浮かぶ手首
どんよりと曇った休日の朝。誰のかも判らない手首だけが揃って、窓ガラスのそばににゅっと出ていた。
ちょうどいいや、とあたしは片方の手をつかんで物干し竿を握らせ、もう一方にも持たせた。煙草を吸いつつ洗濯物をハンガーにかけ、ぴんと伸ばして干す。
手首はしばらくそのまま掴んでいたが、急に我に返ったように竿を投げ捨てて消えた。ちっ。
大きさからいって、たぶん女性の手。あたしは吸っていた煙草を灰皿に押し付け、前の住人が残したらしい壁の釘にビニールひもで物干し竿を固定した。
次にそれが出たのは翌日のお風呂に入っている時だった。深夜、盛大に泡を立てて髪を洗っていて、顔を上げたら鏡の中からにゅうっと両手が出ていた。あたしは冷静にシャワーのお湯を手首にかけ続けた。邪魔。
あたしは子供の時から霊感があって、ヘンな幽霊をいっぱい見てきているのだ。いまさら手首の一本や二本。あたしが全然驚かないので手首は調子が狂ったようだ。しかし、すらりとした綺麗な指。
「ねえ、ネイルやってみない?」
つい、言ってしまった。手首はさっと消えた。
興味はあったらしい。パンツ一丁で髪を乾かしていると、なんかモジモジしながら手首は現れた。
あたしはキャバ嬢だけど、ネイリスト技能検定1級を持っている。ちゃぶ台に自慢の道具を並べた。やっぱり綺麗な手だ。白すぎて色を合わせるのに少し苦労したが、可愛く仕上がったと思う。
「いいじゃん。かわいーよ」
それは少し照れたように手首をさすり合わせていた。
バタンと玄関のドアが開いた。あれ、鍵、掛けなかったっけ? 振り返ると、男が立っていた。
元々は店のお客さんだったけど、ストーカーになった奴。警官に散々注意されたはずなのに、効いていない。住所をどこで調べたのか。まずいことに包丁を持っている。
「えるちゃん。消えるなんてひどいよ。僕にさんざん甘いこと言ってさ」
「いや、営業だし。あんたが暴れたせいで店変わることになったんだけど?」
「えるちゃん殺して、僕も死ぬ。来世で一緒になろうね」
そんなことは絶対にありえないが、頭に血が上っている奴にはそれがわからない。
奴が包丁を振り上げる──と、いきなり足を取られて転んだ。
あの手首がズボンを引っ張ったのだ。
「え?」
宙に浮かんだ拳が男に強烈な一撃を放った。
「サンキュ」
あたしは警察に通報しつつ、素直に感謝した。手首はネイルが鮮やかな親指を立てて、消えた。
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