初恋の呪い

無銘

初恋の呪い

 彼女の指が私の中へと侵入してきて、的確に気持ちの良い部分をノックする。私は部屋に充満する水音をかき消すように嬌声をあげる。彼女は身体を斜めにして、私にのしかかるようにして、深いキスを落とす。脳の快感をそのままかき回すように舌が私の口内を蹂躙する。それが終わると今度は私の耳元に口を近づけて「好きだよ」と、何度もそう言った。その声は切実で、私のあげる嬌声の何倍も切羽詰まった響きを帯びていた。

 しかし、私は以前とは違ってその言葉を純粋な喜びとして捉えることができなくなっていた。むしろその言葉が鼓膜を揺らすたびに快楽とは別の息苦しさがどんどんと体内に蓄積されていった。

 私は脳裏を占める一人の存在を必死でかき消そうとした。しかし、その存在は純白に付着した墨汁の飛沫のように一向に消える気配がなかった。それどころかその存在によって、却って後ろめたさの混じった快楽が生じてしまう始末だった。

 小柄なはずの彼女の身体は私に息の詰まるような重さを感じさせた。顔を撫でる明るい色をした髪や、頬に触れる小さな手のひらや、胸に押しつけられた小ぶりな乳房や、私を捉えて離さない子犬のような瞳や、その全てが熱を帯びていた。その熱は私の中心に渦巻くものとも、私の脳内を駆け巡っているものとも性質の違うものだった。

 そして、うるさく悲鳴をあげる私の心臓の奥底には彼女の熱とは正反対の空虚な冷たさが蔓延していた。前までは彼女と同じ熱を保てていたのか、それとも初めからこんな風だったのか。今の私に判断することは出来なかった。過去の自分は、彼女と同じ熱に浮かされていたような気もするけれど、その一方で熱に浮かされたようなフリをしていただけで心のどこかでは今抱えているものと同じ空虚さを抱えていたような気もする。

 私は快楽の裏側でそんなことを考えていた。

「好きだよ」

 彼女はやはり何度もそう言った。その言葉が快楽を煽った。それは私の心の隙間を埋めるような言葉だった。

 しかし、彼女の指と言葉と体温で生み出される快楽が増せば増すほど虚しさが募った。私は必死で嬌声をあげた。その虚しさの中心にいる存在とそれに絡みつくじっとりとした熱や快楽や罪悪感をかき消すように。何度も、声をあげた。

 そうやっていつも通りの長い夜は、いくつかの絶頂を通過しながらゆっくりと明けていった。カーテンの隙間から日の光が差し込み、鳥の囀りやバイクのエンジン音やポストの揺れる金属音が耳に届くころ、私たちはどちらからともなくまぐわいを止めてベッドの上で微睡んでいた。先ほどまでの情事の匂いが色濃く残るベッドの上で、朝に漂いながら。

 私よりも一回り小さい彼女の身体は私の懐にすっぽりと収まっていた。彼女の腕はしがみつくように私の背中に回されていた。私の腕は不恰好に折り曲がる形で彼女の身体を包んでいた。身体の至る所で触れる彼女の肌は透き通るように滑らかだった。しかしそんな感触から受ける涼しげな印象とは裏腹に、その体温は情事の時のままの熱さを感じさせた。

 彼女は上目遣いで私の顔を見つめながら「好きだよ」と言った。情事の時のように何度もそう言った。眠気の混ざった穏やかで柔らかな声の中にも先ほどと同じ熱が確かに存在していた。

 快楽という逃避先を失った私は彼女の言葉に曖昧な笑みを浮かべ、それからゆっくりと目を閉じた。今度は睡魔に身体を委ねるように。そうすると都合良く眠気が身体を駆け巡っていった。そうして私は無意識に飲み込まれていった。

 彼女がまた「好きだよ」と愛を囁いた気がした。けれど眠りの淵に立った私にはその声が真実なのか幻聴なのかわからなかった。その言葉は何度も私の頭の中でこだましていた。私の懐にはいつまでも熱くて重い塊があった。






