全て甘い
大雨が続く、寒い夜だった。
当時20代半ばだったラマリスは孤児院の見回りをしていた。本来は他の配置だったが体調不良が出たとのことで穴埋めに呼ばれたのだ。
子供がそこまで好きではないラマリスにとって、泣きやまない子供や小生意気な子供のいる孤児院の仕事は試練であった。
グズる子供をあやし、布団をかけ直し、異常がないことを確認しながらようやく宿直室に戻る。他に見回っていた修道女たちも先に戻っており休憩していた。
――ちなみに、ラマリスはこのときにいた修道女の顔、人数、名前をなにも覚えていない。
「ずいぶん遅かったわね」
「慣れていませんので」
他はしっかり茶と菓子が用意されているのに自分の分は用意されてないことに気づくが、面倒なので何もせず椅子に座る。
「ドゥーにとっては生まれ故郷でしょ?」
「やだ、言っちゃ悪いわよお」
言ってろやボケナス。頭かち割るぞ。
口の中でつぶやき、記録を書いていく。記憶力はいいほうなので特に苦も無く書き終えた。
どうでもいい雑談を聞き流しながら自室に置いてきてしまった読みかけの本の中身を思い出しているときだった。
びり、と強い魔力を感じた。
息の詰まるような感覚。知らず、冷や汗が流れた。
彼女の"先生"が国を飛び出す前に、引き留めようとしたラマリスたちへ叩きつけたような濃い魔力。宮廷でふんぞり返る魔法使いだってあそこまでの濃度はないだろう。
かちゃんとカップが落ち、中身がこぼれる。魔力の少ないものはなぜ自分の身体が強張ったのかも理解できない。ただ胸の奥底に恐れは湧いているだろう。自覚ができていなくても。
「ねえ、外からなんか聞こえない?」
「え?」
確かに雨音以外に何かが聞こえる。
しんとした部屋の中に、赤ん坊の泣き声がかすかに響いた。
場所は……孤児院の扉の近くだ。
「私、見てきます。誰か一緒に来てください」
だが同僚たちは動こうとしない。
彼女らが気にするのは神の目ではなく世間体だ。応援に来ただけの――さらに言えば、ドゥーの言う事に従う理由はないということなのだろう。
クソアホども。毛穴開いてんぞラードで埋めたろか。
ラマリスは苛立つきながら息を吐いた。
「では、雨の中飛び出して翌日獣にでも引き裂かれた私の遺体を回収してくださいね。ああ、ハンデル・ドゥーにも死んだと伝えておいてください」
そう言って部屋を出れば、一番気の弱い修道女が慌ててついてきた。
今の言葉ですら箱入り娘には恐ろしく思えるらしい。生きづらそうだとラマリスは思う。
孤児院の扉を開ける。嵐のごとく雨風がなだれ込み、同時に赤ん坊の声も大きくなる。近くだ。
「〈我等を導くための光をお願いします闇を探るにはあなた様の御力が必要であり手元を照らす明かりが必要なのです〉」
「な、なにその変な詠唱……」
信じられないというように修道女は引いた顔を作る。
これでもずいぶん砕けた言い方らしい。でも「それ」は聞いてくれるので気にしていない。
ふわりと目の前が灯る。
機嫌が良いのか光は普段よりも明るい。ここまで強い魔力が漂っていると「それ」も嬉しくなるらしい。人間のほうは吐き気が止まらないが。
声を辿る。ぬかるんだ土の中でうごめくものを見つけ、迷わず走り寄り、抱き上げる。
泥だらけの赤ん坊だ。今しがた母の胎を潜ってきたかのように柔らかくて頼りない身体と泣き声であった。
あたりを見回すが人影は見えない。そっと魔法で周囲を探索をするが、誰一人引っかからなかった。
今しがた置かれたようなのに、そんなわけがない。あまりにも不気味だ。
とにかく、ラマリスたちは慌てて孤児院の中へ戻った。
赤ん坊の状態はかなりひどい。
しかも魔力をとめどなく垂れながしているので内から外から赤ん坊の生命力が削られていく。
「緊急事態なので治癒魔法を使います。体温の維持が必要なのでお湯を沸かしてください。あとは清潔なタオルも……」
反応がないのを怪しみ、修道女たちの顔を見る。苦い顔と引きつった顔が並んでいた。
「……放っておきましょうよ」
「……は?」
「だって、その子……親いないし、布にすら包まれていなくて、そのまま泥に落とされていたんでしょう?」
「そうよね、このまま生かすのは……かわいそうじゃない?」
「ねえ……」
――祝福を受けてないなら、生かす意味がないんじゃない?
