中二病の正体
森本 晃次
第1話 言葉のカオス
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年十月時点のものです。それ以降は未来のお話です。
言葉というののは、普通に使っていても、その意味を改めて聞かれると、説明のできないものは結構あるのかも知れない。
カオスという言葉もそうである、
意味としては、
「混沌とした」
という意味らしいのだが、そもそも、
「混沌としたという言葉をどのように説明すればいいのか?」
と言われる困ってしまう。
今はネットがあるので、ネットで調べることもできるが、辞書と一緒で、結局、一般的なことしか書いていない。
「使用例」
などが載っている場合もあるが、その例すらピンとこないのであれば、ネットで調べても、答えが見つかるということはないだろう、
例えば、本章のタイトルである、
「言葉のカオス」
と言われても何のことなのか分からない。
使用している作者も、あくまでも、曖昧なイメージで書いているだけで、
「混沌と」
という言葉を、
「無秩序」
であったり、
「収拾がつかない」
という意識から、この言葉をカオスと呼ぶのは、ある意味、言葉に違和感が生まれるような気がするのだった。
そういう意味では、カオスという意味を本当に分かって皆が使っているのかというのも祇園に感じられる。
カオスという言葉のように、
「言葉は聞いたことはあるが、どのように使えばいいのか、あるいは、意味が複数ありすぎて、どう使っていいのか:
というのもあったりする。
そういう言葉は、言葉の意味という観点で見ると、実に分かりにくかったりする。それを思うと、その言葉に似合うものとして、
「中二病」
という言葉がある。
これは、広義の意味で、ネガティブな発想としての、
「中学二年生くらいの子供にありそうな発想」
という意味で、いろいろな発想が含まれた言葉であった。
「総称」
と言ってもいいのではないだろうか。
そういう意味では、カオスもそうであるが、中二病なる言葉は曖昧な言葉だといってもいいだろう。
中学二年生というと、肉体的には、思春期の真っただ中と言ってもいいだろう。
思春期は人によって個人差もあり、特に、
「男子よりも、女子の方が早く訪れる」
と言われるが、まさにその通りだ。
肉体的には女子の方が早く訪れるが、精神的にはどうであろう?
そんなことを考えていると、またしても、
「言葉のカオス」
に入り込んでしまうような気がするのだった。
ほとんどの中学二年生をお経験している人が、自分の中二という時代を意識しているだろうか?
「思春期」
というものを壱岐氏はしているだろうが、中学二年生というと、
「その思春期の中の通過点でしかない」
という意識しかないのではないだろうか。
すると、
「中二病」
という言葉も、なぜ、
「思春期病」
と言わないのかということを考えてしまうだろう。
ただ、派生語として、
「高二病」
あるいは、
「大二病」
という言葉もあるらしいので、中二という言葉があるのも、無理もないことのかと思うが、そもそも、中二病という言葉の発症は、ラジオ番組で、パーソナリティが言い出したことが最初であり、歴史としては、まだ三十年も経っていないというのが本当のところのようだ。
しかも、ネットが普及してくると、そこから、「2ちゃんねる」などというものから、再度この言葉が注目を浴びるようになったようである。
元々、最初にこの音場を提唱した本人である、当時のパーソナリティも、
「自分が作った言葉と意味が変わってきたので、中二病という言葉に興味がない」
と言っているほどだという。
意味が変わってきたのか、変わってきた意味の方が強くなってきたのか、さすがに元々の意味を無視することは難しいであろう。
中二病というものは、
「思春期における、中二」
という意味で、
思春期全体を表すには、幅が広すぎるという意味もあるのかも知れない。
つまりは、思春期の中でも、ネガティブな部分を総称して、
「一部分だけを切り取った形」
のいくつかと捕まえて、中二病という言葉で表すことで、曖昧なイメージを少しでも、総称しようとしているのではないだろうか。
それを思うと、中二病の、「中二」というのは、あくまでも、中二に限ったことではなく、
「中二の子供が考えそうな発想」
という意味での拡大解釈が行われるのだろう。
だから、大人になっても、年をとっても、中二病と称させるような考えを持っている人は、
「いくつになっても、中二病を引きづっている」
と言ってもいいだろう。
基本的に子供が罹るとされる、はしかや水疱瘡なども、大人になって罹る人だっている。それと同じで、大人になっても中二病を引きづる人もいれば、大人になってから、中二病に罹る人もいる。
中二病という言葉も、あくまで、中二の少年少女が罹りそうな発想を、まるで病気であるかのように表現したものが、中二病というだけで、
「中二の人が罹るもの」
というわけではない。
さらに、中二病には、いくつもの症状があり、それが、関連しているものもあれば、まったく単独で生まれる症状もある。それだけ、中二病というものは感覚的なものとして曖昧であり、どう解釈すればいいのか、考えさせられるものである。
そういう意味で、中二病という言葉は、
「言葉のカオスだ」
と言ってもいいのではないだろうか?
