だから私は雨を恐れる

コール・キャット/Call-Cat

だから私は雨を恐れる


‐1‐

 雨が大地を濡らす。

 窓を叩く雨粒の勢いからみて雨はしばらく止みそうにはない。

『ミャーオ』

 不意に私の足元をくすぐる家族の言葉に私は細く、細く息を吐きながら微笑みかけた。

「なに、少し昔のことを思い出していただけだ」

『ミ~』

「昔、とはいつのことだと? そうだな。あれはいつだったかな」

『ナーォ』

 別にはぐらかしたわけではなかったのだが、私の足元に蹲る家族は機嫌を損ねてしまったらしい。どこかむすっとした表情でこちらを見上げてきた家族に私は思わず表情を崩しながらその小さな体を抱きかかえてやった。黒い体に反して白い手足と白い胸元がどこか執事を思わせる、そんな私の小さな家族は催促するように小さく鳴いた。

「あまり面白い話ではないさ。そうだね、あれは――」

 言葉を紡ぎながら外へ視線を向ける。あぁ、あの日も確か、これぐらい激しい雨の日だったろうか。

 今も目を閉じれば思い出す。そう、この思い出は

「――初めて恋、というものに堕ちた時だったかな」




‐2‐

 怪物。

 それが私を示す名であり、私という存在の全てだった。

 行く先々、人は私の姿を認めては悲鳴を上げるのだ。――怪物、と。

 そして嘆かわしいことに、私は私の醜悪さを確かめることが出来ずにいる。

 鏡、と呼ばれる道具を覗けどもそこには何も映らない。写真、というものにも不思議と映らぬ。

 だから私はついぞ怪物と呼ばれる己の姿を見ることが叶わない。

 故の、孤独。

 そう、孤独なのだ。

 物心がついた時には親と呼ばれる存在はいなかった。

 ならば一体私はどうやって生き永らえ、この日この時まで育ったというのか? それすら計り知れぬから怪物なのか。

 母の顔も、声も、名も――温もりも知らない。父もまた然り。

 そんな怪物に歩み寄ろうとする者は当然の如くいるはずもない。

 恐れられるだけならまだしも、終いには命を狙われたこともあった。

「……っ」

 視界が滲む。しかしそれは私を濡らす雨のせいだと己に言い聞かせながら、私は人のいない路地裏で身を休めることにした。

 己が体に顔を埋め、それでも容赦なく体を打つ雨にどれほど耐えていたであろうか。

 気付いた時には私の体を打つ雨は止んでいた。

 晴れた、にしては急すぎやしないだろうか?

 いや、雨音は依然聞こえている。では、何故私の体は雨に打たれないのだろう?

 不思議に思い、顔を上げた私の視界に飛び込んできたのは――


「あ。ごめんなさい。起こしちゃいましたか?」


 ――赤い、赤い空を背に一人の女がこちらを見つめていた。

「なっ?」

「あら?」

 あまりのことに私の口からは言葉らしい言葉が出てこなかった。

 そうしているうちに女はまるで私と目線の高さを合わせようとするかのように身を屈め、こちらの顔をまじまじと見つめてきた。それに合わせて赤い空が動くのをみて、私は今更になってそれが〝傘〟と呼ばれているものであることに気が付いた。

 気付いて、言葉を失う。

 誰かがこうしてこの私に歩み寄ってくることなど、今までなかったから。

「体、びしょ濡れじゃないですか。風邪引いちゃいますよ?」

 そして同様に、誰かに気遣われるなんてこともなかった。

 この私を――怪物と呼ばれるモノに何故そんな言葉を投げかけるのだろうか。

 私が判断に困り女をまじまじと見つめていると、女は一体何を思ったのか、「ごめんなさい!」と頭を下げてきた。その動きに合わせて大きく傾いた傘が私に容赦のない水をひっかけてくるのにはもう驚きすぎて言葉が出ない。

「ひゃああああああ!? ご、ごめんなさい! あたしうっかりしちゃってますよね!? と、とりあえず服とか乾かしましょうというか乾かしてくださいというわけであたしの家に来てくださいお願いします!?」

