、切り落とされた首はドサッという音と共にその場に落ちた。


 命の危機はその到来と同じように、突然に去っていったのだ。


 一瞬の出来事に見惚れていたら、長く鮮やかな赤髪が優雅に揺れてこちらを振り返った。


「怪我はなかったかしら?」


「……は、い」


 振り返った彼女は、モデル顔負けのとんでもない美人だった。昔の人だったら天女っていって崇めてたかもしれない。


 危機は去ったと柔らかく微笑む彼女の表情に思わず安堵して、意識が遠のく。


 遠くから俺の名前を呼びかけるような声が聞こえるが、ズキズキとした痛みが邪魔をしてその呼びかけへの返事を拒んでしまっていた。



***



 もう一度目が覚める。景色はほとんど変わっていないが、今度は木々の間からは星がきらめいていた。いまだ森の中にいるが、先ほどより少しだけ開けた場所にいるようだ。そして、意識を失っている間に夜になっていたらしい。


 意識を持っていかれるほどの痛みは不思議となくなっており、どうにか身体も起こせそうだ。


「起きましたか」


「いつまで寝てるのよ……」


 聞きなれない声と懐かしい声。正確には穴に吸い込まれる前に聞いているのだが、それが遠い過去のように思えるほどの体験をしてしまった。


「良かった……望海も無事だった」


 望海は毛布を肩にかけ、スープのようなものを飲み下している最中だった。

 よく見ると、声を掛けてくれた赤髪の女性と望海の他にも五人ほどが一つの焚火を囲むように座っている。その顔色からうかがえる疲労具合もまちまちだ。そして、揃って何かしらの武装を携帯していた。


「あなたが助けてくれたんですか?」


 最初に声を掛けてくれた赤髪の女性は、俺の命を救ってくれた恩人だった。


「ええそうよ。私はサーシャ・リードリッシュ。ここにいる『炎華の獅子』のリーダーをやっているわ。呼ぶときはサーシャで結構よ」


 焚火に照らされるサーシャさんの横顔はかなり整っている。あれだけ大きな獣と戦った後でこれだけ涼しい顔をしていられるということは、あのような戦いに慣れているに違いない。


「ありがとうございました。俺は深見明フカミアキラっていいます。明って呼んでください」


「ノゾミの時も思ったけれど二人とも変な名前ね……? それはそうと、二人とも起きたことだし、なんであんなところで倒れていたか説明してくれるかしら」


 俺と望海は顔を見合わせる。これは……俺に説明をぶん投げている顔だ。お互いの親に門限破りの言い訳をする時とかによくこんな顔をしていた。


 今のところ言葉は通じるが、異世界から来たということは隠しておいた方が話がスムーズに進む気がする。となると今話せる内容はあまりない。その上でこの世界のことは知っておきたい。だとすると、俺が話すべきことは……。


「……すみません、俺たちここがどこなのかも分からなくて……なんでこんなところにいるのかも曖昧で……」


 サーシャさんからは陰になっているが、望海はすごい顔をこちらに向けていた。


(……ごめんって。記憶喪失は無理があるのは俺も分かってたって。けど何も分からないのは本当だから! 嘘は言ってないから!)


 無言の中で言い訳を重ねていると懐かしい気持ちになる。昔から望海はガキ大将気質で、こっちに色々丸投げする癖に失敗するとすぐ顔に出る。そのため、毎回イタズラの共犯だとバレて一緒に叱られていた。


「教団の連中の死体もあったことを考えると……なんらかの儀式の……? ああ、ごめんなさい。当人たちの前で話すことではなかったわね」


「サーシャ。とりあえず町に送るのがいいんじゃねえか。その最中にここのことを教えてやりゃあいいだろう。そろそろルビンたちに瘴気の影響が出始めているし、少しだが調査の進展もあった」


「ええ、分かってるわフーラ。彼らがどれだけこの森にいたかも分からないし、早めに帰還するに越したことはないでしょうね」


 俺の横に座って流れを見守っていたフーラという緑髪の男の口添えもあって、意外にも上手く誤解してくれたようだ。嘘をついているようで若干心が痛む。


 それにしても、ラノベやゲームみたいに自分が異世界に来るなんて思ってもいなかった。それも、長く会っていなかった幼馴染の望海も一緒だなんて。


「アキラとノゾミだっけか。今日はもう遅い。明日この森を出るときに詳しい話をしようぜ」


「「分かりました」」


 俺たちはフーラさんの言葉に異口同音に返事をする。何も分からない異世界だったが、初めて出会った人たちから助けてもらえたのは唯一の幸運だったのかもしれない。

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