コロッケを買いに

jima-san

コロッケを買いに

 今夜はコロッケにしようか。妻がってから僕の食事はもっぱらスーパーの惣菜で済ませることが多くなった。ガッツリ自炊できるほど料理のレパートリーはなく、これから覚える熱意もない。


 揚げ物や煮物、サラダを買ってインスタントの味噌汁を準備すれば、まずまず食卓らしくなるものだ。


 飯だけは仕方なく自分で炊く。

 君が生きていたら「それは炊飯器が炊いているの。あなたはスイッチを押しただけでしょう」と言って笑うだろう。


 そうだった。思い出した。洗濯の後、僕が自分の作業服に油汚れが多かったのを謝ると、君は「洗濯したのは洗濯機よ。私はスイッチを押しただけ」と笑ったのだ。


 僕はなぜもっとたくさん君に感謝の言葉を伝えなかったのだろう。




 コロッケを買うのだった。君のことを思い出して、つい惣菜売り場を通り越していた。

 明日の朝のパンは足りている。牛乳も一人ではそれほど減らない。一人きりになってから食材も調味料もなかなか減らない。消費が多くなったのは缶ビールだけだ。君の怒る顔が目に浮かぶようだ。


 脂っこいものを食べてはアルコールを消費する僕を嘆き、君が缶ビールを隠したことがあった。

「長生きできないでしょ」君は睨んだが、僕は君より長生きをすることなど望んでいなかった。


「約束が違うだろう」僕は独り言を漏らす。約束なんかしてないけれど。


 


「僕は世の中が怖いようだ。君以外の人間が信用できない」


 僕が言うと、君は困ったように微笑んだ。


「私を信じてくれているというのは嬉しいけれど」


「あなたはもっと世界の美しさを知るべきだわ」


 僕は笑った。

「何を大げさな」



 コロッケを買うためにシリアル売り場を右に曲がり、惣菜売り場へと戻る。


 そういえば以前、君が「グラノラを買い忘れた」というので、混雑するレジ前から僕が買い足しに出たことがあった。まず僕はグラノラというものを知らなかった。

 君から「ほら、私が朝ヨーグルトと牛乳を入れて食べている…」と聞いて、ああ、あれかと引き受けたのだが。結局僕は迷子のように、別の売り場の前で固まっていた。


 君はレジをすべて済ませ、僕を迎えに来て呆れた。

「まさかドッグフード売り場の前で迷子のように固まっているとは」


 …パッケージが似ているだろう。似ていないか。使えない男だな、僕は。


「大丈夫。そこも良くて結婚したんだから。織り込み済みよ」


 褒められていたのか、けなされていたのか。


 何でもっと君とそんなことをたくさん話さなかったのだろう。

 僕は僕が君を選んだ理由をこの30年間で話した記憶がない。

 何て使えない男なのだろう。それも君は織り込み済みだったと笑ってくれるのか。




 …惣菜売り場をまたも通り過ぎそうになって、苦笑いをした。

「これではスーパーをウロウロしている変な人みたいだな」

 僕がそう言えば、君はきっと笑ってくれただろう。

 僕は癖で自分の右肩の斜め下を見る。そこにほんの少し前まで君の顔があったのだ。


 

