女性ボディガードがスキャンダル歌手のお守りをしたら
藤之恵多
第1話
目の前は青い絵の具をぶち撒けたような空が広がっている。
ザクロは足の裏でビルの屋上の縁をなぞった。つま先が縁から飛び出し、靴の中で何もない中空を確かめる。下から拭き上げる風が髪を持ち上げ、肩を掠めていく。
視線を下に向ければ、自分が落ちる予定のカラフルな布たちが重なって見える。一階毎に一枚。一番下にはマットがあるが、非常に薄く、撮影のため最低限の大きさで見ることさえできない。
気合を入れるため、ザクロはふーと軽く息を吐きだした。
「本番、行きます」
助監督の声がかかる。
屋上の縁から離れ、背中を向ける。肩くらいで切り揃えられた髪の毛が、風に乗り頬をくすぐった。
「さん、に……」
言葉にならないスタートの合図とともに、ザクロは後ろ向きに屋上から落ちていく。
いち、に、と頭の中で数を数えた。
人間の落下速度は一定だ。一階分落ちるまで、とれくらいかかるか、ザクロはもう知っていた。
衝撃に備えて関節を柔らかくする。
女性スタントマン。それがザクロの仕事の1つだった。
「無事に終わったかぁ」
三階分の高さから落ちるスタントが終わり、衣装から私服に着替えた。
一回で終わり、楽屋に戻ってから身体を確認した。痛みがある部分や動かしても違和感はなく、肩をなで下ろす。
失敗する気はしないが、わざわざ危険に突っ込むのが好きな訳では無い。内容、割の良さを考えて、できることからしているだけだ。
「いやー、今日も良かったよ」
「ありがとうございます」
ザクロは心の中で舌打ちをした。
スタントはあくまで副業だ。移動のために持ち上げた鞄をもう一度置く。
扉は無遠慮に開けられた。少しよれたシャツを腕まくりし、無精髭をたくわえている。まさしく業界人らしい姿をした監督だ。
愛想はよく。副業とはいえ、次の仕事に繋がるように。
ザクロは笑顔を貼り付け頭を下げた。
「これを本業にすればいいんじゃない?」
「あはは、そう言って貰えると有り難いです」
顎の下を太い指で擦る姿を笑顔で見つめ、パタパタと顔の前で片手を振ってみせる。
その間も監督の視線はザクロの足元から頭の先まで動いていく。その視線に背中を悪寒が走り抜けた。自分のお尻を抓り、顔は笑顔を保たせる。
「女性のスタントマンは引く手数多だろ?」
「絶対数が少ないですからね。だけど、これだけじゃ」
肩を竦める。チラリと時計を見て、スマホから遅れる連絡を送った。
鞄を掴み監督に頭を下げる。
「また機会があったら、ぜひよろしくお願いします。では別の仕事があるので」
「おいおい、そんな急ぐ仕事でもないだろ? あの女優だったらもう少しかかるぞ」
肩を掴まれる。その部分から虫酸が走った。
スタントマンは割の良い仕事で、単発の仕事も多い。きちんとアクションさえすれば、別の現場でも使ってもらえる。
だが、スタントマンはスタントマン。
俳優たちと比べるまでもなく、その扱いはスタッフとほぼ変わらない。
パワハラ、セクハラの多さはウンザリするほどだ。
「このあと打ち上げもあるから、終わったら合流しないか?」
「いえ、今日は」
スマホが鳴った。小さく断って画面を見る。
表示された名前は、今のクライアントのもの。ザクロの本業相手だ。
「すみません、呼び出しみたいなので!」
「あ、ちょっ」
ペコリと頭を下げつつ部屋を出る。振り返らず電話に出た。
響いてくる声にザクロは軽く謝りながら、ありがとうと伝えたい気持ちでいっぱいだった。
※
扉の前に貼ってある名前を確認して、ノックをする。門番のように立っている一時的な同僚には目礼するに止めた。
中からすぐに返事がありザクロはゆっくりとドアノブを回した。
