伝承と神仏の習合

葛西 秋

那智権現と飛龍権現の本地仏がともに千手観音である理由について

 本小論は、なぜ那智権現と飛龍権現の本地仏がともに千手観音であるのか、というその問いについての私見である。この問いは2023年7月にTwitterのあるアカウントが発したツイートで、たまたま私のアカウントのタイムラインに流れてきたものである。


 なぜ那智権現と飛龍権現の本地仏がともに千手観音であるのか。


 興味深く思い調べ始めたところ、敢えて調べてみなければ知らなかったことが問いの本質であることが分かった。ただたまたま目にしたことでまったくの予定外だったので十分な時間をとって深く調べることはできなかった。だがいつか今回の調査を入り口にしてさらに深い理解に繋げることができるのではと思い、結果をまとめておくことにした。


 那智権現と飛龍権現という名の二つの神社は熊野にある。熊野は紀伊半島の南端にあって和歌山県と三重県に跨った地域である。2004年に世界遺産に登録されたこの地は古くからの信仰の地であり、熊野古道がその巡礼の道として国内外から多くの人々を今も引き寄せている。


 熊野信仰は、古代からの祭祀神道と仏教が融合した神仏習合の信仰の特徴を良くとどめている。


 熊野の地の祭祀神道は、熊野三山に祀られる複数の神への信仰である。これらの神々は熊野十二所権現と呼ばれる。権現とは仏が本地垂迹により神の姿を借りてこの世に現れ出でたときの呼び名である。


 仏が神の姿を借りて現れるという本地垂迹の考え方は、仏教が日本に渡来したときから始まって平安期に隆盛を見せ、江戸時代には普遍的であった。聖徳太子の名で知られる厩戸皇子が積極的に関与したともいわれている。


 本地垂迹によって日本の神々は仏教の仏と融合し、神仏習合という日本独特の信仰形態が生まれた。


 神仏習合には律令を以って国を治めようとする王権(のちに朝廷)が、地方の氏族の懐柔に用いた政治的手段の一面がある。仏と神の融合の過程は各地に伝承として残っており、その中には弘法大師空海の名が現れる。


 本地垂迹により分かち難く結びついた神仏習合の神と仏の有り様は、明治維新期に行われた神仏分離にいたるまで日本の古代から近世を貫き、この国の宗教の基盤を形成した。


 本論の主題である熊野信仰において神仏の習合が起きたのは、平安時代中期から後期のことであると考えられている。


 長寛元年(1163年)に成立した「熊野権現御垂跡縁起」によれば、熊野の神はとして初めて人の前に現れた。熊野の山に現れた神々を見つけたのは山奥に獲物を探しに分け入った狩人だった。


 狩人は三本の木の元に柴の祠を作って三神を奉った。最初同じ場所に祀られていた三座の神は、やがて結・早玉の母子神を祀る熊野両所と、家津美御子を奉る證誠一所に社屋を分かつことになる。この三座の神を中心にして熊野には多くの神々が祀られるようになっていった。


 当初は三座だった熊野の神を増やして豊かな信仰の場として育て上げたのは、山岳修験者であると考えられている。修験者は熊野に密教をもたらし、平安時代中期には仏教と融合した熊野信仰となっていた。


 すなわち、熊野十二所権現の成立である。

 熊野は当時の皇族の篤い信仰を得て、いわゆる熊野詣が頻繁に行われるようになった。熊野詣を複数行った皇族として、後白河天皇や後鳥羽天皇が挙げられる。


 熊野の神々は胎蔵界曼荼羅の仏に比されて本地仏が決められ、熊野十二所権現となった。熊野十二所権現の内訳は、三所権現、五所王子、四所明神からなる神々である。


 このうちを始祖とする三所権現が熊野信仰の中心である。祭祀神道を根源をする信仰の中心と胎蔵界曼荼羅の中心を合わせて、熊野の神々には異なる本地仏が与えられていった。


 三所権現は熊野本宮、大社熊野速玉大社、熊野那智大社から構成されている。

 本宮である熊野本宮大社には胎蔵界曼荼羅の中心である阿弥陀如来が、熊野新宮である熊野速玉大社には薬師如来が、そして熊野那智大社には千手観音が、それぞれの本地仏として習合された。


 一方、熊野那智大社では熊野十二所権現のさらに上に瀧宮を加えて熊野十三所権現としている。飛龍権現とよばれるこの神社の成立は中世のことであると考えられている。つまり既に熊野十二所権現による曼荼羅が完成した後に飛龍権現は出現したのである。


 飛龍権現の本地仏を決めるにあたって曼荼羅内の階位を譲ることは、熊野十二所権現のどの神社でも、また飛龍権現自体も良しとしなかったのだろう。飛龍権現は三所権現の第一殿である熊野那智大社と同座に置かれ、熊野那智大社の本地仏である千手観音を本地仏として共有することになった。


 本論の問い、なぜ那智権現と飛龍権現の本地仏がともに千手観音であるのか、に対する答えとしては、熊野十二所権現の上に飛龍権現をおいたから千手観音被りが生じたからであり、この答えは熊野信仰の神仏習合の歴史を示す端的な事象であるとも云える。


 今後の課題は、飛龍権現の成立についての調査と本地仏を決めた経緯について手掛かりとなる文書を探索することである。


参考文献

 佐藤 正彦, 奈良・平安時代の文献に見える熊野三山社殿の状態, 日本建築学会論文報告集, 1975, 235 巻, p. 103-110


 和歌山県教育委員会 2012 『熊野参詣道王子社及び関連文化財学術調査報告書』和歌山県教育委員会

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