第22話 しの料理

『けんくんたすけて』


その文面を見た時には俺は既に走り出していた。

画面の向こうで通話していた繋が何が何やらと混乱して騒いでいた様子であったがそれすらも放ったらかしにして。

着の身着のまま走って、走って走って。


やっとの思いで志乃の家に辿り着いて、扉を開ける。鍵が掛かっていないかと一瞬、不安に駆られたが幸いにもそんなことは無かった。

玄関に足を踏み入れた瞬間、俺は思わずうめき声を漏らした。常と明らかに違うその雰囲気と異常なまでの異臭。嫌な汗が頬を伝う。


いつ何が飛び出してきたとしても迎撃できるように意識を極限まで研ぎ澄ませながら、一歩一歩、踏みしめる様にゆっくりと歩を進める。…異臭がどんどん強くなる。呼吸をすることすら辛く、煙が染みるのか涙すら滲んでくる。


掠れる呼吸と震える手で、扉に手を掛けた。






「おろ、どしたのヒナ」






絶対に台所に立たせてはならない女がそこに立っていた。




「…何をしているヒナ」

「何って…見りゃ分かるでしょ」


見ても分からないから聞いているのだが。彼女の前にあるフライパンからは何か赤黒いものがぶくぶくと泡を立てて大いにその異質さを主張している。異臭の元もあれなのだろう。


……志乃。志乃は何処だ。


奴から少しでも意識を逸らすことは危険極まりないが、彼女の安否も気にかかる。そうして僅かに視線だけを動かせば、ソファーの後ろに倒れている脚がすぐに目に飛び込んできた。


「志乃!」


まるで殺人現場のようなその光景に、思わず背筋が凍る。

そして愚かにも俺は奴よりも志乃を優先して、思わず駆け寄ってしまう。『ここで唐辛子ぶち込めばワンチャンいけるか…?』とか言うイカれた台詞を背にしながら。


「けん、…くん……」

「悪い。遅くなった」


味見をさせられたのだろうか。口から赤黒いものを血のように垂らしながら虚ろな目で俺を見つめる彼女を見て、俺は己の無力さを呪った。縋る様に伸びてきた彼女の震える手をしっかりと掴み取る。冷たい。志乃の命の灯火が今まさに燃え尽きようとしている証だった。


「わたし…どこで…まちがえちゃった、のかな……」


最初からだよ。何て、今の弱りきった彼女に言えるはずもない。


「甘くみてたよ…。どれだけ苦手って言ったところで流石に限度はあるものだと思ってた…」

「志乃…」

「私には無理だった。所詮私は持つ者の立場から物事を見ているだけにすぎなかったんだね……私は無力…」

「志乃…!!」


彼女の瞳から光が消えていく。駄目だ。連れて行かないでくれ。神様、どうか。

俺を一人にしないでくれ。寧ろ神様があれ食べてくれ。俺がどれだけ願ったところでその声を聞き届ける都合のいい存在などいやしない。


「賢くん……」

「……何だ」


もう身体を動かすことすら辛いだろうに、変わらぬ笑顔で彼女は俺を見つめていた。

だからこそ思い知ってしまう。もう、別れの時が近いのだと。

互いに見つめ合う俺達。後ろからはどこまでも呑気な鼻歌。病弱なんやぞ。加減せぇや。


「最期に…キス…してほしいな…?」

「…………っ」


どこまでも慎ましい最期の懇願。悲壮さに満ち溢れたそれを、俺は、俺は……──






「…すまん。ちょっとその激臭は流石にしんどい」

「そういうとこだよ」


パタリ。志乃は死んだ。


「大袈裟ねぇ……」


極めて当然の反応なんすけど。







「たんとお食べ」


青い顔で未だうんうん魘される志乃をソファーに寝かせ、俺は災厄と対峙する。

ヒナがやり遂げた表情で置いた丼ぶりと。


「何だこれ」

「親子丼」

「へぇ…」


親子丼ってこんなに真っ赤になることあるんですね。どこまで無辜な親子を辱めりゃ気が済むんだこのサイコパスが。


「ピリ辛風味ってとこかしら」

「お前味見した?」

「美味しそうなんだから別によくない?」


よくなくないですね。君はこの親子に土下座してほしい。こんな再び血に塗れるために加工された訳じゃない筈なんですよきっと。


「さ、どーぞ」


嬉しそうな顔で頬杖をついてヒナがこちらを眺めている。…悪意はないのだ。本当に喜んでほしいと思ってやってるだけで。それが果てしなくめんどくさい方向に突っ走っているというだけで。多分。きっと。恐らく。めいびー。

