第85話 宮城県某所 プライベートダンジョン

■宮城県某所 山中


 山深く、切り立った峰々が折り重なるその谷間。

 衛星写真にも映らぬ細い古道の奥に、ぽっかりと穴が空いていた。

 見るものが見れば、その穴から漏れ出す邪悪な気配に気がつくだろう。

 周囲の木々は枯れ、野生の獣や鳥たちは近寄らない。

 正木家が秘密裏に所有する、ごく小規模なダンジョンの入り口であった。


 緩やかな傾斜をくだると、その先には広々とした空間が広がっている。

 低い長机にフラスコやバーナーなどが並び、うつろな目をした男たちが黙々と手を動かしていた。

 その一番奥まった場所に、ソファに腰を掛ける男がいた。


「くそっ! 一体何だったのだ、あの無礼者は!」


 男は額に濡れタオルを巻き、不快げにつぶやいていた。

 蛇のような目つきは赤く充血し、薄い唇に縁取られた口元は歪んでいる。

 正木家当主、正木ヒデオである。


「お館様、どうかお気をお静めください」


 傍に控える黒服が、濡れタオルを取り替える。

 頻繁に取り替えなければ、すぐにぬるくなってしまうのだ。


 このダンジョンに冷蔵庫や冷水機などという気の利いたものはない。

 薬漬けで自我を失った者たちを働かせ、神権侵害ラインオーバーを作らせるための工場なのだ。本来ならば、ヒデオが自ら訪れるような場所ではないのである。


「あらあら、せっかくわらわが直々に来てあげたのに、ずいぶんなご様子なのねえ」


 不意に、女の声。

 ヒデオは顔を上げ、声の方を見る。

 そこには、艶やかな着物を身にまとい、腰まで伸びる黒髪を揺らす女がいた。


「イバラか。約束の時間にはまだ早いぞ。それに場所も違う」

「うふふ、強がりはおよしなさいな。約束の場所にも時間にも、もう来られなかったでしょうに」

「ぐっ……」


 反論できず、ヒデオは奥歯を噛みしめる。

 イバラと呼んだ女――いや、女形のモンスターの言う通りなのだ。


 取引場所はもともと正木邸を予定していた。

 だがそこはすでに燃え尽き、焼け跡には自衛隊や警察、そして無数のマスコミが居座っている。

 ヒデオが乗るヘリから大量の神権侵害ラインオーバーがばら撒かれる動画が拡散されており、SNSはもちろん、報道各社が競うようにそれを報じていた。


 地元の報道機関だけなら抑えがきいただろう。

 しかし、WKプロレスリングだとかいう輩が配信していた生放送などというものが仇となった。数年ぶりに起きた大規模な迷宮災害に、日本中が注目したのだ。全国のマスコミが大挙して押し寄せ、スクープ合戦の様相を呈した。


 政治家のスキャンダルなど、普通であれば速報などしない。たっぷり時間をかけて取材をし、勇み足をしないよう恐れるものなのだ。そうして二の足を踏んでいたのなら、その隙を突いてもみ消すこともできただろう。


 だが、今回は規模も速度も尋常ではない。正木家の力を持ってしてもコントロール不能な事態に陥っていたのだ。


「まったく、惨めねえ。無惨なだけでかわいくないわ」


 女の視線がヒデオに刺さる。

 その目には一切の温度がなく、感情がなく、カーペットの隅に丸まった綿埃でも見るかのようだった。


「無礼者が……私を誰だと思っている!」


 不躾な視線に苛立ち、ヒデオは声を荒げる。

 正木家の当主たる自分を見下してよい者などいないのだ。

 いまは状況が混乱しているが、ナガムシ様の力がある限り、必ず巻き返せる。

 無意識に、懐に入れたナガムシ様の御神体を掴む。

 ひんやりと冷たい感触が手のひらを撫で――


 ――すぐに、焼けるような痛みへと変わった。


「がああっ!?」


 ヒデオは手首を押さえ、地面に転がる。

 右手の先が無くなり、大量の血が噴き出していた。

 真っ赤な水たまりがみるみるうちに広がっていく。


「ふうん、これがあなたのおうちの守り神だったのね。随分ケチな土地神様だこと」


 嘲るような声。

 失った手首と、それが掴んだナガムシ様が、イバラの前に浮かんでいた。

 よくよく目を凝らせばわかっただろう。

 絹糸よりも細い細い茨の蔦が、切断した手首を白蛇のミイラごと絡め取っていた。


「ぎざっ、貴様! こんなことをしてただで済むと思っているのか……!」

「ただでは済まないでしょうねえ。大損をするところだったのを、なんとかトントンにできるかもってところかしら」

「何を、言っている」

「わかりやすく説明してあげるわ。あなたが生きてたら、せっかく作った地上の取引ルートがまとめて潰れちゃうかもしれない。それを防げるのがまずひとつ」

「なぎをごっ」


 ヒデオの声が、遮られる。

 その首には、無数の糸が絡みついていた。


「得する方は……うん、思ったよりも多かったかもしれないわね。この工場もそのままもらえるし、あなたみたいな呪術の家系にモンスターの魂と交感する因子があることがわかったし。ああ、そうだ。気がついてなかったようだけど、あのドラゴンの正体はあなたの息子だったのよ?」


 ヒデオの喉から詰まった排水口のような音が漏れる。

 隣の黒服も同様だ。両手で喉を押さえ、うずくまって呻いている。


「気に入らないのは、あのクロガネとかいう男と、クソ生意気な小娘に結局何も出来なかったこと……。ねえ、あなた、何を勝手に仕掛けてくれたのかしら?」

「ふぐっ、なっ」


 ヒデオには何の話かわからない。

 イバラとクロガネとの因縁など、知るはずもないのだ。

 ただただ、喉を掻き毟って糸を振りほどこうとする。

 しかし、イバラはそんな様子など気にも止めない。


「特別に超一級の材料を用意してきてあげたっていうのに、わらわが来る前に終わってるじゃない!」 


 イバラが乱暴に地面を踏みつける。

 それと同時に、2つの首が地面に落ちた。


「まったく、使えない人間だったわね。さて、あとは工場の管理人が要るわねえ」


 イバラの糸が、びちびちと暴れる白蛇のミイラを締め上げる。

 ばきりと乾いた音がして、2つに折り割られた。

 それぞれの破片を、首を失った胴体に放り投げる。

 破片は黒い炎に変じ、死体を包むと一瞬で消え去った。


「大した力も宿ってなかったけど、死人繰しびとくりには足りるでしょ。ここの仕切りはしばらく任せたわよ」


 のっそりと立ち上がる2つの死体を背にし、イバラはその場を後にした。

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