中二病にはいろいろな発想があり、基本的には。
「背伸びしがちな言動」を自虐する語。転じて、思春期にありがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などを揶揄したネットスラング(ネット用語」
という意味である。
そのため、曖昧に考えることが多く、それだけ、いろいろなパターンが存在しているともいえるだろう。
DQN系として、
「不良に憧れており、自分がワルだったことを自慢したいタイプの人というパターン」
であったり、サブカル系として、
「とにかくメジャーなものを嫌う特徴」
ということで、メジャーなモノを好む人をバッシングし、メジャーなモノを批判して受け入れないことが特徴的なパターンと考え、マイナーなものに対しては、異常なまでにリスペクトするのも特徴だったりする。
また、邪気眼系として、
「自分には特殊な力が存在していると信じ込んでいる行動が特徴」
だったりする、メンヘラ系は、
「病んでる私カワイイ」
「可哀そうな私がカワイイ」
と思っている特徴があるようだ。
これは、系統から分けたものであるが、そこから出てくる行動パターンというのも、ある程度決まってきて、そのことがいかに、
「中二という年齢に当て嵌まるかということを考えれば、おのずと見えてくるものがある」
と考えられたりもするのであろう。
それが、表に見える思春期における特徴であり、例えば、
「急に母親に反抗心を抱く」
ということや、
「親が自分の部屋に入ることはこの世の終わり」
のような気がしてきたり、
「孤独であることが美学だ」
と感じてみたりというのは、中二病における症例の一つの例なのであろう。
それら、一つ一つだけでも、十分に中二病としての効果があるのかも知れないが、実際に中二病と言われるのは、もっと曖昧な感覚なのではないだろうか。
それこそ、
「言葉のカオス」
と言ってもいいような発想が生まれるだけの土台が存在しているのかも知れない。
そこには、思考パターンと行動パターンが存在し、
「思考パターンから行動パターンが生まれるのか、行動パターンが存在して、そこから、思考パターンを組み立てようとするのかではないだろうか?」
後者について考えると、表に出てくる行動パターンを何とか正当化させようとして、いや、自分を納得させようとして、行動パターンを自分の想像の枠に押し込もうとするのだろう。
だが、そんなことをして、無理をしているのではないかと思うことがあり、実際に、行動パターンが本当に思考パターンと結びついているのか、よく分からない。
他のことであれば、結びついてくるのであろうが、このような病的なことを強引に結び付けようとすると、その発想がどこまで正当化させることができ、納得できるのか、難しい問題ではないだろうか。
一定の時期に、本当の病気ではなく、精神的に自分を納得させられないこととして起こるものに、
「五月病」
というものがある。
これも、時期的には、五月が一般的だと言われているだけで、本当に五月にしか出ないものでもない。
ただ、これは、五月病という名前の病気というわけではなく、精神において、
「適応障害」
あるいは、
「うつ病」
として、診断されるものである。
新入社員や大学の新入生などに見られるもので、
「新しい環境に適応できない」
という、こちらも、言葉にすれば、抽象的な表現になってしまうものである。
やはり、精神的なものであり、環境が新しくなったことで適応できなかったり、まわりから、自分がまだまだ甘いと思われていることを自虐的に考えてしまったりすることで起こるものなのではないだろうか。
ただ、実際には違うものだ。中二病が、
「新しい環境に適応できない」
というものではない。
むしろ、成長していく過程において、急激な肉体的な変化に適応しようとして、無理をしているという方が正しいような気がする、
もっとも、まわりの同世代の人間の成長に適応できていないとも言えなくもないが、それは中二病の原因ではない。
中二病というのは、あくまでも、成長していく自分に追いついていけない自分に対して感じるものであり、適応という意味では相手が違っているといってもいいのではないだろうか。
ただ、まったく違うものだとも言い難く、中二病も、ある意味、五月病と同じく、孤独感が支配している精神状態が、自分でも分からない間に、いつのまにか、追い詰められている状態になるのかも知れない。
五月病の場合は、追い詰められているという意識はあるが、
「何から追い詰められている?」
という意識と、
「何に対して、臆病になっているのか?」
という意識がありながら、その答えが見つからないことで、うつ病のような病気だと思われるのではないだろうか。
だから、五月病に自分が罹っているという意識があり、その意識から逃れられない自分が辛いのだろう。
中二病の場合は、果たして、
「自分が辛い」
という感覚になっているのだるか?