さてどうしようか。この自分を親子だと思い込んでいる赤の他人をどう処理すべきか思案する。箸でよそうも、震える指先が本能的にそれを拒否してポロリと落とす。


「何よ」 

「何だろうな」

「…あ、なるほど。あーんしてほしいとか?」


…………。


「あ?」

「もう、仕方ないわねぇ」


思わず久々にキレちまいそうな感情が溢れかけた上の『あ』だったのだけど、ヒナシェフの都合のよいお耳にはそうは届かなかったようで。ニコニコした笑顔で俺を殺そうとヒナが俺に親子丼を差し出す。


「ほらほら。お口開けなさい」

「………」


そこにぬっと伸びてきた弱々しい手が、ヒナの腕をぐわしっと掴んだ。


「ひなみ」

「お、おおう」


今にも転がり落ちそうな危なっかしい体勢になるまでソファーから身を乗り出して、志乃がヒナを睨みつけていた。真っ白な顔と長い前髪から覗く鋭い眼差し、貞子の如し。というか服ずり上がってるから止めなさい。

だが、救世主は来たれリ。いいぞ志乃。そのままこの特級呪物を何とかして


「わたしがやるから」

「じ、冗談よ。そんなに怒らないの」


私が殺るから。なるほど。どの道死ぬと言うのならせめて私の手で、ということか。俺の彼女の愛が重い。

脳裏に過る走馬灯に静かに思いを馳せる俺とは対象的に、いそいそとヒナと場所を入れ替わる志乃。親子丼もどきを再び前にして一瞬身体を強張らせていたが、恐る恐ると一口掬って


「はい、賢くん。あーん」


打って変わって嬉しそうな顔で俺に『死』を差し出した。

元々白い顔を更に青白くしているものだから、頬の赤みは余計によく分かって。


「志乃」

「あーんしたらきっと美味しく食べられるよ。愛情は最高のスパイス。頑張ろう?ね?全部食べちゃおう?賢くんなら出来る。わたしきみをしんじてる」

「じゃあ俺もあーんしてやろうか」


ひくっ。志乃の口元が僅かにだが引き攣ったのを俺は見逃さなかった。


「け、賢くんのあーん………?」

「お望みならふーふーも付けてやろうではないか」

「!?」


どれだけ冷ましたところで口内の火傷は避けよう無いですけどね。気休め。

言っておいて何だが恥ずかしすぎて仕方がない。いや、ふーふーて。フゥ~↑。

俯いた志乃の身体がぷるぷると小動物のように震えている。

恐らくは俺に食わせることで死を回避するか、死ぬと分かっていて尚、俺のあーんを取るかの二択で死ぬ程葛藤しているのだろう。俺が進んであーんすることなんて一度も無かったからな。俺には今のお前の気持ちがよく分かるよ。こんな形で分かりたくなかったなぁ。


「う…うぐ、っ……く……」

「今だけの特別サービスなんだけどなぁ」

「っあぁ……!」


頭に手を当てて、志乃が髪を振り乱している。果たして今の彼女の中では天使と悪魔、どちらが優勢なのだろうか。

それをぽけーっと眺めている部外者約1名はいまいち状況を飲み込めていないらしく首を傾げている。なんでお前料理が絡むと途端にお馬鹿さんになるの?


「わた、私はっ……」

「さあ、どうする志乃……!!」

「うああぁっ……!」

「よく分かんないけど」






「2人分あるわよ」







「言われた通り、水やら牛乳やら買ってきたけど…どうしたのこの二人」


朦朧とする意識の中で微かに繋の声が響いている。

恐らくは折り重なって倒れている俺達を見ての発言だと思うのだが、心配の度合いが心なしか薄いのはどういうことだろうか。というか志乃はなんでわざわざ俺の胸に倒れ込んだんだか。


「あたしの親子丼が衝撃的すぎたみたいね」


悪い意味でね。


「自分の才能が怖いわね…」


ぶっ飛ばすぞ。

本気で言ってるならあの志乃さんでもプッツンだぞ。今ちょっとピクっとしたからな。


「へぇ…これ朝比奈さんが作ったんだ」

「そうよ。食べる?」


どうしてそんなことするの。君はもっとお利口さんだったでしょ。目を覚ましてよ。


「じゃあ、せっかくだから…」


イカれてんのか。


繋がなんてことの無いように差し出された毒物に手を伸ばし、微塵の迷いなく口にする。これから起きるであろう惨劇に俺達も身体を固くして身構えたのだが


「あ、美味しい」

「「!!??」」

「ふふん」


イカれてたぁ〜。


思わず揃って身体を起こした俺達が目を限界まで大きくして見つめる中、その男はご飯粒一つ残さずペロリと『死』を平らげてみせる。何ならおかわりまでし始めたイカレ味音痴とそれを見て物凄く顔を輝かせる死の料理人。気を良くした彼女は恐らくこれからも腕を振るうつもりなのだろう。合わせてはならない禁断のコンビが誕生した瞬間だった。


そこから約一週間程、俺と志乃は彼に敬語を使った。




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