第28話
歌が聞こえた。
まだ梅雨も明けない時期に、紫陽花の中で聞いていた歌。
景色が明滅する。ぼんやりとした遠い記憶は、浮世を掴むようなもので、朧気になっていく。
目の前で歌っている女の子の背中に手を伸ばした時、ザクロは目を覚ました。
「ザクロ、こんなとこで寝ちゃダメよ」
眉を下げた琥珀の顔が、焦点が合うぎりぎりの近さでこちらを見ていた。
男だったら反射的に投げ飛ばしている。そんな距離。
驚きに飲み込んでいた息をゆっくりと吐きだして、ザクロは眠気を飛ばそうと額に手を当てつつ顔を振った。
「……すみません、うつらうつらしてました」
場所はリビングのテーブルだった。暗くなったノートパソコンの画面が時間の経過を教えてくれる。
もう一度パソコンを起動する気になれなくて、ザクロは天板に手をかけ閉じた。
琥珀はTシャツに短パンの、相変わらず薄着スタイルだ。ザクロが目を覚ましたのを見て、対面の椅子に腰かける。
「小桜の足取り、つかめないの?」
顔の前で両手を組んで、それを頬に当てる。
その手ごと首を傾げれば、CMにでも出てきそうなポーズの完成だ。
こちらを見る瞳は薄っすら張った水の膜で揺れている。
琥珀の疑問にザクロはパソコンの天板を指で撫でた。
「大分、絞れてはいるんですが、脅迫状との関係を証明するのが難しくて」
「そりゃ、そうよね」
琥珀が顔を俯かせる。肩を髪の毛が滑っていく。
脅迫状なんて、誰でも、どこからでも送れる。
筆跡を残すようなこともしていないし、同じ人間が何通も送っているのか、多人数が送ってきているのかさえ、簡単に判断はできない。
「小桜自体は、今も俳優業を続けているようです。ただ、純粋な俳優としての仕事はかなり本数を減らしています」
ひなたとの関係についての話は裏が取れた。
確かに舞村ひなたは小桜優斗と交際していたようだ。真剣交際だったようで、誰にも茶化すことなく見守られていた。
すぐにスキャンダルに繋がる琥珀とは正反対の付き合い方。
真剣な分、ひなたの死のショックは大きかったようで、その後から仕事の本数はがくんと減っていた。今は昔の仕事の焼き直しをしているような状態だ
「ねぇ、私のライブって……脅迫されるほど、しちゃいけないことなのかしら?」
「え?」
唐突な言葉に、驚いて顔を上げる。
脅迫なんてする方が悪いのだ。何より琥珀は歌手であり、歌手活動を邪魔されるいわれはない。
たとえ、琥珀の歌で傷ついた人間がいたとしても、救われた人間の方が圧倒的に多いのだから。
頭の中を過った色々は、琥珀の握られた手が白くなっているのを見て消えていく。
「私はライブで生きてきた。脅迫状に屈する気は微塵もないわ。歌えないなら、琥珀として生きている意味はない……それこそ、ひなたにも顔向けできない」
淡々と歌手の琥珀は紡いでいく。
一点を見つめる瞳は微動だにしない。
それはまるで神様に祈りを捧げているようにも見えた。
祈りにしては、目に宿る力があまりにも強すぎたが。
「そう思って、何があろうと歌ってきた。でも、それは……ザクロには関係ないことでしょ?」
「それは違います!」
揺らめいていた琥珀の視線がザクロに定まる。
告げられた言葉にザクロは椅子から立ち上がっていた。両手を机の上に着き琥珀との距離を詰める。
琥珀は逃げなかった。揺れる瞳に自分の慌てた顔が映っていた。
関係ない。その一言がザクロの耳に反響する。
(なんで)
今更、そんなことを言うのか。
ぎゅっと唇を噛みしめる。どういえばいいのか、わからなかった。
時計の針の音だけが部屋に響いている。何も話せずにいた。そこに着信音が鳴り響く。
「……はい」
電話に出た瞬間に、琥珀はザクロから目をそらした。