肉体的な変化への対応、そして、大人になることに対しての怖さや不安のようなものを、自分の中で正当化させようと考える、一種の自虐的なものが、中二病というものを生んでいるのだとすると、
「自分が中二病に罹っている」
という意識を持っていない人が多いのではないだろうか。
自虐的であっても、それが自分を正当化し、納得させるための気持ちの表れであるのであれば、それを病いだと、普通は考えないだろう。
だから、中二病というのは、ある意味概念であって、病気ではない。その人にとっての、
「一過性の性格ではないか」
と言えるのではないだろうか。
ただ、一過性のものであれば、
「中学二年生の頃に陥りやすい感覚」
ということで、病いなどという言葉を使わず、
「症候群」
という言葉を使った方がいいだろう。
それを敢えて、病いというのであれば、それは一過性のものではなく。中学二年生の頃から発症するというのは、
「中二症候群」
と同じだが、
「大人になっても、半永久的に保ち続けているものが、中二病なのだ」
と言えるのではないだろうか。
そういう意味でも、五月病とは明らかに違う。五月病は本当に一過性のもので、それが一過性ではなく、そのまま孤独感や、憔悴感が、消えずに、さらに深まっていくのだとすると、その時は別の精神的な病いを発症しているといえるのではないだろうか。
それを思うと、似たような言葉であっても、実際にはまったく違ったものを意味しているものも、実際には多いのかも知れない。
特にこの二つのように、
「病い」
という言葉がついているにも関わらず、実際には、病気などではなく、
「傍から見ていて、病気のように見えるが、その病気というのは、本当の病気ではなく、少し悪意に満ちた揶揄したかのような表現として、世の中の矛盾などをも考慮して表現した造語だ」
と言えるのではないだろうか。
それを考えると、他にも似たようなものは多いことだろう。特にネットが普及してきてからというもの。誹謗中傷があからさまに行われ、社会問題になっている。
昔から存在していたものが、平成のある時期から、急に凶悪化してしまった「いじめ」という問題に似ているのかも知れない。
言葉というものは、実に面白く、怖いものだ。
「言葉のカオス」
と一言で表現はしているが、書いている本人も、その言葉の意味をハッキリと分かって書いているわけではない。
むしろ、曖昧であり、どのように最後をくくればいいのかなど、今の時点でまったく想像もしていない。
「どんなことを書こうか?」
という程度の材料としてのものは用意はしているが、落としどころなどというのは、正直でき上っているわけではない。
小説というものを書く時には、
「プロット」
というものを書くというのが、普通である。
一種に、
「設計図」
のようなものだが、正確には設計図というものとは少し違っているのではないかと思った。
「小説の書き方」
なるハウツー本には、必ず、
「プロットを作る」
ということは書かれているが、その書き方については、基本的なことは書いてあるが、実際の作り方などは記していない。
なぜなら、
「プロットはこうあるべきだ」
という正解は存在しないからだ。
プロットというとして、なず、
「小説のジャンルであったり、登場人物のプロフィール、書き手の人称、つまり、書き手が本人として登場するのか、あるいは、第三者として描いているのか」
ということである。
書き手の人称というのは、ある意味、結構大切なものであり、そこがブレてしまうと、書きたいことを表現できなくなり、話が支離滅裂になってしまい、内容以前の問題になることがあるからだ。
「書いている本人がカオスに陥ってしまっては、読む人間に理解できるわけもない」
というわけである。
そして、プロットとしては、そのあたりまでは、共通して小説の作成に必要なプロットだといえよう。
そこから先は、本当の物語であり、例えば、まずは、物語の展開について考えることである。
それも、人それぞれで、
「起承転結」
という大きなくくりを考えたところから本文を書き始める人もいれば、
「各章は、各場面に至るまでの場面設定を考えてから書き始める人である」
ただ、場面設定まで考えてしまうと、それはシナリオまでできているということであり、骨格に肉付けまでできているわけであり、そうなると、設計図というよりも、ほぼ完成型ができあがっているため、今度は、
「言葉合わせ」
にすぎなくなってしまう。