「あ、あぁ」

 女はそれに気付くとバタバタと忙しなく謝罪の言葉を述べるばかり。一体どれがどれに対する謝罪なのかも分からぬうちに、私は女に手を取られ蹲っていた地面から起こされていた。

「足元とかも滑りやすいですし、注意してください――ねぇええ!?」

 すてーん。

 女はまるで見本のように足を滑らせると派手な物音を立てながら地面へ倒れ込んだ。

 先程とは対照的に女の手を取って私が引き起こすと、女は申し訳なさそうに立ち上がりながらはにかんだ。

「あ、あはは。あたし昔っからおっちょこちょいでして。ごめんなさい、頼りないですよね……」

「む? いや、私にはよく分からんのだが……普通ではないのか?」

「え? そうですか? そんなこと言われたの初めてです」

 こうして誰かと喋るのも初めてな私としては、何を基準に「おっちょこちょい」と定めているのかは分からない。そもそも、「おっちょこちょい」とはなんなのだろうか。

「……」

「どうした?」

「あ、いえ! なんでもないですよ!? あ、あはは……それじゃ行きましょうか!」

「? あぁ」

 転んだ痛みが後を引いていたのか、私の顔をぼんやりとした様子で見つめる女に問いかけると、女はまるで憑き物が落ちたかのように正気に戻ると何かをはぐらかすように笑って先を急ぐのだった。