          ◇






 ほとんどの人が当たり前に異性を愛すのと同じように、私は物心ついた時から当たり前に女の子が好きだった。男の子は得意でも苦手でもなく、仲の良い人もその逆も一定の割合で存在していたけれど、その誰にもときめいたことはなかった。私の胸が高鳴るのは決まって女の子だけだった。それも整った顔立ちをして少し大人びたような雰囲気を纏った女の子には殊更に弱かった。

 初めの頃、小学校に通っていた頃に抱いていたのはただの憧れにも似た感情だった。それは誰か一人への執着ではなく、ただ漠然と何人かをいいなと思って、その中の何人かとはごく自然に仲良くなって、けれどその誰にもそれ以上を求めることはなかった。友愛と恋愛の区別すらも曖昧で、ただ後から思い返せばいくつか恋にも似た感覚を味わった瞬間があっただけで、特に誰かとどうなりたいという展望を抱いていたわけではなかった。だから私は内面的にも外面的にも普通の子供と何一つ変わらない少女時代を過ごした。

 私が他人との違いをはっきりと意識したのは中学校に入ってからだった。中学校に入ってしばらくして、私はあるクラスメイトの女の子のことが気になりだした。その子は切長の涼しげな目やすらっとしたスタイルが特徴的な少し大人びた女の子だった。その子は休み時間には決まって本を読んでいて、誰か特定の人と仲良くしているような様子はなかったけれど、かといってクラスで浮いているわけではなく、その容姿と雰囲気を説得力にクラスで確かな居場所を築いていた。彼女は孤独の扱い方が上手だった。

 初めは小学校の頃と同じ憧れだった。ただそれが次第に今までに感じたことがないような熱を帯び始めた。それはちょうどクラスの男子が卑猥な単語を大声で連呼するようになった頃と時期を同じくしていた。私は夜、眠りに着く前によく妄想をした。彼女と手を繋ぐ妄想。それがハグをする妄想になって、キスをする妄想になって、最後には、私は彼女に犯されていた。私はどんどんと大きくなる熱を発散させるかのように、自らを慰めることを覚えた。そしてそんな覚えたての拙い自慰を行う時、私は決まってこんなことを思った。本当に彼女に触れることができればいいのに。本当に彼女が触れてくれればいいのにと。

 私は初めてはっきりとした方向性を持った感情を抱いた。しかし、それをどのように実現すればいいのかがわからなくて、鬱屈とした日々を過ごしていた。

 それは私の初恋だった。しかしその初恋はいとも簡単に打ち砕かれた。彼女に恋人ができたらしい。そんな噂がクラスで囁かれるようになった。なんでもその相手は野球部のエースの三年生の先輩で、その先輩と彼女が一緒に下校しているところをクラスメイトの誰かが目撃したらしい。私は何かに縋るようにそれがただの根も葉もない噂であるように祈った。しかし日に日に似たような目撃証言やそれに付随したいくつかの情報が出回って彼女がその先輩と付き合っていることは、いつしか周知の事実となっていった。

 私は彼女が先輩に組み敷かれ犯される場面を想像した。それは私を暗澹な気分とさせた。私の初恋はその想像が頭をよぎった瞬間に弾けて消えた。

 私は、自らの性的なあり方が、女でありながら女に恋愛感情を抱き女に抱かれることを望むことが、一般的ではないことを実感した。それ以降、中学生の間、私は誰にも恋愛感情を抱くことはなかった。

 ただ、定期的に彼女によく似た誰かに抱かれる妄想をして自らを慰めた。先輩に犯されたかもしれない彼女ではなく、彼女によく似た誰か。そんなふうにして私はやり場のない性欲をどうにか発散しながら中学生を終えた。

 それから私は、地元から少し離れた女子校へと進学した。その高校は、家からバスと電車を乗り継いで一時間と少しの距離にあって、中学校で私の他には誰もそこに進学した人はいなかった。周りの全員が私を知らない人で、失恋の残り香が少しもしない環境。そういった環境を私は求めていた。その条件に私の進学先はピッタリと当てはまった。