そうなってしまうと、プロットを書き上げた時点で、ある程度満足してしまい、小説をいざ書こうとした時、自分の向かう先を見失ってしまうということにもなりかねない。
「そんなことになると、果たしてそこから小説を、一から書くことができるであろうか?」
作者はそう思うのであった。
そんなことを考えていると。
「だったら、シナリオライターになればいいじゃないか?」
と考える人もいるだろう。
「シナリオも、小説も、同じ文章という武器を使った創作の一種である」
という意味で、興味を持つには、同じくらいの感情ではないかと思えたのだ。
だが、実際に、小説執筆と、シナリオ作成では、想像以上の違いがあるようで、それは、そもそもの、存在目的から違ってきているので、創作過程において、違うのも、当たり前というものだ。
ただ、それは実際に書いている時には分からない。プロになって、受注を受けた時に分かるものである。
小説というものは、プロになれば、まず最初にプロットの前である企画のようなものを考える。
「どんなジャンルのようなもので、時代背景がどのようなもので、言いたいことは何なのか?」
というところを示し、出版会議に図る。
そして、それが出版社の方で、OKが出れば、そこから先は、初めて執筆が許されることになり、初めて、プロットの作成に入ることになるのだ。
プロットを出版社に示す必要はない。製作が認められれば、出版社としては、
「いつまでに何枚で、合計がどれだけの枚数に仕上げてもらう」
ということを決めておいて、あとは、小説家の先生に任せて、締め切りに遅れないように、作家を見張るというのが一般的なプロ作家の出版の流れであろう。
しかし、プロのシナリオライターはまったく違う。
テレビドラマなどであれば、プロデューサーや監督から、ガチで見張られる形になってしまう。
小説家のように、企画を自分で考えるわけではなく、企画を考え、どのシナリオライターにお願いするかということは、放送局の方が決める。あくまでも、
「この企画に沿ったシナリオを書いてくれ」
という依頼を受けての、シナリオ作成になるのだ。
シナリオの場合は、小説とはまったく違っている。細かいことを、監督だったりプロデューの方が示して、その通りにしなければならない。しかも、テレビドラマなどは、スポンサーありきなので、スポンサーの不利になるような内容は、当然ダメである。
例えば、食品メーカーが主要スポンサーなのに、食中毒の話などを書いてしまうことは当然スポンサーからは、クレームとなり、下手をすれば、
「脚本家を変えてくれ」
などと言われかねないだろう。
しかも、シナリオの場合はある意味、
「生き物」
なので、全部で二十話あったとして、途中で担当脚本家が変わったり、他の人との共同での制作にさせられたりと、完全に主導権は、放送局側にあるのだ。
そして、シナリオで一つ大切なことがある。
シナリオというものは、
「あくまでも主観を入れることなく、客観的に描く」
ということを言われている。
なぜならば、
「ドラマの制作は、それぞれの役割に沿って、役割の人が自分の仕事を真摯に受け止め、作り上げる」
というものである。
つまり、俳優が感情を込めて演技をするためには、あまり脚本家の主観が入ってしまうと、うまくいかないということが言われたりするのだ。
このあたりをしっかりと把握していなければ、放送局側から使ってもらうことはなく、脚本家として活躍できなくなるだろう。
小説家は小説家で、
「自分の力量がそのまま、作品への評価となる」
という意味で、その作品の評価に対しての責任は作家にかかっているといってもいいだろうが、シナリオの場合はそうではない。
どっちがいい悪いというわけではないが、似たような職業に見えても、ここまで違うということを分かっている人がどれだけいるだろう。
それは、作家とシナリオライターに限らず、いろいろな業種に存在していることになるだろう。
それを思うと、小説家とシナリオライターにおける、
「言葉のカオス」
のようなものが、他にもいろいろあると思うと、カオスと呼ばれるものが、曖昧であるだけに、興味をそそられるといってもいい。
まずが、
「言葉のカオス」
というものがどういうものなのか、章を追うごとに考えていきたいと思う作者であった。
「言葉の中には、正反対というべき、相対的なものが含まれているという考えが生まれるのだ」
という観点から考えてみようと思う。
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