 そんな不可解な女とどれほどの時間を歩いただろうか。

 ただ思うのは、色々なことを話してくる女に曖昧な返事を返しながら歩く、というのはどうもむず痒いものだということか。

 今まで自分が眺めていた景色が、今私を取り巻いている。決して不快ではないむず痒さはそこへ辿り着く頃には気にならなくなっていた。

「見ての通り、おんぼろですけど雨に濡れるよりは良いですよ?」

「ここは……教会、か?」

「いえいえ! ――いや、まぁ近いのかな? 孤児院、なんですよ。ここ」

 案内されたのは町を見守るかのように小高い丘にひっそりと佇んでいた教会だった。いや、女が言うには孤児院というものか。

 確かに女が口にしたように、建物は決して綺麗とは言えず、ところどころ色褪せたり、欠けていたりするのは見ていて神々しさよりも禍々しさを感じさせられた。

 そんな建物に女は迷いなく踏み込んでいく。それに恐る恐る続きながら室内へ踏み込むと、どこからともなく小さな子供達がわらわらと出迎えてきた。

「シスターおかえり!」

「お腹空いたー!」

「ちゃんといい子にしてたよ!」

「うそばっかり! ずっと遊んでたじゃない」

「あのね、あたしお姉ちゃん達と一緒に洗濯物、入れたの!」

「っ」

「はいはい、お話はちゃんと聞くから、お部屋に行きましょう?」

「「「「「はーいっ!」」」」」

 殺到する子供と言葉の嵐に言葉を失う私とは対照的に女は慣れた様子で子供達をあやすと濡れた傘を傍らの壁へと立てかけていく。

「あーっ!」

 すると群れる子供の一人が今まで少し離れたところで様子を窺っていた私の存在に気付き悲鳴を上げた。

 悲鳴。そう、悲鳴だ。

 自分が最も聞き慣れた、親しんだそれに私は自分でも驚くほどに衝撃を受けていた。

 こちらを一斉に見つめてくる子供達の視線が怖くて仕方ない。

 いや、違う。私が恐れているのはその視線ではない。

 この後に訪れるであろう、恐怖に泣き叫ぶ子供達が――人に恐れられるのが恐ろしいのだ。

「そうそう。今日は皆にお客様がいるのよ? うふふ、驚いた?」

 一人微笑む女は私と子供達を交互に見つめる。そして、子供達からは私が恐れていた悲鳴が――

「かっこいーー!」

「……は?」

 ――上がらなかった。どころか子供達はどこか興奮した様子で「かっこいい」なる言葉を連呼しながら私へと殺到してきた。

 その衝撃を受け止め、倒れそうになる私に女がくすくすと愉快そうに笑いながら歩み寄ってくる。

「よかった。どうやら子供達も懐いてくれてるみたいですね」

「こ、こいつらは私のことが恐ろしくないのか?」

 今まで多くの子供が私を怪物と恐れ、泣き叫んでいたのだ。なのにこの反応はなんなのだろうか。

 混乱する私へさらに歩み寄ると、女は不意に手を伸ばし私の頭へと触れながら

「確かに、真っ白な髪とか不思議な目は珍しいですけど、怖くはないですよ? ね? みんな」

 私の目をまじまじと見つめ、微笑むのだ。

「うんっ、全然こわくなーい!」

「あー、お姉ちゃんだけずるーい! ぼくも髪の毛触る!」

「わたしも」「ぼくもー」「触らせてー」「あたしも触るのー」

 そしてそれを見ていた子供達までが私の髪を触りたいと騒ぐのだ。こんなこと、今までの人生で一度たりともなかったことだ。

「あらあら。あまりお客様を困らせちゃだめよ? ごめんなさい、困らせちゃって」

「い、いや。……私の髪を触りたいのか?」

「「「「「うんっ!」」」」」

「それぐらいなら、まぁ……」

 そう言って身を屈めてやると子供達は我先にと私の髪に触れてくる。中には触るだけでは飽き足らず、ぐいぐいと髪を引っ張ってくる者もいたが、その子が笑顔でいるのを目にしてしまうとどうも痛みは和らいでいった。

「はいはい! それぐらいにしてお部屋に行きましょう! お客様が風邪をひいちゃうわ」

 一体どれほどの間子供達に髪を触らせていただろうか、しばらくの間その様子を微笑ましそうに眺めていた女が手を叩き子供達をまとめあげると部屋の奥へと向かっていった。

 私は女に続いて部屋の奥へ向かおうとする子供達に手を引かれ、あるいは背中を押されるようにして歩を進めていく。少し歩くとだいぶ広い部屋に出た。恐らくはここに住んでいる彼女達が一堂に集う場所だろうことが一目で分かる。

 暖炉は留守中の子供達の安全を考慮してか火は灯されていないようだが、それでも外よりは十二分に暖かい。

 私は自分以外の温もりで体を暖めてくれるそれらに囲まれ、子供達に先導されるように絨毯の敷かれた床に腰かける。

 またも私の髪に興味深そうに触れてくる子供達にされるがままでいると女は暖炉に薪をくべ始めた。

「ふふ、どうぞ自分の家のようにくつろいでくださいね?」

「あ、あぁ。世話になる……えっと、シスター?」

 女に礼を述べようとして、ふと私は女の名をいまだに聞いていないことに思い至った。

 子供達がシスターと呼び慕っていたが、それは役職であって名前ではないだろう。しかし今まで人とこうして言葉を交わすことのなかった私は人との距離感というものが掴めない。それに、そもそも名を問おうにも私には──

「ねーねー、名前なんっていうのー?」

 ──私の思考を遮るように興味深そうな視線を向ける子供達の声が割り込んできた。そんな無垢な子供達の瞳に私は言い淀むことしかできない。

 思わず助けを求めて女に視線を向けると、女の方も目を点にして私の顔を見つめていた。

「ご、ごめんなさい! そそそそそういえばあたし紹介もまだでしたよね!? あぁああぁぁぁぁああああ失礼しましたっ!」

「い、いや、別にそれは構わないんだが」

「お、遅ればせながら自己紹介をさせていただきますね!? あたしはシエルっていいます! あははははは……」

 女――シエルは気まずそうに笑うと「貴方のお名前は?」とばかりに子供達とそう遜色ない純粋無垢な瞳を向けてくる。その綺麗な瞳に私は罪悪感にも似た苦さを感じながら一言。