 そういった環境のおかげもあって、高校生活を過ごす中で失恋の痛みはどんどんと和らいでいった。

 また、私が男の子から隔離された環境では一種の憧れを女の子に抱かせる容姿であるということもわかった。女の子に好意的な視線を向けられるのは悪い気分ではなかった。ただ、その視線は私があの娘に向けていたような湿度の高いものではなくて、カラッとした一過性の好意で、そのギャップに却って周囲と自分の違いを痛感したりもした。ただそれでも、内に澱んだ思いを抱え続けた中学校生活に比べると女子校での日々は格段にマシだった。

 そんな日々を過ごしていたある日、私は学校へと向かうバスの中で一つの視線と出会った。その視線は私の顔を焼き尽くさんばかりに熱かった。そしてその視線はずっと私に向けられていた。私はそれが気のせいではないことを確信した。正直あまり気分の良いものではなかった。特にそれが男性からのものであると想像するだけで身の毛がよだった。無視をするのが正解だとはわかっていた。

 けれどなぜだかその時の私はその視線の方向へと振り向いてしまった。まるで何かに吸い込まれるように。すぐに、互いの視線が交わった。そして、視線の主を捉えた私は拍子抜けをした。

 なぜならその視線の主は私の危惧とは裏腹に女の子だったから。そして更に驚くことに、その子は私と同じ制服に身を包んで、同じ色のネクタイをつけていて、私はその子の顔に見覚えがあった。

 彼女はクラスメイトだった。クラスメイトの女の子が私に燃えるような視線をぶつけてきていた。そしてその視線は私がそちらを向いてもなお逸らされることはなかった。ただ真っ直ぐに私を見つめられていた。だから、私も何かに強いられるように、その子のことを見つめ続けていた。ずっと目を合わせ続けていると、視線と視線が一つとなって溶け合うような錯覚に見舞われた。

 それから程なくして、私は気がついた。その子の視線は、私が中学校時代に「彼女」に向けていたものと同じ類のものであると。

 やがて、バスは学校の最寄りのバス停に到着した。それを契機に絡まっていた視線の糸は自然に解けた。私は緊張から解放されたような安堵と少しの名残惜しさの両方を抱えながら、降車する人の波に加わった。定期券を機械にかざし、バスを降りると目の前にはいつもの風景が広がっていた。私はいつも通りの道を歩き始めた。

「すいません」

 唐突に、声が鼓膜を揺らした。私はなぜだかそれが自分に向けられたものだと確信して振り向いた。やはり、そこには先ほどの彼女が立っていた。小柄な身体に、童顔で可愛らしい顔。そんな見た目とは裏腹にただ一点、愛くるしい子犬のような瞳から放たれる視線だけが、焦げるような熱をまとって私を突き刺していた。私は再びその視線を真正面から受け止めた。私の瞳が彼女の瞳に吸い込まれた。次の瞬間、彼女は言葉の続きを紡いだ。

「好きです。私と付き合ってください」

 彼女は縋り付くような表情でこちらを見つめていた。そして、彼女の瞳に映る私もまた縋り付くような表情を浮かべていた。ずっと胸の奥深くにしまい続けてきた、誰かに愛されることへの期待がその表情には浮かんでいた。その期待が私に首を縦に振らせた。

「いいよ。付き合おう」

 そうして、私に人生で初めての彼女ができた。

 のちに彼女は頬を赤らめて語った。これが初恋なのだと。私は頷いて、それから言った。私もそうだよ、と。

 彼女ができても表向きの学校生活は何も変わらなかった。私たちは特に示し合わせたわけでもなく、半ば暗黙の了解で、学校で頻繁に言葉を交わしたり、一緒に過ごしたりはしなかった。ただ、たまに登下校を共にしたり、休日に2人で遊びにいったり、何気ないメッセージを交わしたり、そんな日々を積み重ねて少しづつ仲を深めていった。

 そして、付き合ってから一週間と少しが経った頃、私たちは初めてハグをした。少しじめっとした初夏の夕暮れに、彼女の家の近くの公園のベンチで。制服からはみ出した素肌が持つ熱を私は今でも思い出せる。

 付き合ってから一ヶ月と少しが経った頃、私たちは初めてキスをした。彼女の部屋で、二人きりの時に。彼女の艶やかで暖かな唇は、触れると心地よくて、体温が重なる感覚は気持ちがよかった。それは初めて同士の私たちにはとても刺激的で、私たちは互いの唇を使った戯れにほぼ半日を費やした。

