第11話
白馬はお腹をさすりながら、ぼうっと空を見上げる。町よりも濃い青空に白い雲が、ゆっくりと流れていく。
望月は足を投げ出して両手をレジャーシートの上につき、背伸びをしている。お椀型の胸が羽織ったピンクのパーカーを下から押し上げていた。
佐久は女の子座りのままでうつらうつら、ゆっくりと舟を漕いでいる。
彼女の涼しげな目元が開かれ、意識がはっきりしてきたころ不意に望月が口を開いた。
「白馬くん」
「何、榛名さん?」
わずかに口元が笑っているのが気になりながらも、白馬はいつも通りに返事を返す。
「それそれ! なんだか、ずっと話してると苗字呼びに違和感があって。佐久と呼ばれ方が違うからかな」
「……そう? でも榛名さん、クラスの男子からも同じように呼ばれてない?」
「まあ、いいじゃない。親愛の証ってことで。名前で呼ぼうよ。白馬くんの下の名前は?」
「峻。山が高く険しいっていう意味の、峻嶮の峻」
「峻くんか。なんだかイメージ通りかも」
「……峻」
佐久はかみしめるように、白馬の下の名前をつぶやく。
「……じゃあ私のことも、佐久でいい」
「わ、わかったよ。望月さん、佐久さん」
「よろしくね、峻くん」
望月が切れ長の瞳を細めて満面の笑顔を作る。峻はその破壊力に耐え切れず目をそらした。女子を名前呼びするというのは、すぐに転校してしまうからとずっと自分の気持ちを抑え込んできた峻にはハードルが高い。
「……望月、何笑ってる?」
「なんでもなーい!」
望月はいたずらっ子のように無邪気な笑顔を浮かべていた。
佐久が帰宅し、家事手伝いの吾妻に空の弁当箱を渡すと目を丸くされた。
「お嬢さま、完食されたんですね。量を調整してもいつも残されるから、私の料理の
腕が悪いのではないかと思っておりました」
「……そんなことない。吾妻さんのごはんはいつも美味しい。たまたま今日はお腹が空いただけ」
男子におすそ分けしたと打ち明けるのがためらわれ佐久は言葉を濁す。だが吾妻は孫のように思っている佐久のそんな言葉に、しわの浮かんだ目元を細めた。
六十を過ぎた彼女だが、妙高家の家事を一手に引き受けている。
佐久の母親は医者ではないが、夫を支えるための仕事は多岐にわたっていた。昨日は地元企業との懇親会、今日は役所の保健課との面会。地域に根を下ろした病院の業務をスムーズにするためいつも忙しく、夫妻ともに娘に構う時間がなかなかとれない。
そのため伝手で紹介してもらったのが吾妻で、佐久が幼いころから面倒を見てもらっていた。
佐久は一度部屋に戻ってソフトジーンズとジャンパーを脱ぎ、ワンピースタイプの部屋着に着替える。
疲れたので部屋の布団で軽く仮眠をとってからリビングに行くと、二人分の夕食の準備ができていた。
「……吾妻さん。もし時間があったらでいいんだけど」
「なんですか、お嬢さま?」
珍しくお代わりを希望した佐久にご飯をよそいながら吾妻は聞き返した。
「……料理、教えてほしい」
吾妻は内心驚愕したが、根掘り葉掘り聞くほど野暮ではない。孫の成長を見守る祖母のように穏やかな視線で返しながら頷いた。
「……ところで、パパは?」
「院長室です。学会に向けての資料作りが山場なようで」
夕食を終えた後、佐久は自宅のすぐ隣にある病院の廊下を抜けて院長室へ向かう。
夜の病院は人の往来が少なく、すれ違うのは夜勤の看護師と介護士、トイレへ向かう病衣姿の患者くらい。
音と言えば患者の部屋から時々鳴るナースコールと、具合の悪い患者につけたモニターの音だけだ。
病院内を私服で歩いていても病院スタッフは慣れているから驚きはしない。だが院長の娘である佐久に対し気を使っているのが肌で感じられた。
入院していた幼いころを思い出す。
佐久が他の子どもと同じことをしても違った対応をされる。子供だというのに叱らない、そんな看護師も少なくなかった。
逆に院長の娘だからと嫉妬交じりの嫌がらせをしてくる看護師もいた。他の職員と問題を起こしたとかで、比較的すぐに辞めていったのは不幸中の幸いだったが。
院長の娘でなかったら。医者の娘でなかったら、そんな対応をされなくて済んだのだろうか。
詮無いことを考えながら、重厚な造りの院長室のドアを開く。
南側に面した大きな窓からは霧ヶ峰市の夜景が一望できた。窓をバックに紫檀の机が配置され、上には分厚い専門書と学会発表用のスライドが映されたパソコンのモニター。
「山岳医療学会」とタイトルが記されている。
それに向き合うのは、スーツの上から白衣を羽織り、佐久と似た涼しげな目元に分厚い眼鏡をかけた男性。
医者というテンプレを体現したかのような人物だった。
「パパ」
佐久が声をかけると、専門書をめくる音とキーボードをたたく音が止んだ。
ゆっくりと分厚い眼鏡の奥の瞳が愛娘を捉える。
「佐久~!」
その途端に中央に据えられた紫檀の机から佐久の父、妙高蓼科が駆け寄ってきた。
佐久の肩をペタペタとさわり、ペンライトで眼球を覗き込みながら声をかけてくる。
「大丈夫か、ケガないか? 担当医師に診てもらったか? だからパパがついていこうとあれほど言ったじゃないか」
「……大丈夫、たかがハイキングに行くくらいで大げさ。病気も良くなってきたし、私はもう子供じゃない」
佐久はうっとうしげに、父親である蓼科の手を振り払った。
「まあ座って。お茶を出すから、話を聞かせなさい」
部屋の中央に据えられた革張りのソファーに佐久を腰掛けさせると、山と送られてきた中元の一つである茶葉を棚から取り出す。急須にお湯を注いで少し蒸らすと湯呑に注いだ。
「……ありがとう」
玉露でのどを湿らせた後、佐久は口を開く。
山ツツジの話、タケノコの話。
山頂でお昼を食べた話。
そして、カメラの話。カメラマンが男子であったことは伏せて。
「楽しめたようで何よりだ、パパは安心したよ」
蓼科はメスを振るって数多くの人間を切り裂いてきた手で湯呑を持ち、ゆっくりと茶を飲み干した。
「だが」
蓼科の表情が一転、真剣味を帯びた。佐久に似た涼し気な目元が、大勢の命を預かる大病院の院長としての鋭さを帯びる。
「くれぐれも気を付けなさい。小学校の遠足を忘れたわけじゃないだろう?」
「……忘れるわけないよ、パパ」
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