最終話 巡り、巡る
それから。
それからは本当にあっという間だった。
俺の知らぬ間にトントン拍子に進んでいた話は、既に出発も目前というところまで来て──
■
「……案外、平気なもんなのかね」
志乃の旅立ちを来週に控えた最後の休日。あいつはそれを打ち明けてから今の今までまで、至っていつも通りだった。
俺達と普通に遊ぶし、普通に学校へ行く。寧ろ俺達が拍子抜けしてしまうくらいにいつも通り。
…まるで俺達との別れを何とも思わないくらいに。
手に持った携帯を、何を思うでもなくじっと見つめる。
少し会えないか。そう記したメールは、けれども未だに返信はこない。
窓から外を眺めれば、空は既に色を無くし始めていた。
「俺だけが焦ってんのかな…」
ベッドに身体を投げ出して深く、深く息を吐き出した。
…やはりもう一度だけでも、面と向かって話したい。彼女の家に向かおうと部屋を出て、携帯が着信を鳴らしたのはその直後だった。
■
「……………」
「お嬢さん、もう夜も遅いですよ」
「…ふふ。見つかっちゃった」
おばさんから志乃がいなくなったとの連絡を受けて、俺は真っ先にここへとやってきた。
少し前、志乃がぶらぶらとブランコを漕いでいた公園。やはりというか彼女はそこにいた。あの時と同じくフラフラと身体を揺らして、俺を見るなりあの時と同じくふにゃりと笑う。
「おばさんが大騒ぎしてたぞ」
「うん、ごめんね。でも賢くんなら来てくれるって思ってた」
「何だそりゃ……」
がくりと肩の力が抜ける。呼んでくれりゃいつだって駆けつけるっちゅーに。全力疾走してた俺が馬鹿みたいやないけ。
アホらしくなって勢いよくブランコに腰掛けた。ガシャリと鎖が撓む気持ちよくない音を盛大に鳴らした後は、俺も志乃も、ただただ無言だった。
いつもなら、静寂は慣れたものだったのに。けれど今は、俺の胸はざわざわと落ちつかない。落ち着くわけもない。
「ねぇ」
「…ん?」
前を向いたまま、志乃が静かに語りかけてきて、応えるように俺は志乃を見る。その横顔は、思わずぞっとするほど穏やかだった。
……そうだよな。いつも通り…な訳ないよな。心配よりも、どこか安心してしまっている自分に呆れてものも言えなくなり、姑息にも神妙を装って彼女の次の台詞をまち続ける。
「お婆さんの最期の顔、覚えてる?」
「………」
「安らかだったよね」
「…そうだな」
あの頑固屁理屈マグナムデコピンババアとは思えないくらいに。
そしてかつてのそれが信じられないくらいに細く、白く、そしてその顔は
「満足そうだったよね」
「どいつもこいつも傍でざわざわ騒いでるもんだから、うるさいんだよクソガキ共ってキレて起き上がりそうだったけどな」
「あれを見て思ったんだ」
…軽くスルーされたけどまぁ、それは俺もどうでもいいや。
志乃が軽くブランコを揺らす。きいきいと、夜のしじまに小さな金属音だけが響き渡る。何気なく見上げた空には満点の星々が輝いていた。
「…どうせなら私も、あんな風にやれること全部やって満足してから死んでやろうって」
遠い、遠い目。
俺はてっきり、遠くを見つめていたのは先の見えない未来への不安、諦め、もしくは羨望の眼差しかとずっと思い込んでしまっていたけれど。
だけど、違ったんだな。お前はずっと…俺なんかよりもずっとずっと先の未来を既に見据えていたんだな。
「もちろん、諦めてなんてなかったけどね?」
そうだな。すっかり忘れていた。お前は強いよ。きっと俺達よりも遥かに。
…全く、後ろ向きなのはどっちだって話だよな。
「…………でも」
「ん?」
頼りなく揺れていたブランコが緩やかに停止する。俯いて地面を見つめる志乃の口から、ポツリポツリと掠れて今にも消えそうな声が聞こえた気がして、耳をすませば。
「でも、……長いこと離れ離れになっちゃうし……もし…もしね?…賢くんは男の子だし、どうしても我慢できないっていうなら、……もしそうなったらやっぱり私のことなんて気にしないで─」
…そこは相変わらず後ろ向きなんだな。
少し勢いをつけて力強く俺は立ち上がる。ブランコが騒々しく奏でる金属音に呼応するように身体を震わせる志乃の前に立って
「ふん!」
「あ痛ぁっ!!」
