第5話
駐車スペースに車を止めて、琥珀の座る後部座席へ回る。周囲を確認してから、ザクロはドアを開けた。
エンジンを止めた空間は足音一つさえ響く静寂さだ。
「わざわざ玄関まで送ってくれなくて良いのに」
「仕事ですから」
「真面目ねー」
エスコートするように荷物を持つ。
琥珀の荷物は女優や歌手にしては少ない。私物の入ったカバンはひとつだけ。
他に必要な化粧道具や機材さえ、肩にかけるカバンひとつにまとまるほどだ。
琥珀の軽さにザクロは唇を引き結ぶ。
「自覚してください。次にスキャンダルがあったら、歌手として活動できる場はほぼないんですから」
エレベーターに入り、階のボタンを押す。動く電灯の数字を見上げていた。
琥珀は入り口から遠い方の壁に背を預けている。
「はいはい。ザクロは私の歌、聞いてくれたの?」
「……ちゃんと聞いたことはありません」
「えっ」
後ろめたさに声が小さくなった。
仮にも人気歌手と一緒に仕事をするのだ。事前に聞いておくのは、仕事としても必要だったろう。
けれども、今回は急すぎた。城田に聞いた所で、実際にちゃんと彼女の歌を聞いたことはない。
ボソボソとした言葉でも、琥珀は聞き逃さなかった。
急にザクロの方に詰め寄ってきたことでエレベーターが揺れる。
「けど、琥珀さんの歌はどこでも流れてるじゃないですか」
「そういう問題じゃないわ」
意固地に階層表示を見続け、隣にくっついてきた琥珀の肩を押す。
同性だからか距離が近い。肩と手が触れ合い、思いの外、琥珀の体が冷たくなっていることに気づく。
ザクロははっとしてから顔をしかめる。スマホに忘れないように手早くメモをした。
ひざ掛けも羽織るものも用意してなかった。自分の迂闊さに苛立ちが募る。
「なんてこと。私のボディガードが私の曲を知らないなんて」
だからだろう。
エレベーターが到着した音に紛れて、琥珀のそんな呟きを聞き逃してしまったのは。
「な、んですか?」
家の前に到着し、荷物を玄関に入ってすぐの場所に置いた。
立ち去ろうとしたザクロの手首が掴まれる。
玄関に入った琥珀を見上げると、そのままぐいと引っ張られた。
「入りなさい。新しい曲を聞かせてあげる」
「えぇ、聞いておきますよ?」
「ダメ。私が教えるわ」
元の身長差、体格差からまともに振りほどくことは難しい。
手段を選ばなくて良いなら、どうとでとなるのに。
じっと自分の顔を見つめる、琥珀の顔は真剣で、男の話をしていた時とも朗らかに挨拶をしていたときとも違う。
無言での押し合いを終わらせたのはザクロのため息だった。嬉しそうな顔をした琥珀が抵抗しなくなったザクロを室内に連れ込む。
「物、少ないですね」
「ライブで飛び回ってるから、そんなに部屋にいないし。作曲に必要な機材なんて限られてるから」
琥珀の先導に従って、廊下を進む。廊下には何も置いておらず、壁にポスターなどもない。
真っすぐ伸びた廊下の左側に2つ、右側に1つドアがあった。無造作に開かれたままの扉から左側の一つが洗面所だとわかる。
長い脚でズンズンと進むので、ザクロは自然と早足になった。
「ほら、ここに座って」
ろくな説明もせず連れてこられた奥の部屋はリビングだった。
一人暮らしには大きすぎるテレビと距離を取るように壁際に大きなソファが置かれている。自分の部屋だったら、ほとんどのスペースを奪いそうなそれにザクロは座らされた。
ザクロを放り投げた琥珀は、すぐさまテレビの下へそなえられた棚へ座り込むと、DVDの背を指でなぞり始める。
「どれがいいかしら……ザクロは普段はどんな音楽を聞くの?」
「いえ、音楽自体聞きません。仕事で必要な分だけ。好きなジャンルとかもないです」
真剣な背中を見ながら答え、ザクロはきょろきょろと周りを見回した。
家具の少なさ、食材などの少なさに比べて、テレビとソファの周りにはティッシュや毛布、クッション、ひざ掛け、ぬいぐるみなど女の子らしいものが所狭しと置かれている。
おそらく、ここでほとんどの生活をしているのだろう。
意外だったのは、男物や男の匂いを感じさせるものが何もなかったことだ。
「うっそ、じゃあ、カラオケで歌ったりもしない?」
「学校で歌ったくらいですかね」
振り返った琥珀の瞳が大きく見開かれている。
何に驚いているのか。ザクロは首を傾げた。
「音楽のない人生なんて、ありえない」
「……そう言われましても」
ザクロは苦笑を返した。
自分には必要なかったものだし、なくても生きてこれた。
学校で歌った曲はまだ覚えているし、耳に残っているのだから嫌いではないと思う。
ザクロの様子に琥珀は諦めたように長い息を吐くと、迷っていたとは思えない仕草で一つの円盤を取り出した。
「わかったわ。あなたに必要なのは、とびきりのライブね」
DVDをセットして、琥珀はすぐにザクロの隣に座る。手にはいつの間にかリモコンが握られていて、手慣れた様子でテレビを操作した。
彼女がテレビをまっすぐに見つめる横顔が、琥珀にはまるで子供のように見えた。
