第2話
シルフィは軽やかな笑顔で、飛行機に乗っていった。
最後に人の頬にキスをひとつ残して。
その感触が残っているようで、ザクロは人差し指の背で何度か頬を擦った。
「これだから女優は距離感が……」
脳裏にシルフィの笑顔が蘇る。それを消すように頭を何度か振った。
今回はボディガードだけのはずが、予定外のスタントも入り、小銭を稼ぐことができた。その代わり、疲労感は強い。
しばらく休みをもらおうと、到着を告げる電光掲示板をぼんやりと見上げた。
「お出口はー、右側になります」
目的の駅にゆっくりと電車が止まる。入り口から吐き出される人波に乗って改札を出た。
やっと終わった仕事にザクロは肩を軽く回しながら、ピッと改札にスマホをタッチさせる。
人が目まぐるしく行き交う表通りから一歩裏へ。すると途端に人が少なくなる。
白かった塗装が所々黒ずみ始めた3階建てのビル。一階に入っている花屋を横目に電気さえついていない細くて急な階段に足をかけた。
「戻りました」
一見して、芸能界に関係する会社が入っているとは思えない扉を押し開ける。傷と宣伝なのか、いたずらなのか分からないチラシで満たされていた。
かろうじて、派遣会社モノリスという社名だけは読み取れる。
中に入ればLEDではない白熱灯の照明が廊下を薄暗く照らしている。奥に続く廊下をダンボールを避けながら歩き、唯一煌々と白い光が漏れ出る部屋にたどり着いた。
「おー、おつかれ」
ザクロの姿にちらりと視線を向けて、すぐに机へと顔を戻す。視線の先にあるのは仕事の書類……ではなく、スマホの画面。おそらく麻雀の試合でも見ているのだろう。
テンパイと声が聞こえた。
相変わらずの社長の姿に、ザクロははぁと小さくため息をつく。すぐに大股でデスクへと近寄った。
その途中の机には、画面が3つもならんだパソコンの前でカップラーメンを食べているスタッフがいた。ひょろりとしたキツネ顔の女性スタッフの城田は、ザクロにひらひらと手を振ってくる。
「社長。今回の仕事、どういうことですか?」
社長のデスクを軽くノックし、注意を引く。スマホとザクロの間で社長の視線が動き、ザクロの顔をみて諦めたように画面を下にしてスマホを置いた。
SPだけのはずが、監督のリクエストでスタントまで入る。仕事中だからと断ろうとしたら、社長の許可は取っていると言われる始末。
女優のSPをしているとわがままに振り回されるのは常だが、スタントが入るとさらに調整が難しくなる。
今回はたまたまシルフィに理解があっただけ。だが彼女にはザクロが苦手としている部分があった。
「よい仕事だったろう?」
社長はザクロの言葉に片眉を上げ、とぼけた顔をする。
ザクロは憮然とした思いを隠すことなく、しっかりと腕を組んだまま指で肘を叩いた。
「妙に距離が近い人だったんですけど」
ザクロがそう言って永田を睨む。しかし、当の永田は
「気に入られたってことだろ。ザクロの仕事ぶりはよく聞くぜ」
と流されてしまった。
気に入った人間を積極的に取り込もうとするのは欧米の女優にはよくあることだ。ザクロ自身、スカウトされたことは何度かある。
だからこそ、シルフィのお誘いがそれ以外の意味を含んでいたのに気づいたのだ。
「仕事を褒められるのは嬉しいですけど」
食い下がるザクロに、社長は何も言わない。
気分を変えるように休みをもらおうと口を開こうとした。その時、
「どうだったんですか、ハリウッド女優!」
さっきまでデスクでカップラーメンを食べていた城田がいつの間にかデスク前まで来ていた。
片手にカップラーメンの容器を持っている。ゴミ捨てついでに突撃してきたのだろう。
話の腰を折られ、ザクロは今度ははっきりとため息を吐く。
「城田さんはミーハーが人になったみたいですね」
ザクロの言葉に城田は「あはは」と声を上げた。
容器を持っているのと反対の手をパタパタと仰がせる。
キツネ顔のため、元々細い瞳が笑うと糸のようになった。口元に手を当てる仕草はとても女性らしいのに、華奢すぎて肉がない体型が中性的に見える。
ザクロの嫌味に、傷ひとつない笑顔で言葉を続けた。
まったく、扱いに困る同僚だ。
「ミーハーじゃなきゃ、こんな仕事やってませんって」
「城田の情報収集能力はピカ一だからな」
社長も城田の話に乗る。二人の様子にザクロは一度休みの話を引っ込めた。
「ハリウッド女優というか、エンタメ業界なんてどこも一緒ですって」
ザクロの言葉に城田は眉毛を思いっきり引き下げた。背中に斜線を書いてあげたいほどだ。