かつて猛威を振るった伝説のマグナムを志乃の額にぶちかます。うん。マグナムには及ばないがショットガン辺りには到達したのではないか。ショットガンあればクリアできるからね。もう免許皆伝よ。
「いた…、痛ぁい………」
「婆さんだったらこんなものじゃないぞ」
ここに来て、漸くこいつがやけに他の女に俺のことを売り出してる理由の一端を理解した。
何とも心外である。賢くんのお尻がそんなに軽いと思われていたなんて。寧ろ硬いのに。
不機嫌あらわに睨みつければ、おでこを押さえた涙目のままで志乃が俯いた。
「でも、選択肢は多い方がいいでしょ……?」
「まだ言うか」
「私、君の重荷になりたくない…」
「志乃」
「だって……………………三年だよ………」
「………」
三年。
…そう、三年だ。それだけの長い時間を志乃は遠くで過ごすことになる。
会えない時間が二人の絆を育むだなんてよく言うけれど、何を根拠に。
変わらず続けることこそが大切だろう。いつかどこかで偉い人が言ってた気がする。
「………っ寂しいよ……」
「………」
「忘れられたくないよ………」
志乃自身もそう思っているからこそ、不安に駆られるのだろう。果たして俺が志乃を好きなままでいられるのか、自分が俺を好きなままでいられるのか、今どれだけ大丈夫だよと言ったところで、目の前に広がるのは三年という長い空白だ。
けれど
「何か勘違いしてないか?」
「…ぇ……」
「何で俺が三年間一度もお前に会わない前提なんだ」
逃げられないように志乃の頬を両手で挟んで、真っ直ぐに見つめ合う。
大事なことを忘れてるよな。俺がお前を一人ぼっちにする訳なんてある訳ないのに。ただでさえお前寂しがり屋なのに。
「…遠いよ?」
「高校生の行動力を舐めるなよ。ヒナも繋も今がんがんバイトして嫌でもお前に会いに行くって言ってるからな。ヒナに至っては足りなきゃ町の皆からかき集めるとか言い出したし。伊勢講ならぬ志乃講ってな」
それに今の情報化社会も舐めすぎだろ。どれだけ離れていようと連絡手段は幾らでもあるんだ。寂しいなら連絡してくればいい。毎日でも、毎時間でも。お前が呼ぶならいつだって駆けつける。今までだって、そうだったろ。
「そ、そこまでしなくても」
「それだけお前が大切なんだ」
お前が俺達を大切に思ってくれるように。
そんな俺のクサイ本心を感じとったのか、志乃の暗かった顔が、キョトンと幼くなって、幼くなった顔はゆっくりと、ゆっくりと歪んでいって
「………」
「えへ」
「………」
「えへへへへ」
久しぶりに見た、陰の無い、心からの笑顔だった。瞳からとめどなく溢れ出す涙が彼女の中に溜まった昏闇を存分に洗い流したような、陽光の笑み。
「俺達との未来を掴むためなんだろう?」
「うん」
「やっとの思いで帰ってきたら俺の隣にボインのちゃんねーが陣取ってていいのか?」
「やだ」
「なら気合い入れてけ、月城志乃」
「おす」
笑顔が深まる度に、涙も。
縋り付く様に俺に抱きついた志乃が胸の中で小さな身体を震わせている。…ちょっと冷やっとしたが、漸く笑顔の裏に隠した本音を引きずり出せた気がして、俺の溜飲も下がるというもの。
「それにもう一つ勘違いしてるぞ」
「……ん………」
そして、そこだけは絶対に訂正しておかなければなるまい。
「告白の時に言ったはずだ。俺は志乃がいい」
「………」
「他に選択肢はいらない」
「………」
背中に回された志乃の手がぎゅっと強くなった。
「それでも不安なら…」
ゆっくりと、不満げな志乃の身体を離して、さっき冷やっとした原因たる懐にしまい込んだそれを取り出した。
丁寧に丁寧に渡そうとして、気恥ずかしさが容易くそれを上回って頭が沸騰しそうになり、何とも雑に志乃に押し付ける結果となってしまったけれど。
「?何これ………っ………………………………」
小さな箱を開けた志乃がそれはそれは綺麗に停止した。
箱の中身は、まぁ、語る必要も無いだろう。察していただけると助かります。ていうか察して。別に給料◯ヶ月のガチな奴とかではなくて、あくまでペアリング的なやつなんだけどね。今は。
「…帰ってきたら、結婚しよう。志乃」
「──────」
三年。帰ってきた頃には俺達は成人だ。何ともうってつけではないか。