「名は、ない」

 言って私は耐え切れずにシエルの視線から顔を背ける。彼女達のような人間にとって、名がないというのは考え難いことであろう。

 そして、名がないという事実は私自身が怪物であることの証左であるようで……本当に居た堪れない。

「へぇ! じゃあアタシと一緒だ!」

「あのね、あのね、ボクもずっと前は名前なかったんだよー!」

「なに? それは……どういうことだ?」

 しかしそんな私に投げかけられた言葉は、視線は、共感を秘めたものだった。

 人間の中にも名前のない者がいたという事実に安堵するよりも、えも言われぬ感情が胸をざわつかせた。

「珍しいことではないんですよ? ここにいる子のほとんどは色々な理由で親と居られなくなったり、産まれてすぐに引き取られたりしてるんです」

「そうか……ここは、そんな人間の集まりなのか?」

「まぁ、孤児院ですし、そういうことになりますかね? 一応、新しい家族を探したりしてるんですけど、それも時間はかかっちゃいますし」

 私の問いにシエルはこくりと頷きながらぽつぽつと答える。

 新しい家族、というのがどういうことなのかは今一つ理解が及ばずにはいるが、あまり深追いしてもいけないように感じ私は子供達に改めて視線を回していく。

 皆が皆ではないだろうが、私と同じように名前のない子供達……不思議と、私の中にわだかまっていた彼ら彼女らへの苦手意識は掻き消えていた。

「そうだ! それではあたし達で名前を考えるってのはどうでしょう?」

 ぽんっと、まるで名案とばかりに微笑むシエルに私は返す言葉が見つからない。

 名付け。

 彼女の言葉の意味はそういったことだろう。それは人間にとって大事な意味を持つもので、それは――なんとも魅力的な言葉だった。

 しかし名前と言えど、私のような怪物に似合う名はあるのだろうか。

 そんな風に思っているとどうも乗り気らしいシエルが私の顔をまじまじと見つめたり、髪に触れたりしながら名付けのアイデアを模索し始める。

 それに触発されたらしい子供達までが私の体にぺたぺたと小さな手で触れながらわいわいと楽しげに言葉を交わしていく。

「す、すまんが少し外の空気を吸ってきてもいいだろうか?」

「え? でも外、雨降ってますよ?」

 たまらず外へ逃げようとする私をシエルが窓の外へと視線をやりながら止めにかかる。

 確かに窓の外から窺うことが出来る空はいまだに暗鬱とした雲を広げているが、いままで独り外の世界を彷徨ってきた私にはそれも長くは続かないことが手に取るように分かっていた。あと数分すれば綺麗に晴れる。断言できる。

「へぇー、そうなんですか?」

 それとなくもうじき晴れることを説明してやるとシエルは「ほへー」と何やら感心したように私と窓の外を交互に見やる。

「そういうわけだ、外の空気を吸わせてくれ。その間に名前を決めるといいだろう」

 そう言い伏せながら私は名残惜しそうな子供達をそっと引き剥がして外へ向かおうとする。だがそんな私になおもシエルは食い下がってきた。

「でもまだ降ってるのは事実です! あたしもご一緒します」

「……」

 なんとか断りたいのだが、何を言っても意味がなさそうだ。ここで問答を繰り返しては子供達まで不安にさせかねないし、ここは私が折れるしかないのか?

「好きにしろ」

「っ! はい!」

 パァと花が咲き誇るかのように明るい笑顔を見せられては何も言えない。私はそっとため息を吐きつつシエルを引き連れ外へ出た。

 雨の勢いはだいぶ収まっており、眼下の街並みには斜陽が差し込んでいた。

「わー! 綺麗ですね!」

 差し出された傘から逃れようと距離を置く私に、シエルはまるでウサギのように跳ねながら距離を詰めてくる。その視線は斜陽差し込む街並みに釘付けで危なげない。また転ばれるとたまったもんじゃないので私は大人しく彼女の差し出す傘に収まりながら、なるべく視線を合わせないように答えてやる。