開いた扉の隙間から、ひんやりとした空気が漏れ出してくる。するりと体を滑り込ませるように部屋の中に入り、後ろ手にドアを占める。
部屋の中は一転、間接照明が使われていた。光を取り込むために大きな窓もあるのだが、きっちりとカーテンが引かれている。
部屋の主、シルフィは壁際にお気に入りのソファを置いて、のんびりと英語で書かれた雑誌に目を通していた。まさしくハリウッド女優らしい姿といえよう。
「遅かったわね」
入り口から数歩進み、シルフィと数メートルの距離まで近づく。
雑誌から目を上げるとザクロに向かって麗しく微笑んだ。ザクロは両肩をすくめてから、謝罪した。
「ちょっと監督に掴まってました」
「ああ、あなたに興味ありそうだったものね」
「知ってたなら教えてくださいよ」
「私の仕事じゃないもの」
ザクロは小さく唇を尖らせた。シルフィはザクロの言葉に笑みを深めるだけ。助けてくれる気は元々なかったらしい。
ザクロの本来の仕事は、この女優、シルフィのSPなのだ。
女性で、シルフィの隣に立っていても違和感のない容姿。英語ができる。その条件に合致したのがザクロだった。
アメリカらしい合理的な言葉にザクロは小さく息を吐く。
「確かにそうですけど」
「拗ねないでよ、可愛らしい顔が台無しよ」
「……日本での仕事はどうでした?」
シルフィの仕事も終わりに近づいていた。SPする期間もあと少し。そう思えば、あの監督との付き合いも僅かだ。
ザクロの言葉にシルフィは少しだけ首を傾げてから、言葉を紡ぐ。
いちいち芝居がかって見えるのは、彼女の職業のせいなのか、ただ単に性格か、ザクロには分からなかった。
「面白かったわよ。あなたのおかげで、今まで以上に色んなことができたしね」
「良かった」
どうやら仕事は十分にこなせていたようだ。
ほっとして頬が緩む。
女優はワガママが常だが、シルフィは特に色んなところに行きたがった。
シルフィは長い足を組み直し、絶妙な上目遣いでザクロを見上げてくる。
「ねぇ、アメリカに来ない? そうすれば給料ももっと上がるし、楽しいことが増えるわよ」
視線に圧を感じた。肉食獣に見られた小動物の気分はこんな漢字なのだろう。
気づかれないように唾を飲み込みながら、手を何度か握り直す。ザクロが言葉を探す間、数秒の沈黙が楽屋を覆った。
シルフィとの仕事はやりやすい。ワガママだがプロ意識があるので、手を焼く場面はなかった。
それでも。
「ありがたい申し出ですが、英語に不安が残るので」
ザクロは眉毛を下に下げ、自分にできる精一杯の申し訳無いという表情を作った。同時に小さく頭も下げる。
ちらりと顔だけ上げてシルフィの表情を確認した。
先程と変わらない様になる姿のまま、組んだ太ももの上に肘をついている。長い手の上に顎が乗せられ、片方の口角だけ引き上げられた。
「あら、振られちゃったわね」
シルフィはソファから立ち上がった。
くるくると雑誌が丸められ、ぽんとザクロの肩に当てられる。それをザクロは受け取った。
空いたシルフィの手が肩をつかみ、耳元に口が寄せられる。
「あなたの英語は完璧よ」
「……ありがとうございます」
礼を言うしかできないザクロにシルフィは軽く肩を叩き、扉へと歩いていく。
ザクロは顔をあげると、その背中を見つめた。
ひらひらとシルフィの手が振られる。
「信頼してるわ。また日本に来たら、よろしくね」
「はい」
扉が閉じられ、ドアの向こうで英語が響く。
ザクロはその向こうにいるだろうシルフィの姿を想像し、瞳を閉じた。
「信頼、ね」
英語を理由に使うには、拙すぎたか。
ザクロは天井を見上げた。
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