画面には会社のロゴが表示され、観客のざわめきがすぐに聞こえてくる。
「楽しそうですね」
「何も知らない観客から感想をもらうことなんて、滅多にないから。ピュアな感想、聞かせてね」
ばちんとアイドル顔負けのウインクを投げつけられる。
ああ、本当に歌が、ライブが好きなんだなと自然発生した感想を、口から出ていかないように捕まえた。
眼の前でキラキラした瞳で画面を見つける女性にそう言うのは、ひどく馬鹿にしたことのように思えたからだ。
ピンポーンと気が抜けるインターフォンが鳴ったのは、オープニングから2曲めに移ろうとしていたときだった。
「ここからが、良いところなのに」
「琥珀さんは座っててください」
唇を尖らせる琥珀の肩を抑え、座らせたままにする。
ザクロはインターフォンが鳴った瞬間に立ち上がっていた。頭が一気に仕事モードに切り替わる。
画面の前に立つと同年代くらいの黒髪でロン毛の男が立っていた。
「琥珀、いるー?」
「あ」
インターフォン越しのガサガサした声が部屋に響く。と、同時に、琥珀の顔が強張った。
怯えている様子ではない。宿題を忘れたことに気づいた学生のように、ザクロの顔をチラチラと伺っている。
ザクロはにっこりと笑顔を作り、圧力をかけた。
「琥珀さん?」
「いや、これは、その」
「あはは……」と小さな誤魔化し笑いをこぼした琥珀が、ザクロの隣に立つ。インターフォンに答えようとした時に、がちゃりと鍵が開く音がした。
クロ確定。
ザクロは琥珀をギロリと睨んでから、何が起きてもいいように体勢を整えた。
「久しぶり、会いたかったよ。電気が点いてたから、帰ってきてるかなって」
「まーくん」
まーくん、だと。
入った瞬間、まーくんの声が甘くて、ザクロは目を細めた。
琥珀はザクロの反応を伺っているのか近寄ることはなかった。
「どなたですか?」
「ええと、まーくんは私の歌を好きだって言ってくれて、こうやってたまに遊びに来て」
目が泳ぐ。言葉を探す。合わせられた両手の指先は胸の前で伸び縮みをしていた。
どうにか誤魔化そうと、もしくは穏便に場を済ませようとしている琥珀の努力を裏切るように、まーくんが馴れ馴れしく琥珀の肩を掴む。
なぜかは分からないが、イラッとした。
「ねぇねぇ、新しい曲できたんでしょ? 聞かせてよ」
「あ、うん。今ーー」
反射的に、動こうとした琥珀の手を掴み円の動きを利用して、自分の隣に移動させる。
なに、足さばきさえできれば、体格差など関係ない。
急に距離ができたことに、まーくんの瞳がキョトンとこちらを見た。琥珀も何が起きたか把握できていないようだ。
ザクロはそれらをまとめて無視して、琥珀に言葉の続きを促す。
「遊びに来て?」
「……感想を言ってくれたら、お金をあげてます」
「へぇ」
笑ったつもりなのに、琥珀が少しだけ体を引いた。
ザクロは琥珀の前に立つとあらためて、まーくんを見た。
「ええと、まーくんさん? なんとお呼びしたら?」
「え、誰? かわいいね? 琥珀の友達?」
「琥珀さんをサポートする仕事をしている者です」
ロン毛な上に、前髪で顔もよく見えないが、整ってはいそう。
声は甘ったるいが、響きはよく聞き取りやすい。そして、わかりやすい軟派さ。
仕事用の態度を崩さず、ザクロは必要なことだけを告げた。
「琥珀さんは、しばらくこの家には帰ってきませんし、おそらく引っ越しをすることになります。今日を最後にお金の無心はできませんので、ご理解ください」
「えー、だって琥珀がお礼にくれるんだよ?」
「ええ、今までありがとうございました」
財布から札を取り出し、まーくんに渡す。
痛い出費だが、社長に言えば戻ってくるだろう。琥珀がまともに働けば、一瞬で稼げるお金だ。
受け取ったことを確認して、彼を玄関から放り出す。
鍵をかけ直し、チェーンもかける。
お金だけが目的だったのか、すぐに人の気配はなくなった。メールで城田にも連絡をしておく。インターフォンに映っている時点で顔は割り出せるだろう。
「引っ越しって何?」
部屋に戻ってきたザクロを待っていたのは、少しだけ頬を膨らませた琥珀だった。
口からでまかせに出た言葉だったが、悪い案ではない。
やれやれと首を横に振りつつ、小さな子供に言い聞かせるように琥珀と視線を合わせる。
「あんなのが無造作に入ってくる時点で、この家にあなたを置いておくことができないとわかりました」
「たまたまじゃない」
「芸能人に、そのたまたまはありえません」
琥珀の言い訳を切り捨てる。
たまたま金の無心にくる異性がいてたまるか。
スキャンダル女王の業の深さに、これからの苦労が浮き彫りになる。
「お願いだから、自覚してください。次にスキャンダルがあったら、歌手として活動できる場はなくなります」
「はーい」
まさか、一日に二度こんなことを言うことになるなんて。
ザクロは軽い調子で返事をする琥珀を見ながら、痛くなってきた頭を抑えた。
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