「あと数分もすれば虹が見れるはずだ」

「ええ!? そんなことまで分かるんですか!?」

「ん? 普通だと思うんだが、それほど驚くことか?」

「驚くことですよ! 天気がどうなるか分かるなんてまるで魔法みたいです!」

「魔法、か……」

 ただ風の流れや向きから天候を推し量っているだけなのだが、人間にとってこれは魔法と呼ぶべき代物なのか。

 何気なく放たれた言葉に複雑な想いを抱きながら思考を巡らせていると、私からただならぬ様子を察したのか、シエルはおっかなびっくりといった様子でこちらの顔を覗き込んできた。

「あの、もしかしてお気に障りました?」

「いや。気にしないでくれ」

「そう、ですか?」

 それっきり私達から会話が途切れる。傘を叩く控えめな雨音もなければどれほど気まずいことだったろうか。

 そんな風に私が今日だけでもう何度目かも分からないむず痒さを感じていると不意に体を引っ張られた。

「な、なっ!?」

 あまりのことに思わず動揺が表に出てくる。しかし視線の先ではシエルがこちらと空の彼方を交互に見比べながらわなわなと指を震わせているだけ。

「な、なんだ? 何がしたいんだ、お前は」

 その奇行は怪物と誹られる私ですら恐怖を覚える。自分の声が震えるのも気にせず問いかけるとシエルはパクパクと口を開けたり閉じたりをしばし繰り返した後、上擦った声で言うのだ。

「に、虹!」

「……は?」

 その言葉の意味は考えるまでもない。私はいつの間にか空高くに輝いていた虹へと視線を移す。だが虹には別段おかしな点は見当たらない。綺麗なアーチ型の、誰もが知る虹がそこにあるだけだ。

