第26話 重さ
電車の中でも、駅からタクシーで家に向かうときでも、佐久は一言もしゃべらない。
父親のことを思い浮かべるだけで気が重かった。足の痛みの方がマシなくらいだ。
「佐久! 大丈夫か」
最寄り駅からタクシーで家に帰った佐久を出迎えたのは、スマホで連絡を受けた父、妙高蓼科のそんな声だった。
「……大したことない」
吾妻に肩を借りてやっと車から降りてきた佐久は、そうつぶやいた。
家に入り、靴を脱いでザックを下ろすと事情を説明する。話すうちにどんどんと場の空気が重たくなり、胃が痛くなるどころか吐きそうなプレッシャーを感じる。
いじめがあった時と同じ。娘にトラブルがあった時、問い詰めるように話を聞いてくる。
一度目の登山の後に見せた過保護な親の影はみじんもなかった。
「ずいぶんと運動負荷の高い山だな…… 辛くはなかったのか」
「……うん。慣れてる友達が一人いて、キツさを調整してくれたから」
「だが怪我をさせたのは事実だ」
「……その子が悪いわけじゃない」
「事実上の責任者だろう」
分厚い眼鏡の奥、娘に似た涼しげな目に問い詰めるような厳しさが宿る。
短く切るような言葉遣いが、迫力をさらに増していた。
ああ。父親はいつもこうだ。相手の気持ちに言葉を合わせるのでなく、理屈と正義
感を押し付けてくる。
それで目の前の相手がどんな思いをしているのか、察する能力に著しく欠けていた。
今もそうだ。目の前の娘がどんな顔で話しているのか、そばで聞いている吾妻がどんな空気なのか、気にする様子がまるでない。
医師という立場で常に人を物扱いしているとこうなるのだろうか。
ふと彼は足首に巻かれた佐久のテーピングを見る。
「手慣れているな…… まるで整形のドクターがやったようだ。大人にやってもらったのか?」
父親が人を褒めることは滅多にない。褒められた相手もあって、佐久は口が軽くなってしまった。
「……一緒に行った、峻くんって子がやってくれた」
名前を言ったとたん、蓼科の雰囲気が一変する。しまったと佐久は思ったがもう遅かった。
「男とハイキングに行くなど、言っていなかっただろう?」
「……そんなんじゃない、ただの友達で、望月と、後もう一人女子も一緒だったし、」
「言わなかったのが問題なのだ」
佐久の身体が震え、舌が張り付いたかのように動かなくなる。父親の顔を見ただけで恐怖で体がすくむ。
「佐久。お前にはいずれいい男を見つけてやると言っているだろう。体が弱いことを知っても蔑むことのない、男を」
「……親が結婚相手見つけてくるなんて、いつの時代? 結婚相手くらい自分で見つける」
吾妻はお茶を入れてきます、とそっとその場を離れた。
リビングのテーブルに場を移し、佐久と蓼科の二人は向かい合ってお茶を飲む。さっきまでの蓼科の刺すようなプレッシャーはだいぶ和らいでいた。
「佐久」
蓼科の声のトーンが変わり、暖かみを帯びている。
「お前には話したことがなかったな」
お茶を最後の一滴まで丁寧に飲んでから、父親はゆっくりと話し始めた。
「父さんと母さんがどうやって出会ったかまでは、聞いているな?」
「父さんがお世話になってた教授の娘さんが、母さんだったって」
「わしも昔はそうだった。結婚相手など自分で見つける、医者の肩書きなどに頼ら
ず、自身の魅力だけで勝負するとな」
「今思えば若く、愚かだった」
父親がニヒルな笑みを浮かべる。佐久でさえ、彼がそんな表情をするのをはじめて見た。
「医者と聞けば大体の人間は羨ましがるがな、医者の肩書きは呪いでもあるのだ。大学同士の合コンでは学部をきくや、わしの座席の隣に座る女もいた」
「高校の同窓会では在学中はガリ勉のわしに見向きもしなかったにもかかわらずな。どこからかわしのその後を聞き付けたのか、さも親しげに話しかけてくる」
「はじめはモテて嬉しかった、医学部に入ってよかったと思ったのだが、席を離れてトイレに行くと奴らの本音が聞こえてきたのだ」
「『あのガリ勉、一生養ってくれそじゃね?』『顔も中の下だし、空気も読めないけどATMとしてはいいか』『結婚したらこっそり浮気すればよくね? どうせ気づかないって』とな」
その時のことを思い出したのか、蓼科は拳をギリギリと握りしめた。
「場所を変え、わし自身を見てくれる女子がやっと現れたと思ったら、そいつも医者の肩書きにしか興味のないクズだった」
「それを延々と繰り返すうち、あー、もうお見合いでいい。と悟ったのだ。生まれも育ちもまるで違う異性から自分を愛してくれる相手を探すより、信頼できる相手から紹介してもらった方が楽だからな」
吾妻が淹れてくれたお茶のお替りを、蓼科は乱暴に飲み干す。
「……パパも、苦労してるんだね」
「性別は違えど、その男も同じ輩に決まっている」
「……そんなこと」
佐久の言葉を蓼科は強引に遮った。
「それほど言うなら、わしがこの目で確かめてやる。もしわしの眼鏡にかなう男なら好きにしろ」
「……それは」
反論の言葉も思いつかず、父親に逆らえるだけの勇気もなく。佐久はその提案を飲まざるを得なかった。
苦いものを無理やり飲んだような重苦しさが体に満ちていく。
こんな空気の読めない一方的にしゃべる父親を見られたら。峻に絶対に引かれる。学校で会う時ですら、今後気まずくなる。
父親も、峻を認めるわけがない。
ベッドに入り目を閉じた佐久の身体と心は、重かった。
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