07.黒猫以外、誰もいなかった

 トム爺さんことトムソンは、役所までひとっ走りした。久しぶりに四つ足で走ったが、腰痛や肩こりが楽になる効果に驚く。


「こりゃ、定期的に四つ足で走ったほうがよさそうじゃ」


 機嫌よく自宅の前を通り過ぎ、熊のブレンダが住む家に足を向けた。基本的には二本足で生活することが多いが、長距離を走るなら四本足の方が断然速い。元が四本足の動物だったから、という説が有力だった。神話や御伽噺に似た記述が見つかっている。


 作業をするために立ち上がれば、高い位置に手が届いて便利だ。その辺は効率よく使い分けてきた。今回のように遠出をする機会が減ったこともあり、四つ足で走る快適さを思い出したトムソンは全力疾走する。思ったより早く到着したが……。


 丸太を重ねたログハウスの玄関が空いていた。ブレンダは几帳面ではないが、扉くらいは閉める。変だと思いながら近づけば、大きな蹄の跡を発見した。これはムース系のヘラジカだろう。


 思いつくのは、元気なカーティスか。あのガキが悪戯でもして、叱られたのかもしれん。追いかけていく際に、扉を閉め忘れたのだろう。そう思いながら、先にお邪魔するかと中に入った。扉を閉めるために二本足で立ったトムソンは、眉を寄せた。


 ここに来たのは、別世界から来た『ニンゲン』の申請書類を作るためだ。つまり、普段は一人暮らしのブレンダの家には、ニンゲンがいるはず。


「ああ、その……トムソンじゃが……誰かいるかのぉ」


 しーんと静まり返った家の中には、誰もいなかった。見回った中で、確認していないのは寝室だけ。一応家主のブレンダは女性なので、遠慮したのだが……こうなったら確認しておくべきか。


「そのぉ、悪いことはせんから……ちょっと不在を確認するだけじゃ」


 ぶつぶつと言い訳しながら、寝室の扉を開ける。そっと足一本ほどの細さで開いて、鼻をひくつかせる。誰もいなそうだ。ぱたんと閉じて「心臓に悪いのぉ」とぼやいた。


 独身のトムソンにとって、ブレンダは理想的な女性なのだ。やや年配だが、トムソンだって若くない。お互い様だし、気心知れた相手で、よく料理を分けてもらった。その優しさも、豪快で細かいところを詮索しないおおらかな性格も、すべてが好ましかった。


 種族が違おうと、まったく気にならない。トムソンは匂いを思い出すように、ゆっくり深呼吸した。


 にゃー。


 足元で何かの声がして、トムソンは飛び上がった。


「うわあ……ん?」


 足元に猫がいた。獣人なら四つ足でも大型犬ほどのサイズがある。しかし、片手で持ち上げられそうな黒猫は、じっと見上げてきた。そういえば、ブレンダが「ニンゲンは本物の猫を連れている」と言ってたっけ。


 思い出したら、ブレンダの寝室を覗いた己の行為が連想された。自分一人だと思って、彼女の寝室の匂いを反芻したことを、恥ずかしく思い頬を染める。後で謝っておこう。そんなつもりではなかったが、きっと嫌だろう。


「猫や、ブレンダとお前さんの飼い主はどこだ?」


 見つめるだけで、ノアールは返事をしない。獣人ではないので、当然だった。そのことに思い至り、トムソンの眉尻が下がる。


「匂いを辿るか」


 玄関まで戻り、くんと鼻を動かした。様々な者の香りが混じっている。ブレンダ、カーティス、知らない匂い、それから……知らない毛皮の匂い。


 本物の猫は何匹だったか。ブレンダの話を思い出すが、数を聞いた覚えがない。となれば、最低でも二匹はいただろう。


 まだ状況は分からないが、トムソンは究極の二択を迫られた。追うか、待つか。迷った時間は短かった。


「追うか。お前さんはどうする?」


 するりと足に身を擦り寄せた黒猫に、トムソンは頬を緩めた。一緒に連れて行けばいい。猫を守るくらい、年老いたわしにも出来るじゃろうて。

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