「それしきで何を驚いているんだ? 私が言ったことだろう」

「――す」

「ん?」

「す、すごいです! なんなんですか一体! すごすぎです!」

「お、おう?」

 バッとまるでネズミに飛びかかる猫のような勢いで顔を近付けてくるシエルにたじろぐ。

 その眼は室内の子供達のようにキラキラと輝いており、思わず反射的に突き飛ばしそうになったのを躊躇わせるほどに無邪気であった。

 だが、このまま顔を近付けられるのはどうしてか落ち着かない。私はそっと女の肩に手をかけるとそっと距離を取らせる。

「とりあえず落ち着け。息が荒いぞ」

「っ! ごめんなさい! つい興奮しちゃって!」

「……あまり女が興奮などと言うな」

「えっと、じゃあ感じちゃいまして?」

「……やはり普通に話せ」

「? はい」

 何故より酷いボキャブラリーを発揮するのだろうか、この女は……

 理解が出来そうで出来ない人間の女に翻弄されているのを実感しながら、私は逃げるように虹を見上げる。

「虹、綺麗ですねー」

「そうだな」

 私に続いて虹を見上げ呟くシエルに投げやりな言葉を返した私だったが、視界の隅でぶつぶつと何事かを呟いているらしいシエルが気になってしょうがない。

 何か良からぬことを企んでいるのではなかろうか。そう思って様子を窺っていると、それに気付いたらしいシエルが「なんでしょうか?」といった風情で笑顔を返してきた。

「さっきから何をぶつくさと呟いているんだ?」

「え? いやー、ちょっと考え事を」

「……やましいことではないだろうな?」

「なっ! なっ!? 何言ってるんですかそんなことないですよ! それじゃまるであたしが淫らな人間みたいじゃないですか!」

「いや、そういう意味のやましいではなかったんだが……」

「っ!」

 心外だとばかりにこちらの体を揺らしてくるシエルにそう告げると彼女は顔を真っ赤にするとその表情を見せまいと俯いてしまった。

 さすがにこの反応にはどう言葉をかけるべきか分からずにいると不意にシエルはその俯いたままの姿勢で思いがけないことを言ってきた。

「アルカ」

「は?」

「あ、貴方の名前です! さっきからずっと考えてたんですよ!」

「名前をか?」

「え、えぇ。名前がないって言ってましたし、それだと不便だなーって……決してやましいことを考えてたわけじゃないんですよ?」

 そう言って頬を膨らませるシエルに私は――不覚にも言葉を失ってしまった。

 それがなんと呼ばれる感情だったのか、この時の私はまだ知る由もなかったが、それはどこか心地よく、暖かなものだった。

「あ、ごめんなさい。もしかしてお気に召しませんでしたか?」

「いや、別にそういうわ」

「虹みたいに綺麗な目をしてるから、アルカンシエルから取ったんですけど、安直すぎますよね。あ、実はあたしの名前も入ってるのもいいな、とかちょっとだけ思ったのは秘密です」

 こちらの言葉に被せるようにその由来を語るシエル。そのあまりにも真剣な眼差しに思わず笑みがこぼれる気配を感じながら私は先ほどの彼女の言葉への疑問を呈する。

「それを言っては秘密にならないんじゃないのか?」

「あ、あははははー。そうですよね。えっと、それで……どうでしょうか?」

「どう、か……」

 アルカ。

 あの虹を――アルカンシエル――から取って、アルカ。

 それはとても素敵だと思うし、それに――

「?」

 それに、こうして屈託のない笑みを浮かべて私を受け入れてくれる虹のように眩い彼女から貰った名前に文句があるわけがない。

「良い名前……だと、思う」

「っ! ほんとですか!? よかった!」

 私の言葉を聞くや、まるで犬のようにはしゃぎまわるシエルを見て、これで良かったんだと安堵する。そんな私の手を取りながらシエルは中にいる子供達にも虹を見せるためだろう、孤児院へと戻っていく。

 そして私がその中へ踏み込む、丁度その時だった。

「これからもよろしくお願いしますね、アルカさん」

 それがどういうことを意味しているのかを、私はあえて聞くことをしなかった。

 それはもし私が期待してしまった言葉と異なるものだったら、という恐怖からかもしれぬし、聞く必要がないと思えるほど、私が彼女のことをいつの間にやら信頼していたからかもしれない。

 そう思わせてくれる彼女の笑顔に、この手に触れる温もりに今だけは甘えてもいいのだろう。そんな風に思いながら私は言うのだ。

「こちらこそよろしく、シエル」

 これが、私が初めて家族というものの温もりを知り、孤独というものの冷たさを知ることとなる出逢いであった。




‐3‐

「――なんだかこうして改めて口にしてみると、随分と恥ずかしいものだな」

『ミャー』

「私にしてはロマンチックな話しすぎないか、だと? まぁ、反論は出来ないな」

 くすくすと笑いながら家族の頭を撫でる私に当人は心地よさそうに喉を鳴らしながら短く鳴く。

『ミー』

「作り話ってオチはないよな? はは、まさか。嘘偽りない私の想い出だよ。言ったろう? 私が初めて恋に堕ちた話だと。それを何故詐称せねばならん」

『ナーゥ』

「だからこそ、だと? いやはや、今日の君は随分と手厳しいね。もしかして嫉妬かい?」

 私が冗談交じりにそう問いかけると、愛しい黒猫はまるでそっぽを向くかのように私の膝の上から飛び降りてしまった。

 そして一言、『ニャー』と鳴きながら部屋を出ていった。それを見送りながら、私は家族から投げかけられた言葉を反芻する。

「〝男のくせに涙を流すから気にいらんだけ〟か」

 くつくつと笑いながら自分の目元を拭う。そこにはほんの少しの回想の内に零れていたらしい涙の潤いがあった。

 あぁ、そう。涙だ。

 この涙の意味を今の私なら「寂寥」と呼ぶことを知っている。

 それは愛する彼女と、愛しい孤児院に住む子供達。

 それは絶えずそこにあった笑顔と温もり。

 それらから遠く、遠く離れてしまった私の心をいつだって震わせるのだから。

 私は一人、雨の降り止まぬ空を見つめながら、誰に聞かせるでもなく呟いた。

 あぁ……だから。だから私は――雨を恐れる。と。




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