両手を上にあげつつ肩をすくめる姿は、最近見慣れたアメリカ人がよくする仕草だ。
「夢がないー」
ザクロは今まで一緒に仕事をした人たちのことを思い出す。
シルフィは立場がはっきりしているから、性格的には穏やかな方だった。人によっては上昇志向の塊というか、まだまだ上に行きたいという思いが強い人も多い。
そういう女優のボディガードをするときは、迂闊に何もできない空気になる。
触るな危険。聞いたことや見たことももちろん箝口令が敷かれていた。
「だって、本当のことですもん。みんな上を目指してギラギラしてて、真実なんて何もない状態」
ザクロはそういう仕事が一番苦手だった。苦手というより、疲労する。
社長はザクロの方へ椅子のキャスターを使いくるりと回ると、面白そうに口角を引き上げた。
「出た、ザクロの辛口批評」
「今回の女優さんは裏表が少ない方でしたけど、SPとして楽屋にいると他の人の色々もよく見えるんですよ」
人の裏が見える。それに対する人の反応は様々だ。
好きな人もいれば、嫌いな人もいる。
城田はそういう部分を集めるのが好きだし、仕事。ザクロ自身は、なるべくそういうものとは遠いところに自分を置きたかった。
ちらちと城田に視線を向ければ、にこりと微笑まれる。
話の流れが来た。ザクロは休みをもらおうと口を開く。
「なので」
「よっし、そんな芸能界大好きなザクロに新しい仕事だ」
言葉が被せられた。明らかにザクロの邪魔をした社長をぎろりと睨む。
「……ひとっことも、そんなこと言ってませんよね?」
「まぁまぁ、お前にしかできない仕事だからな」
社長は寝かせていたスマホを取ると、画面を一回指でタッチした。
すぐにポケットに入れていたスマホが鈍い振動音を立てる。ポケットからスマホを取り出しながら、ザクロは愚痴をこぼす。
「女性専門ボディガードになんてなるんじゃなかった」
「オールオッケーにするか? こっちは助かるが?」
「何が悲しくて、自分より強い人間を守らなきゃいけないんですか。男の人だと、面倒事が倍増するので、このままで大丈夫です」
男を守る仕事をする気は微塵も起きない。
社長から届いたメールを開く。中身に目を通せば、次の依頼人の情報のようだった。だが個人名だけがない。
「Ambre jauneの琥珀は知ってるか?」
ザクロは画面から目だけを上げ、社長を見た。
城田はいつの間にかゴミを捨て終わり、ザクロの手元を覗き込もうとしてくる。自分より上背があるため、放っておくことにした。
Ambre jauneの琥珀。
正確に言えば、海外向けに活動する時はAmbre jauneの名前。日本国内だと琥珀だけで通していた。
「歌手の?」
「そう」
芸能界に関わりのある仕事をしている人間ならば知らないわけがない。
売上やライブ実績もそうだが、何より彼女の名前が売れている理由は。
「……スキャンダル女王」
「そう、この間の借金問題は面白かったな」
「あれが原因で、事務所解雇になったんじゃ……って、まさか」
カラカラ笑う社長に、ザクロは眉をひそめた。
「そう、俺が貰い受けた。条件と引き換えにな」
「条件?」
「私生活も含めた護衛がつくこと。その代わり創作活動は一切邪魔しない」
メールを最後まで読み終わる。
同じ条件が小難しい文章に成り代わり載っていた。
私生活も含めた護衛。仕事のときだけでなく、私生活での危険からも守る。琥珀の場合は、護衛より生活改善の部分が大きいだろう。
長時間拘束されるわりに、実入りは悪い。
ザクロは社長の顔を見つめた。
永田はにっと笑うと机の上に二つ折りになった紙を差し出す。中身を見てザクロは顔をしかめた。
「スキャンダル女王だけあって、注目もすごくてな。もはや、こんなものも届いている」
「琥珀が関係した人間は不幸になる……わかりやすい脅迫状ですね」
はぁとため息を吐き出す。
人気商売には付き物だが、事務所に所属しただけでこうなるのは珍しい。
スキャンダル、人気、脅迫状。どれをとっても面倒くさい。
「本気ですか」
「本気と書いて、マジだ」
天井を仰ぐ。
休みたいと思ったのに、長期の仕事、しかも終わりが見えないものが入ってしまった。
城田が応援してるんだか、からかっているんだかわからない顔で手を叩いている。
「ザクロさん、ガンバ!」
「うるさい」
ムカついたので、軽く頭を叩いておいた。
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