 そして、付き合ってから三ヶ月と少し経った頃、何度も唇を重ねた末に、私たちは身体を重ねた。冷房の効いた部屋で少し汗ばんだ彼女の肌の感触を今でも鮮明に覚えている。身に纏った衣服を互いに少しづつ剥がしていく時の、風船を膨らますような高揚も、いつもより深いキスも、今にも破裂しそうな心臓を貫くように、私の中に彼女の指が侵入したあの瞬間も、その全てのシーンが脳裏にきつく焼きついている。

 私たちは互いの体温が混ざり合ったその果てに途方もない快楽を見つけた。その快楽は余りにも大きく、思春期の少女たちにとってそれは余りにも甘美だった。私たちはその魅力に取り憑かれ数えきれないくらいにその行為を繰り返した。何度繰り返しても風船は膨らみつづけ、いつまで経っても割れなかった。私たちはお互いの身体を通して永遠を覗いていた。

 私は放課後の時間の大半を彼女の部屋で過ごした。特に、高校三年生になってからは、受験の影響でお互いの友達付き合いが激減したこともあってほとんど毎日のように彼女の部屋に入り浸っていた。勉強をして、集中力が切れてきたら、身体を重ねてそれが終わればまた勉強をする。私たちの世界には勉強とセックスしか存在しなかった。勉強によって負荷をかけ続けられた脳はセックスによって生まれた快楽を最大限に享受し、また、常に付き纏う将来への漠然とした不安や合格へのプレッシャーもその一時だけは忘れることができた。

 そうした日々の末に、私たちはお互い志望していた大学に合格することができた。私は世間的な評価の高い国立大学に、そして彼女もまた有名私立大学にそれぞれ進学した。

 受験を終え大学入学までの一ヶ月と少しは凪のような日々だった。毎日強いられていた勉強や、進路や合否への不安から解放された私たちは、急に身軽になった心に少し拍子抜けしながら、それでもその安寧を喜びと共に噛み締めていた。

 私たちはストイックな環境下に晒されていた身体や心を少しづつ堕落させていくようにお互いの身体へと沈み込んでいった。それは受験の時の激しく刹那的な交わりではなく、お互いを骨の髄まで味わい尽くすような長くゆったりとしたものだった。それが許されるだけの時間が私たちの前には横たわっていた。そうして、ぬるま湯に浸かり続けるように、私たちはふやけていった。ただ、彼女が私に与える愛と快楽だけがいつまでも熱かった。この時はまだ、その熱さが心地よかった。それはたしかに私が渇望していた熱さだった。

 それが大学に入ってから少しずつ後ろめたさへと変わっていった。「彼女」との出会いがその原因だった。

 彼女とは大学の授業で出会った。その日、私はまだ大学の授業に慣れていなかったこともあって、前もって教室に着いていた。そして左端の一番後ろの席に陣取りぼんやりと教室全体を眺めていた。

 まだ入学して間もないのに、もう既に教室にはいくつかのグループが存在しており各々が楽しげに雑談に興じていた。私は、ああいう風には慣れないだろうなとその様子を諦念混じりに見つめていた。それから、あの子はああいう輪の中心にいるのだろうなとも思った。そんな正反対な私たちが身体を一つに重ねているということが不思議に感じられた。私はチャイムが鳴る直前までそんな思索に耽っていた。そして、チャイムが鳴り、それと同時に教室に入ってきた彼女によってそんな思索は吹き飛ばされた。

 突如その場に訪れた静寂は、チャイムではなく彼女によってもたらされたもののように感じられた。彼女の美貌にはそう思わせるくらいの説得力があった。百七十センチはあろうかという長身にスラっと伸びた手足、整った顔立ちに特徴的な切長の目。その目は血統の良い猫のような勝ち気な印象を抱かせた。そんな彼女の放つ雰囲気はどこか懐かしい匂いがした。