貴族として生きてきた娘たちは世間知らずで、それ故に残酷かつシビアな思考をしていた。
親も金も地位もない肉塊に、価値はないのだと。
「お医者様に見せても同じことを言われるわよ、きっと」
「あ、でもお医者様なら聖職者ではないからしてくださるかも」
「ならお任せしたほうが……」
「苦しむのを長引かせるよりは……」
怒りで目の前がチカチカする。
なんだそれは。全員鎖骨が割れて座って眠るしかできなくなればいい。
ラマリスは先生の言葉を必死で思い出す。こういうとき、どうすれば抑えられたか……。
『そりゃアンタ、人が死ななきゃ何やっても良いんだよ!』
マジで役に立つ人生論残さねえなあのクソババア……!!
無茶苦茶な記憶の中のアドバイスにより怒りを抑えきれなくなった、その時だった。
コン、とノックの音。
続けざまに「もし」と声がした。
夜中に来客など来るはずがない。
驚きにより魔力が霧散する。修道女たちは部屋の隅で身を寄せ合い震えていた。
「……誰ですか?」
「私はメイド長のルナミ・トゥラス。シュリッテ王妃とお忍びで来ました」
ラマリスはめまいがした。
王妃がそんな軽く来てたまるか。
もしも偽物ならば殴ろうと思いながら「どうぞ」と返事をする。
キィ、と扉が開き、メイド長と――
「シュ……」
親友の名を口にしようとして、やめた。
シュリッテ。聖女であり、王妃。
もう彼女は自分の知る人間ではない。聖女の儀式をしてからずいぶんと冷たくなり、もはやラマリスやハンデルの言葉など聞きやしない。
王妃はメイド長に「お入りくださいませ」と言われて初めて室内に足を踏み入れる。
ラマリスの前に立ち、静かな眼差しで赤ん坊を見下ろす。逆にメイド長は目を丸くして質問をしてきた。
「まあ、その子は?」
「つい今しがた、そこで拾いました。名すら与えられず置き去りにされていました」
「そんな……。生まれ落ちてすぐに、あまりに酷な試練ですね」
どうやら本気で赤ん坊を案じるメイド長と、ただ黙ってなにも言わないシュリッテ。
なんのために来たのか。わざわざ捨てられた赤ん坊でも見に来たのか。せめて一言ぐらい言えばいいものを。
相手の身分が上でなければ、いや、少しばかり上ぐらいであれば口にしていた文句を噛み潰す。
ふたりだけで来たわけではないだろう。警護の兵が近くにいるはずだ。それらに聞かれたら不敬罪として連れて行かれる。
修道女のひとりが好奇心が混ざった表情で恐る恐る聞く。
「あのう、王妃様はなぜ、こちらにいらしたのですか……?」
「シュリッテ様は、さきほどこちらの方角を見ていたのですよ。その後様子を見て、殿下が許可をお出しになりました。普段なら有り得ないですから」
なにを言っているのか、分からない。
孤児院の方角を見ていたから何なのか。まるで普段はどこも見ていないというようではないか。
シュリッテは片手を伸ばして赤ん坊の額に手を置いた。ふわ、と魔法陣が浮かび赤ん坊の体力を奪わない複雑な治癒魔法が巡る。
よほど魔力がなければできない代物だ。聖女になったからこそできる芸当だろう。
気づくとラマリスの腕の中の赤ん坊は血色が良くなり、危うかった呼吸もしっかり出来ている。健康に生まれてきたものと変わりない。
聖女の治癒をこんな簡単に良いのか、とメイド長を見るが、彼女はただ微笑んだだけだ。スタンスとしては見て見ぬふり、だろう。
「シュリッテ、どうして」
ラマリスがささやくもシュリッテは答えない。
どうして話をしてくれないのと泣きそうになった。数少ない理解者が、こんなに近くにいても視線のひとつ寄越さない。
シュリッテの唇がかすかに動く。見えないなにかに抵抗するように何度か口を閉じ、そして短く告げた。
修道女たちはなんと恐れ多いのかとざわめき。
メイド長がひどく驚いていた。
ラマリスがその特異性を知ったのは聖女の真実を知ったときだ。
あの名付けは、本来ならばあり得なかったから。
……わずかにでも自我が残っていなければ。
□
「先生からの宿題で古代言語の単語調べてたらさ、かわいい単語見つけたのよ」
「シュリッテ、それ今日の午後までに出さないとまた先生に叱られるんじゃない……?」
「あのおばあさまなんて怖くないですよ〜。ほら、これこれ」
「えっと……? あはは、こんな意味があるんだ」
「ね?」
□
「
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