これは証であり、繋がりだ。どんなに離れていても、俺はここにいるし、お前はここにいる。この何とも重く面倒くさい想いが俺達を繋ぎ止めてくれる。
だから、どうか安心して
「────はい」
そんな俺のガキっぽい目論見なんて全て吹っ飛ばすくらいの勢いで志乃が俺の首に手を回して強く強く抱きついてきた。そしてすかさず口の中に入り込んでくる優しい熱が、考えていたあれもこれもを何もかも融かしてしまって。
どれだけ時間が経ったのだろうか。依然として志乃が離れる気配はない。言葉の代わりにひたすら真っ直ぐな熱情を伝えるような淫らな水音がひたすら俺達を融かして混ぜ合わせるように響き渡……いや、男として何とも情けないが志乃の背中をタップして離れ、離れねぇなこいつ。いかん。全年齢向けじゃなくなる。
「ぷはっ」
顔を。真っ赤にした志乃が漸く離れてくれる。一瞬口元に光って見えた細い糸が自分達が今何をしていたのかをよくよく理解させてくれて。恐らくは俺も彼女に負けず劣らず、いやそれ以上に真っ赤っかなのだろう。
「足りない」
「え」
「もう一回」
「待て待て待て待て」
胸ぐらを掴み上げ、志乃が再び顔を寄せてくる。やだ、この子男前……。
「なんで………」
「が、我慢しろ…な?」
肩を割と強めに掴んでそれでも迫る彼女を何とか引き離す。既に熱は冷や汗へと変わっている。
予想外だった。まさかこの細い身体の中にとんでもない獣を飼っていたとは。
志乃の細い人差し指が俺の首筋をゆっくりと這い上がる。背中がぞわぞわするのを感じながらも、俺はそのかつて見たことのない蠱惑的な笑みから目を離せなくて
「私は賢くんのだよ」
「……お、おう…」
「賢くんは私のだよね」
「……はい……?」
にこり。
「じゃあいいよね」
「待ちなさいってぇ!!」
初めてが野外だなどと上級者ってレベルじゃない。意気揚々と人のボタンを外し始める幼馴染をやっとの思いで宥め終わるのはまだ暫し先のことである。
■
「どうしてこうなった…」
「ごめんね。嬉しくてつい」
君は嬉しくなると人を襲うのかい?
ベンチに脱力してもたれかかる俺の隣では嬉しそうに志乃が指輪を眺めている。
表も裏もない飾り気の無い指輪を何度も何度もひっくり返して、愛おしげに。
「婚約指輪?」
「仮のな」
「ふふ、流石に学校じゃ付けられないね」
流石にな。それは俺も分かっていたので懐からもう一つ、細い鎖を取り出した。これならあまり目立たずに身につけられるだろうと。ネックレスとして。
「あ、待って」
けれど、俺が差し出した手は他ならぬ志乃に止められる。
「どうした」
「あのね、一回だけ、一回だけでいいから…」
受け取った指輪をもう一度俺に手渡すと、顔を赤く染めて、志乃がおずおずと左手を差し出した。
期待に爛々と輝く瞳。…まぁ、そりゃ心意は理解できる。
気恥ずかしい、が今はそうじゃないだろうって。何も言わず俺はその薬指に指輪を通す。
「…………」
言葉は無い。鳴くとも、想いは通じあっていた。
俺が手渡した指輪を、志乃が俺にゆっくりとはめる。
はめたその指を持ち上げると、そっと口付ける。指先に感じる柔らかな体温がどこまでもこそばゆかった。
「賢一」
今となっては懐かしい呼び方と、蕩けるような満面の笑顔で、彼女は笑った。
「愛しています」
「……ああ、俺も」
本当に、何だってこうも真っ直ぐに想いを言葉にできるのだろう。
胸の芯を貫いた彼女の嘘偽りのない愛情はいつだってここにある。
何度も何度も、いい加減決壊したっていいくらいはち切れそうな程なのに、一向にそれが訪れる気配は無い。
お互いの想いに比例するように器も大きさを増しているということなのだろうか。
それとも、愛情に際限は無い、なんて─
「何があっても、私は君の元に帰るから」
なら、三年という空白はどれだけの想いを育てるのだろう。
…なるほど会えない時間が。そういうことか。俺の安易な予想はいつも容易くひっくり返される。
そうだな。未来がどうなるかなんて分からないけれど、きっとお前なら──
もう一度、深く、深く口付けて
「行ってきます」
行ってらっしゃい。
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