 クラスの大多数の人間が彼女に意識を向けていた。しかし彼女はそんなクラスの雰囲気など意に介さず、モデルのように悠々と教室を歩いていた。彼女は立ち止まることなく教室の奥へ奥へと歩みを進めていった。私は頬杖をついて、ぼんやりと近づいてくる彼女を眺めていた。しかし、それは平然を自分自身に主張するためのポーズで、その実、心の中は大きく波打っていた。彼女が近づくほどに心臓の鼓動が大きくなった。

 だから、彼女が教室の最深部まで辿り着き、私の真横で歩みを止め、そのまま当たり前のように私の隣の席に腰を下ろした時、息が止まりそうになった。

 彼女は席に座るとすぐに、バッグからミネラルウォーターを取り出し口に含んだ。水を通すための喉の動きによって細くて白い首筋が強調され、水滴に濡れた唇はテラテラと光っていた。それから、今初めて気づいたかのようなそぶりでこちらへと視線をやった。視線が正面から衝突した。私は蛇に睨まれた蛙のようになった。柄にもなく、私は何かその場の空気を取り繕うための言葉を必死に頭から探した。しかし言葉は何も出てこなかった。そうしてる間に、彼女の方が先に口を開いた。

「教室の後ろの席っていいよね」

 そう言ってうっすらと微笑んだ。その微笑みからは懐かしい匂いがした。それは叶うことのなかった初恋の匂いによく似ていた。

 私と彼女は学部と学科が一緒だった。そのため、いくつかの授業で彼女とは顔を合わせた。私たちは一緒の授業ではまるで示し合わせたかのように一番後ろの席で隣合わせに座った。けれど、友達になったかといえばそうではなくて、私は彼女の連絡先も知らなかった。それに頻繁におしゃべりに興じるというわけでもなくて、せいぜいしゃべっても、何か取り止めのないことを二、三言といった感じだった。

 それでも私は彼女と一緒の授業をいつしか心待ちにするようになった。彼女の隣にいるだけで高鳴る心臓が心地よかった。たまに目があった時、彼女が浮かべる柔らかな微笑は私の心を強くかき乱した。彼女の存在が実際の関係の何倍も大きいものになった。

 私はいつからか再び悪習に手を染め始めた。彼女を思い浮かべながら自らを慰めるようになった。隣に座る彼女の匂いや微笑の記憶を介するだけで快楽は何倍にも膨れあがった。そして、あの子と身体を重ねる時にまで脳裏に彼女の存在がちらつくようになった。あの子とのまぐわいは以前までの純粋な快楽によるものではなく、罪悪感混じりの後ろめたい快楽に塗れたものへと変わってしまった。いつからかセックスまでもが自慰の延長線へと変わり果ててしまった。私の心の真ん中から延びる線は真っ直ぐに「彼女」へと向かっていて、私を犯すあの子の指や柔らかな体温や囁かれる甘い言葉は全てその線を引くための定規にしかならなかった。

 それなのに、今日もあの子は執拗に愛の言葉を囁く。

「好きだよ。世界で一番愛してる」

 昔はあれだけ欲していた言葉なのに今ではそれが重くて仕方がない。だから私は色々なものから逃げるように強く目をつぶった。

 しかし、まぶたの裏には初恋の残滓が呪いのようにこびりついていた。その残滓が積み重ねた日々を物凄い勢いで飲み込もうとしていた。

 私はどこにも逃げられなかった。初恋が止まる気配はなかった。






          ◇






 あなたの顔が好きだった。男役のようにはっきりとした目鼻立ちや、それとは少し不釣り合いな色素も厚みも薄い唇が好きだった。そのアンバランスさが却って魅力的だった。

 あなたの纏う雰囲気が好きだった。いつだって背筋をしゃんと伸ばして毅然としているのに、ふとした仕草に気怠さが滲む、その立ち居振る舞いが好きだった。

 あなたの声が好きだった。耳に残るハスキーな声や、私に抱かれている時にあげる普段からは想像もつかないような甲高い嬌声が好きだった。

 あなたの性格が好きだった。大抵のことには無関心で冷めたところがあるのに、意外と寂しがりで愛されたがりなそのギャップが好きだった。あなたと同じ時間を過ごすうちに、あなたは弱いがゆえに無関心の盾で自身を守っていることに気づいた。私はその弱さが好きだった。あなたは常に愛されることを望んでいた。