 惣菜売り場を一回り見てみる。

 だし巻き卵などいつから食べていないのか。

「すべての人間は自分以外を出し抜こうとしている。そういうものだよ」

 だし巻きからずいぶん妙なことを思い出したものだ。


「そんなことはないわ。他の人の幸せを自分のもののように感じられる人が確かにいるのよ」

 君が困ったような顔で微笑むけれど、僕はねつけた。

「親切な顔で近づく人間ほど怪しいものはないよ」




 コロッケを買うためにずいぶん売り場も気持ちも遠回りをしたものだ。

 つい2個パックを手にして、また心と体の動きが止まる。

「二人で分けられるもの」というのが選択の基準だった日々。


 そうか。本当にもう君はいないのか。




 コロッケは君が好きだった。いや、それ以上に僕が『君のコロッケ』が好きだったのだ。

 申し訳ないことに、僕はコロッケ作りなんて簡単なものだと思っていた。

 台所から「アチ、アチチ」という君の小さな悲鳴が聞こえた。

 フライパンで揚げ焼きをしている君の声だった。


 僕が笑い声をあげると君は珍しく怒った。

「本当に熱いのよ。笑うとはひどいわ」


 コロッケは家で作ろうとすると、結構な手間が掛かるものだと僕は君がいなくなってから知った。

「美味しいよ。本当に揚げたては美味しい」なぜこの一言を言えなかったのだろう。


 君ともっともっと話せばよかった。君にその都度「ありがとう」を伝えればよかった。

 照れないで君に「好きだ」と何回でも言えばよかった。





 唐突に思い出した。


「もし私に何かあって、それでもコロッケが食べたいと思ったら」


「何かあってって」


「ケガをしたとか、入院したとか」


「考えたくないけど」


 君がまた微笑む。

「スーパーも美味しいけれど、商店街の肉屋さんに行ってみて」


 僕はしばらくスーパーの惣菜売り場に立ち尽くして、それからコロッケを棚に戻した。






「私が魔法をかけてあげる」

 君は病院のベッドで言った。


「僕はファンタジーは好きじゃないんだ」


 構わず僕の右手を持つと、君は両手でさすった。


「何をしているんだい?」


「小麦粉で白くしているの」


「…?」


「右手を出しても、左手を出してもあなたはコロッケを売ってもらえるでありましょう」


 イタズラっぽい君の顔を僕は見ているだけだった。

 痩せてしまった腕からは目をそらした。


「あなたはもっと本を読みなさいよ」


「そんな無駄な時間はないよ」

 僕は君に布団をかけ直して、ポンポンと軽く叩いた。





 それから数日して君は逝った。静かに。




 葬儀で僕は涙を流さなかった。不思議に出てこなかったのだ。君がいないことを実感できなかったのかもしれない。あるいは元々僕はそういう冷たい人間だったのかもしれない。









「こんにちは」


「はい、いらっしゃい」


 愛想の良い店主が赤い丸顔をこちらに向ける。

「あっ、お久しぶりですね」


「いえ、店頭で申し訳ありません。葬儀に来ていただいてありがとうございました」

 僕の本当に形式的なあいさつだったが、店主の奥さんも顔を覗かせた。


「あらあら、…もう大丈夫ですか?困ってることはありませんか?」

 店主の奥さんは心から心配だという顔をしている。そういうものだ。


「いいえ。もうふた月ほど経ちましたから…」


 僕は用件を忘れないうちに続ける。

「生前、家内からコロッケが食べたくなったら、こちらを訪ねるよう言われていたことを思い出しまして」


 その言葉に店主も奥さんも一瞬黙る。


 それから奥さんはタオルで顔をおさえ、店主も目頭を指でつまんだ。

「そうですか…。来ていただいてありがとうございます。このコロッケは奥さんと私の合作みたいなものでして」


 妙な言葉に僕は目を丸くする。


「?」


 店主が泣き笑いで話す。

「あんまり売れなかったんですよ。うちのコロッケ」


 奥さんもタオルから顔を上げる。

「あなたの奥さんがいろいろ助言してくれてね。何だか最初はずいぶん大きなお世話だって思っちゃったけど」


 思わず店主も僕も一緒に小さく笑った。そうか。君はどこに行っても君だったのか。

 僕はよく考えたら町の人と君がどんな話をしていたのか知らない。

 なぜこんなに悔やむのだろう。

 もっともっと君を知っておかなくてはいけなかったんだ。


「あなたの奥さんが家で作り、私はここで作って。それでお互い情報交換をして、最終的に出来上がったのがこのコロッケってわけ」


 店主の奥さんが自慢げに言う。君が作っていたのはそういうコロッケだったのか。


「コンデンスミルクやオリーブオイル、ナツメグが入ってます。ホントは企業秘密だけど、ご主人は身内みたいなものだから」


 店主の言葉にくすぐったいものを感じる。君以外に僕の身内がいたのか。







 夕食用をふたつ、店主が「熱々を道ばたで頬張るのがコロッケの醍醐味」と強く勧めるため、もうひとつ買ったコロッケを歩きながら頬張る。


 …この味だ。君のコロッケの味だ。ハフハフと食べながら家路を歩いた。


 「アチ、アチチ」と僕を怒る君の声、君の顔が昨日のことのように蘇る。


 君はもういないのに当然のように僕は腹が減り、このコロッケはこんなにも美味しい。



 商店街の出口付近で酒屋の女将さんから心配そうに声をかけられる。

「どうしたの?だいじょうぶ?」


 彼女は君と特に仲の良かった女性だ。


 僕は知らないうちに涙を流していたらしい。あの日、流れなかった涙だ。

「大丈夫です。すみません」


 ハンカチなど持っていない僕は服の袖で涙をぬぐった。


「ちょっと待っててね」


 彼女が店の奥に入り、数枚のハンカチを持ってくる。

「はい、これ」


「これは?」


 女将がなんとも言えない顔で私を見る。

「病院へお見舞いに行ったとき、あなたの奥さんに預かったの。『主人の様子を時々見てね』って」


 そして私にハンカチを差し出した。

「で、『ハンカチなんか普段持たない人だから、必要だと思ったらこれを渡して』って」


「そんな」


 どれだけ君はあちこちに魔法をかけてから逝ったんだ。

 僕をちゃんと泣かせるために、君とちゃんとお別れが出来るように、僕に前を向かせるために。

 あれほどファンタジーは嫌いだと言ったのに。


 君の声が聞こえる。

「前を向いたのはあなた自身よ。私はスイッチを押しただけ」



「ねえ。不思議でしょう。あなたが泣きながらここを通りかかるのを知ってたみたい」

 女将さんの顔はもういない君のことを確かに心から懐かしんでいてくれていた。


 そしてクスクス笑いながら付け足す。

「まるで迷子みたいでしたよ。涙もふかず」


 僕は顔を赤くして呟く。

「お恥ずかしいところを」


「でもねえ、奥さん言ってました。そういうとこがいいんだって。フフフ」


 それから彼女は付け加える。

「幸せそうなあなたとあなたの奥さんを見ていると私も幸せだったわ」


 そう言ってハンカチを改めて差し出した。


 コロッケの油で汚れた手と買い物袋を持った手、右手と左手のどちらを出そうかと迷いながら、そのハンカチを見た。



 僕はもう一度固まる。ハンカチにはこう刺繍してあった。


『人間ていいものでしょう』


 僕はまた知らないうちに涙を流していたらしい。何粒かのしずくがハンカチの上に落ちた。




「そうだね。人間ていいものかもしれないね」


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