何もない壁を見つめ、髪の毛を指でいじっている。
さっさと電話を終えて続きを話さなければ。そう思いながら、スマホを耳に当てた。
『た、た、大変です。ザクロさん!』
「……どうしたの?」
『真剣エンターテインメントから、琥珀さんのライブに出資したいという申し出が来ました』
ザクロは眉間に皺を寄せた。
さっきまでの話と、今、城田が話す内容に乖離がありすぎて、頭の理解がついていかない。
「真剣エンターテインメント?」
ただ聞きなれない言葉を繰り返した。
視界の端で琥珀が顔を元に戻し、耳をそばだてるのが見えた。
興奮している城田が早口で状況を教えてくる。
『少し前に後継者騒動があって、ごたごたしてた会社です! 前社長が築いた基盤が強くて、今も業界では力があります』
「なんで、そんなところが?」
後継者騒動。そういえば、いつかラジオで聞いた気がした。琥珀の引っ越し前のことだから、三か月以上前の話だ。
わーわーとわめく声にスマホを耳から少し離す。数秒後に聞こえてきたのは低い声だった。
『あー、ザクロ、聞こえるか?』
「ええ、聞こえてます。社長、面倒事ですか?」
出資というならば、悪い話ではないはず。
経営部分にはノータッチのザクロには、大まかなことしか分からない。
だが、琥珀に関係することは面倒事がついてまわる。それがモノリスの不文律になりつつあった。
永田は電話越しでも、わかるほど言葉を選んでいた。
『まぁ、そうだな……棚から牡丹餅というか、瓢箪から駒というか……』
「はっきりしませんね」
嬉しい話なのか、驚きが勝っているのか。
ザクロは眉根を寄せた。立ち上がった反面、座りなおすこともできず、テーブルの角を手で支えながら電話を続けた。
『真剣エンターテインメントの社長の名前は、真剣新太。琥珀の大ファンだから、出資したいということなのだが……』
永田の声が小さくなる。その声にかぶさるように、城田の声が響いた。
『まーくん、なんですよ!』
「はぁあ?」
まーくん。忘れもしない、最初に琥珀の男運の悪さを感じさせた男だ。
へらりとした笑顔にお金を押し付けたことを忘れてはいない。
そう、まーくんは琥珀に金の無心に来ていたのだ。出資なんてできる立場ではなかったはず。
ザクロは驚きで先ほどまでのやり取りも忘れ、椅子に座っている琥珀に目を向けた。
「どうしたの?」
「まーくんの苗字、知ってますか?」
きょとんとした顔をして「まーくん」と呟くと、琥珀は思い出したように顔を明るくさせた。
「真剣よ。カッコイイわよねぇ」
珍しい苗字だ。一度聴いたら中々忘れられないだろう。
にこにこした能天気な笑顔は、久しぶりに見るものだった。
それを作ったのが「まーくん」というのがザクロの癪にさわる。
一縷の望みをかけ、琥珀に追加で問いかける。
「それ以外の情報は?」
「えー、親と反りが合わなくて家を飛び出したんだけど、困ってるってことかしら。あとは……音楽センスは良かったわね。感想も的確なものが多かったし」
親と反りが合わなかったが、社長が死んだことで、椅子が巡ってきたのか。
芸術的な感覚は教育によるものが大きい。小さいころから、上質なエンターテインメントに触れていたとしたらおかしなことではない。
ぱちぱちとピースがはまっていく。
裏付けは必要だが、否定できる要素はなかった。
ザクロは額に手を当てて、軽く頭を振った。
「社長、ビンゴみたいです」
『当たりたくねぇ、ビンゴだな』
スマホの奥から聞こえてきた永田の言葉に、ザクロは深く同意した。
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