 クラスで、通学中のバスで、私の視線は自然とあなたに吸い込まれて意識するまでにそれほどの時間は要らなかった。気持ちの質量も熱量も抱えきれないほどに大きくなってそんなことは初めてで、気持ちを抑えられなくなった私はあなたに声をかけてしまった。その瞬間は私が私じゃなくなってしまったみたいだった。だってあまりにもその行動は突拍子で奇妙で、けれどその時の私にはあなたにこの想いを伝えたいというその一心しかなかった。

 初恋は叶わない。暴走して止まらない自分の醜態を現在進行形で体感しながら、その言葉を噛み締めていた。自分の想いを口に出した瞬間から私はそんな後悔に苛まれていた。

 しかし、あなたは首を縦に振った。叶うはずのない初恋が叶った。思えばその時に違和感に気づくべきだった。そんな簡単にあなたを手中に収めることができるはずがないと。

 けれど、私にはそれが初めてだったのだ。初めての恋で初めての告白で、それが受け入れられた瞬間に客観視は全てあなたへの愛とあなたの美しさによって塗りつぶされてしまった。

 初めは幸せなだけだった。急速に付き合い始めた私たちはそれとは裏腹に、ゆっくりと一緒の時間を過ごしてゆっくりとお互いのことを知っていった。手を繋ぐところから始まって、キスをして、身体を重ねて、全ての初めてが幸せだった。

 ただ、何度か身体を重ねるうちに、"初めて"ではなく"いつも通り"の日々を重ねるうちに、私はじんわりと真実に気がつき始めた。

 恐らく彼女の初恋の相手は私ではないことに。彼女は私が彼女に対して抱いている気持ちほどは私を愛してくれてはいないということに。そして、これ以上彼女の私に対しての気持ちが大きくなることはないということに。

 それは初めて感じる悲しさだった。大きすぎる虚しさだった。私は何度も泣いた。いつでも幸せなのにいつでも辛くてたまらなかった。それでも私にあなたを手放すという選択肢はなかった。私の人生の全てはあなたに結びついていた。あなたはそうじゃなくても、私はそうだった。そうして私たちは歪なバランスのまま身体と日々を重ね続けた。

 だからその日が来ても、私は案外動じなかった。初めての恋でも、あなたの感情は肌と嬌声を通して手にとるようにわかった。あなたの中に私以外の誰かへの感情があると気付いても私はうろたえなかった。日に日にそれが強くなってもそれと比例して別れの匂いが濃くなっても私は何も変わらなかった。だって予期していたものが実際に来ただけだったから。

 だから私は何度も愛を囁いた。執拗に愛を囁いた。その愛だけが私の持ち合わせた真実だった。あなたの気持ちが私からどんどん離れていってることに気づいていても、それを止めることはしなかった。

 私の過剰な愛に対して、罪悪感やいたたまれなさを抱いて苦しんで欲しい。あなたの恋が成就して別の人と付き合ったとして、その時はその人の愛の大きさに物足りなさを感じて欲しい。あなたの恋が成就しなければその時は失恋の辛さを紛らわせるために都合よく私に縋り付いてほしい。

 私が囁く愛の言葉は呪いだった。クールな佇まいで全てのものに無関心な態度で、けれど寂しがりやで愛されたがりのあなたを一生私に縛り付けるための。

 取り止めのない思考を切り裂くようにインターホンが鳴った。大事な話があるから直接会って話がしたい、昨日彼女からそんなメッセージが届いた。

 私は深く息を吸い込んで彼女を迎えに玄関へと向かった。

 あなたは私にたくさんの初めてをくれた。そのどれもが大切で愛おしくて、けれどあなたとのお別れだけは愛せる気がしなかった。際限なく膨らんだ初恋は今にも消えてなくなってしまいそうだった。私はそこから目を逸らすようにいつまでも、ドアも開けずに佇んでいた。

 すると、控えめなノックの音が部屋に響いた。私にはそれが破裂音に聴こえた。

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初恋の呪い 無銘 @caferatetoicigo

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